無知な男
魔法使い―――
その言葉に惹かれ見知らぬ男を招き入れてしまったが、あまりに不用心であったと後悔しながらもイオは横目で男を観察する。
僅かな明かりを灯した室内は窓を閉め切り蒸し暑い。
一年で一番暑い季節であるが、魔物を警戒し戸締りをするのは当然であるので仕方がない。だが粗末な木の椅子に腰を下ろした男はこの暑さの中にあって汗一つかかず、涼しい顔で先ほど渡したパンを食みながら室内を観察していた。
身に纏う黒いローブは長旅のせいか大分くたびれている。裾や袖口は綻び破れもあるが、パンを持つ白い指には大粒の宝石が鎮座する指輪が嵌められ、金に困っての物取りには見えない。
年の頃はゲオルグと同じ三十…もしかしたらそれ以上行っているかもしれない。
手入れのされていない黒髪が肩を流れていたが綺麗な顔立ちをしており、粗末な身なりをしてはいるが、くたびれたローブの生地は上等な物に見えた。背筋をぴんと伸ばして座る姿もどことなく洗練された印象を受け、なんというか、田舎に住まうイオからすると男には泥臭さを感じないのだ。
イオが少しだけ温め直したスープを男の前に差し出すと、男は柔らかに微笑んでありがとうと礼を述べる。
所作は優雅だが怪しい事この上ない。そもそもこんな黒いローブ姿でうろつく人間など今時いないのではないだろうか?
「魔法使いって言っていたけど、冗談でしょう?」
「冗談?」
意外そうに男は顔を上げると目を丸くする。
「何か不都合でも?」
「不都合って…魔法使いなんて言って、誰かに聞かれたら投獄されるのよ?!」
「投獄、ですか。」
イオはそんなの当然とばかりに溜息を落とすと、テーブルを挟んで男の前にある椅子を引く。
「皆が魔法使いなんて厄介なものに関わりたくないってのに、冗談でも自分からそんなの言うべきじゃないわ。」
「ああ、それであなたはこんな場所に独り住まいなのですね。」
その言葉にイオは下ろしかけた腰を止めた。全身から一気に血の気が引くのがわかる。
「―――何ですって?」
必死に感情を抑えようとしたが、自分でも声が震えるのがわかった。
対するローブの男は変わらず穏やかにパンを食みながら赤い視線をイオに向ける。
「家屋からは私達の他に人の気配を感じません。ご主人と言うのも身を守る為故の方便でしょう? 知らぬ振りで過ごそうかと思いましたが申し訳ない、長い時間を世間から遠ざかっていたせいで世の中の常識について行けないのです。あなたは魔法が使えるせいでどのような不条理を? 魔法使いであるのはそれ程住みづらい世の中なのでしょうか?」
男の言葉にイオはぽかんと口を開けたまま、足の力を失いよろよろと腰を下ろす。
不条理? 住みづらい世の中?
イオだってそんなのは聞いた話でしか知らない。魔法が使える事実は秘密にして何とか隠し通せているので現実に自分自身が被害を被った訳ではないからだ。
ただ、魔法使いは世界を崩壊へと導く悪しき存在であり、それ故に恐れられ迫害されるという事実があるだけだ。魔法が使えるものは鎖に繋がれ王都へ連れて行かれる。それから一生の自由を失い、永遠の忠誠を誓わされるのだと国中の誰もが、子供だって知っている話だ。
その事実を目の前の男は知らないという。
担がれているのかとも思うが、イオを見据える赤い瞳は子供のように純粋に輝いている。
「あなた…いったいどんな田舎から出てきたっていうのよ―――」
イオは男に世の中の、魔法使いに対する常識を狐につままれた思いで語り始めた。