3分ベーカリー
「パン」「封筒」「新しい」の3つのお題で書いた三題噺です。
なおこのお話は、以前書いた三題噺『吹雪の夜に』の前日譚となっています。
ただし、『吹雪の夜に』を読んでいなくても、この作品を楽しむ上で問題ありません。
会社帰り。アパートの自室に帰ったユリアは、ドアポストを覗き込んだ。ポストに入っている夕刊を取り出すと、その下に茶封筒が見えた。
1人暮らしのOLに届く郵便物は、ほとんどない。こんな無骨な茶封筒を送ってくる相手は、1人しか心当たりがなかった。
誰かに頬を引っ張られているように、ユリアの表情が知らずににんまりとした。
靴を脱いで、いつもより早足で部屋の中に入る。1人暮らしには十分すぎる広さの1LDK。ちなみに部屋数は2つ――“1”と“LDK”だ。リビングのテーブルの上に、夕刊と茶封筒を置く。その隣に、会社帰りに買ってきた夕飯の材料を置いて、ひとまずユリアはトイレへ行った。
夕飯の材料を冷蔵庫にしまうと、いつもならここで入浴する。だが今日は、蛇口をひねるだけでまだ入らない。先に手紙を読んでしまおう。
スーツのまま、椅子に腰掛ける。テーブルの上の茶封筒を手に取った。
茶封筒を裏返す。差出人はアルベルト。
いまユリアが付き合っている、13歳年上の恋人だ。ユリアは中の手紙を破かないよう、慎重に封を指で切った。
中に入っていたのは、飾り気のない便箋2枚。そこに、ワカメのような字が綴られている。アルベルトは、どうにも字が下手だった。線をまっすぐ書くことが出来ないようで、いつもIやTが小刻みに震えていた。真面目で几帳面な彼の性格とは裏腹だ。もしかしたら、真面目なのは外面だけで、根は無精者なのかもしれない。アルベルトの字は、彼の子どもっぽい裏の顔を教えてくれている気がして、ユリアはいつも、ほくそ笑んでしまう。
さてその内容は、ひどく実直で、いつもと代わり映えのしないものだった。
まずは、前回ユリアが書いた手紙の内容への返事。次の週末に遊びに来ませんか……というユリアの提案に対する返事は、
『申し訳ないが、今週末は忙しくて、会えそうにない』
であった。その一文に、ユリアはしゅんとした。彼女が会いたいって言ってるんだから、仕事なんて放っておけよー。ユリアはていっ、と手紙にデコピンした。
『しかし、来週末なら会えると思う』
その一文を見て、ユリアの機嫌は一瞬で直った。来週末なら、自分も特に用事はない。
これで来週末は、アルベルトと会える。ユリアは再び、にんまりとした。
手紙の続きは、やはりいつも通りであった。ユリアへの返事が終わると、今度は自分の話。アルベルトは現在、工業機器のエンジニアをしていて、方々の工場を訪れては、機器の設置や修理を行っているらしい。訪れた地域での面白い土産話を、いつも手紙に書いてくれていた。
『この間訪れた地域では、子どもの10歳の誕生日祝いに、パンを食べるそうだ』
いつも思うのだが、何故仕事に行った先で、そんな風俗習慣にまで触れられるのだろう。よほど、人付き合いが上手いのだろうか。真面目な人だし、誰からでも好かれるタイプではあるが。
アルベルトについて想像を膨らませながら、ユリアは続きを読んだ。
『その話を聞いて、きみがしばしば、パンを作ったと手紙に書いていることを思い出した。今度会うとき、是非私にパンを焼いてくれないか』
こっちの提案は一蹴するくせに、自分は注文を出すのかよー。ユリアはブツブツ言ったが、その口元は明らかに笑っている。ユリアは、半年くらい前からたまにパンを作っている。本当はお菓子作りをしようと思っていたのだが、その練習として始めたパン作りに、すっかりはまってしまった。最近は菓子パンを作ることも多いから、その意味ではお菓子作りに到達したと言えるが。
その後、アルベルトの手紙はもうしばらくパンを焼く風習について語り、最後に自分自身のことと、ユリアの健康を案ずる一言を添え、締めくくられていた。
手紙を折りたたみ、再び茶封筒にしまう。
パンが食べたい、か。そんなに食べたいのなら、作ってやるのもやぶさかではない。
アルベルトは、甘い物は苦手だったかな。すると、お菓子っぽいものは全部ダメだ。レーズンパンくらいなら、平気だろうか。先の地域では、10歳の誕生祝にシナモンロールを焼くことが多いとあったし、それでも良いな。
「10歳なんて、遠い昔か」
ユリアは1人でくすくす笑った。ユリアはいま23歳、アルベルトは36歳。アルベルトが10歳の頃、ユリアはまだ影も形もない。アルベルトが13歳のときようやく生まれ、アルベルトが20歳のとき、ユリアは7歳である。
〔……アルベルトって、まさか、ロリコン?〕
などと考えていると、風呂場から滝のような音が聞こえ始めた。
風呂が溢れたようである。
ユリアは慌てて、止めに走った。
2週間近くが過ぎた。ユリアは早朝から、パン生地をこねていた。
アルベルトは今日の午後に来る。軽く昼食を食べて来るそうだが、パンのために腹を空けておくと言った。
とはいえ、そんなに大量に作れるわけではない。オーブンは家庭用の小さなものだし、何よりパン作りは重労働だ。朝早くおきて、5~6個作るのが精一杯である。
作るパンはシナモンロールに決めた。カップケーキよりも一回り大きなサイズ、とぐろを巻いた形。無味そうに見えてほのかに香る桂皮は、コーヒーに良く合う。大きな長方形の生地を巻いてロールにし、それを等分していけば、簡単に量産できる。「こんなにたくさん作るなんてすごいな」と思わせておいて、その実、疲労対個数はかなり高い。10歳のお祝いにシナモンロールを振舞うのも、こうした事情からかもしれない。
混ぜたパン生地をまな板の上に載せ、こねていく。伸ばした生地を両手で持ち上げ、手で持ったまま、まな板に叩きつける。手で持っている部分を、叩きつけた生地の上に載せ、押し付ける。以下、繰り返し。
30分近くに渡る重労働である。ユリアは額に浮かぶ汗を袖で拭きながら、生地をこねた。
生地をこねたら、発酵。およそ1時間放置し、イースト菌が炭酸ガスを発生させるのを待つ。
ユリアは生地をボウルに入れ、ラップをした。
お昼を回り、ユリアは最寄のバス停でアルベルトを待っていた。待合室はなく、バスの時刻表のついた看板と、木製のベンチ、それを覆うプラスチックの屋根があるだけである。ユリアはベンチに腰掛けていた。
上空には、ユリアの瞳と同じ色の青空が広がっている。雲は全くない。穏やかに風が吹き、暑くもなく寒くもない、快適な時間帯。
目の前の道路は、全く車が通っていない。人通りもほとんどないが、時々現れる通行人は、男性ならまず間違いなくユリアをちらりと見て通り過ぎる。ウェーブのかかったブロンドと、ウェストを絞った胸を強調する服装は、嫌でも男の目を引くようだ。
遠くで車の音がして、ユリアは思わず立ち上がった。すぐ近くの曲がり角から出てきたのは、黒い乗用車だった。エンジン音を唸らせながら、車はユリアの前を通り過ぎていく。
なんだ、とユリアはまた座った。アルベルトではなかった。
横に置いてある、バスの時刻表を眺めた。バスの到着時間は、もう20分も過ぎている。バスが遅れるのは日常茶飯事で、いつもなら気にしないことだが、今日に限っては妙にイライラした。
別に、アルベルトに早く会いたいわけではない。
ホイロの時間を気にしているのだ。
「早く来ないかな……」
呟いたとき、また車の音がした。首だけ回して、音のした方を見る。
今度こそ、バスだった。
ユリアは立ち上がった。
バスは目の前に停まり、前方と後方、2つのドアが開いた。その前方のドア、つまり降車用のドアから、アルベルトが降りてきた。ユリアは駆け寄り、
「久しぶり!」
と声をかけた。
「久しぶり」
アルベルトは、手にしていた小さな花束をユリアに渡した。ユリアは満面の笑みでそれを受け取った。
ユリアが乗客でないとわかると、バスはドアを閉め、走り去っていた。それを背に、2人は歩き出す。ユリアは右手で花を、左手でアルベルトの手を掴んだ。少し照れた顔をしながら、アルベルトは手を握り返してきた。
「わざわざ迎えに来てくれて、ありがとう」
「いいよ、どうせ目の前だし」
ユリアのアパートは、ここからゆっくり歩いても1~2分で着く。しかしユリアは、早足で歩いた。
「どうしたんだ?」
「いまホイロしてるところだから、早く帰らないと」
「ホイロ?」
「うん」ユリアは頷いた。「最終発酵のこと。パンって、作るまでに2回も発酵させなきゃで、しかも時間がシビアだから。急ごう」
アルベルトは申し訳なさそうな顔になった。
「それは悪いことをした」
それから首を傾げ、
「でも、それなら、わざわざ迎えに来なくても良かったのに。きみの家は知っているのだから。どうしてわざわざ、迎えに来たのだ?」
「…………」
別に、アルベルトに早く会いたかったわけではない。
ユリアは質問に答えないまま、走るように進んだ。
「ほら、これがシナモンロールの焼く前」
オーブン板の上に載った6つの生地を、得意気にアルベルトに見せた。カップの中で鳴門のように渦を巻き、心なし膨らんだパン生地が、綺麗に並んでいる。
「あとは、刷毛で表面に卵を塗って、焼くだけ」
そういって、アルベルトの目の前で卵を塗ってみせる。それを見ながら、アルベルトは不思議そうな顔をしていた。
「シナモンロールは、こんな形なのか」
「何か疑問でも?」
「僕が聞いた話では、長い棒状だったから。ちょうど、切る前のロールケーキみたいに」
アルベルトの指摘は当たっている。目の前の生地は、切った後の状態だ。手抜きがばれないように、ユリアは誤魔化した。
「うん、そう言う種類のシナモンロールもある。そっか、アルの言ってたのはそっちだったのか」
「ああ。長いパンに、『長生きするように』と願いを込めているらしい」
「ふぅん」
疲労対個数は、なんの関係もなかった。
卵を塗り終わり、ユリアはオーブンにパンを入れた。温度と焼き時間をセットして、スイッチを入れる。
「あと10分で、出来上がり」
ニカ、と笑って見せた。
「パンと言えば」
1LDKのLDKに通されたアルベルトは、テーブルに腰掛けた。ユリアは1人暮らしだが、テーブルは2人用だ。椅子も2脚ある。木製のそれらは綺麗にされていて、白いテーブルクロスも洗いたてだ。コーヒーカップに注がれたコーヒーを受け取ると、アルベルトが話し出した。
「この間、こんな話を聞いた」
またアルベルトの土産話が始まった。ユリアも口を開きかけたのだが、先を越されてしまった。仕方がない、アルベルトの話が終わるまで待ってやろう。
「どんな?」
「ある人が、3個のパンをオーブンで焼こうとした」
アルベルトが、左手の親指、人差し指、中指を立てた。「3」を表すときの、アルベルトの癖だ。
「一方、そのオーブンは同時に2個のパンを焼くことができる」
右手の人差し指と中指を立てる。「2」だ。
「そして、そのオーブンでは、パンの片面を焼くのに1分かかる」
今度は、手の形が変わらなかった。
「では、3個のパン全ての両面を焼こうと思ったら、最短何分かかるか?」
「……それって、実話?」
アルベルトはコーヒーを一口飲むと、
「おそらく、違うだろう」
絶対違うと思う。しかしユリアは口に出さず、一応考えることにした。
「そのオーブンは、同時に片面しか焼けないんだよね?」
「そうでなかったら、問題として成立しない」
やっぱり「問題」なんじゃないか。
「……普通に考えたら、4分だよね。1個目と2個目を同時に両面焼いて2分、3個目の両面を焼いて4分……」
「そうだ」アルベルトは頷いてから、「しかし、正解は3分なんだ」
「え、どうして?」
「どうしてだと思う?」
アルベルトは無表情だったが、わずかに茶色い目の輝きが変わっている。問題を出すことを、楽しんでいるようだ。まるで子どもみたいだな、とユリアは思った。しかし、そんなアルベルトを見るのも嫌いではない。なら、もう少しこの表情をさせておこう。そのためには、ユリアが問題に挑戦すればいい。
何故3分なのか。ユリアは、とにかく思いついた方法を口にした。
「3個目のパンは、片面しか焼かないとか」
「いや、3個とも両面焼く」
「じゃあ、焼く時間をちょっとずつ短くするとか」
「ちゃんと1分ずつ焼く」
「オーブンの温度を上げる」
「上げない」
「オーブンを2台使う」
「使わない」
「実は3分では焼けない」
「焼ける」
はぁ。アルベルトは呆れ顔でため息をついた。ユリアは小さく舌を出し、
「わかってるって。冗談だよ」
そう答えつつ、ユリアはまた同じようなことを言った。
「パンをスライスして、蝶の羽みたいに広げて、両面同時に焼くとか。これなら、1個1分で、計3分」
冗談のつもりだったが、アルベルトの目が少し輝きを取り戻した。
「考え方は近い」
「え、本当に?」
それでは、パズルとして成立しないのでは……。
「……でも、わかんない。降参。どうするの?」
アルベルトはコーヒーをまた一口すすると、説明した。
「3つのパンを、A、B、Cとしようか。まず、AとBの表を焼く。これで1分」
うんうん。ユリアは頷いた。
「次に、Aの裏と、Cの表を焼く」
「え、Bは?」
「どこかに置いておく。とにかくこれで2分経ち、Aの両面が焼きあがる。最後に、BとCの裏を焼いて、3分だ」
ユリアは頭の中で、もう一度考えた。AとBの表、Aの裏とCの表、BとCの裏。確かに3分で、全てのパンの両面が焼きあがる。
「ホントだー! すごーい、不思議ー!」
キラキラ輝くユリアの目に見つめられ、アルベルトは照れくさそうに視線を逸らした。
「あれ、だけど、スライスの方法はどこが近いの?」
「この解法のポイントは、『3個のパンを焼く』と考えるのではなく、『6つの面を焼く』と考えるところにある。毎回、6つの面のうち2つを焼くことで、6÷2=3分で焼き上げることが出来る。スライスする方法も、毎回6つのうち2つを焼いているだろう?」
「あー、なるほど」
そこまで聞いて、ユリアは満足した。コーヒーをすするアルベルトを見て、さて次はこっちの番だ、と口を開きかけたところで、アルベルトがまた言った。
「ところで、なにか焦げ臭くないか」
「え?」
ユリアは慌てて、カウンターキッチンを振り返る。煙などは出ていないが、焦げ臭い。発生源は、明らかにキッチンだ。
まさか! ユリアはキッチンに駆け込んで、オーブンを開けた。すぐさま熱気が顔を覆う。鍋つかみを手にはめて、オーブン板を取り出した。
そこには、真っ黒に焦げた塊が6つ、並んでいた。
「ユリア、大丈夫か?」
カウンターの向こうから、アルベルトの声。ユリアはすぐさまパンを隠そうとしたが、遅かった。
観念したように、カウンターの上にオーブン板を置く。泣きそうな顔で俯いた。
「オーブンが…」
ユリアの声は、愚図る子どものようだった。
「オーブンが、壊れたみたい……。予熱は普通に、出来てた、のに……」
半年もパンを作っていて、こんな失敗は初めてだ。
違う、失敗ではない。オーブンが壊れていただけで、私のせいじゃない。
アルベルトが先週来てくれれば、オーブンも壊れなかっただろうに。どうして今日だったんだ。
ユリアの頭の中で、ぐるぐると言葉が回る。
今度こそ、口にしてやる。先に口を開いてやる。
意を決して顔を上げた。
しかし、やはりまた、アルベルトが先に口を開いた。だがそれは、喋るためではなかった。
アルベルトは、焦げたシナモンロールを口に入れた。
「……え、何食べてるの?」
「シナモンロールだ」
バリバリと音を立てて食べる。焦げが粉砕され、ボロボロと床にこぼれた。
「そ、そこで食べないでよ! 掃除が面倒でしょ!」
「そうだな、悪かった」
タオル越しにオーブン板を掴むと、それをテーブルの上に置いた。ユリアがあらかじめ配膳したお皿の上にシナモンロールを置くと、また食べ始める。
ユリアはしばし呆然とした後、急いでアルベルトの対面に座った。
「ね、ねぇ、どうして食べてるの?」
「ユリアが僕のために作ってくれた物だからだ」
「でも、焦げてるよ?」
「問題ない。焦げているのは表だけだ。……オーブンは本当に、片面しか焼けないのだな」
1個目のシナモンロールを食べ終わり、アルベルトは2個目に手を出した。
「しかし、ユリアは焼く前の生地を、カップに入れていた。あれでは、裏は焼けない。どうするつもりだったのだ?」
「オーブンって言うのは、そう言うものじゃなくて……」
眉根を下げ、動揺しながらユリアは答えた。アルベルトはユリアの内心に気付いていないかのように、ユリアに続きを促した。
「中に電熱器とファンが入ってて、それで全体を熱する仕組みなの」
「蒸すような感じか?」
「蒸すって言うか、焼くんだけど……。乾燥したサウナみたいな感じにするの」
「なるほど。それなら、『蒸す』とは違うな」
2個目を食べ終わり、3個目。真っ黒の塊はパンと言うより、ただの炭。相当苦いはずである。
「オーブン全体を温めて、パンを回りからじんわり加熱して、中まで熱を通すのよ」
「芯まで温める、と言うやつか。風呂と同じだな」
「そうそう、そんな感じ」
ここぞとばかりにユリアは言った。
「だからね、失敗したのは私のせいじゃなくて、オーブンが原因なの。たぶん、電熱器が設定温度を超えて熱くなったんだと思う」
「わかってる」アルベルトは3個目のシナモンロールを飲み込んだ。「いつだったか、ユリアが作ったサンドウィッチは絶品だった」
4個目を取る。
ユリアはアルベルトから視線を逸らしながら、
「サンドウィッチなんて、具材をパンに挟んで、切るだけじゃない」
「挟んでから、切るのか?」
「そうだよ? 食パンに具を挟んで、上から包丁で一刀両断」
「……」
アルベルトは本気で感心しているような声音で、
「なるほど。そうすれば綺麗な形に仕上がるな。僕はいままで、具を切ってからパンに挟んでいた」
4個目も食べ終わり、5個目も食べ始めた。バリバリと音を立てて、パンを噛み砕いていく。
6個目に手を伸ばした。
「も、もういい!」
突然、ユリアが叫んだ。さすがに驚いたようで、アルベルトの手が止まる。アルベルトは不思議そうな顔で、ユリアの目を見る。
「わ、私の分が無くなるでしょ!」
そう言って、アルベルトが掴もうとしていた6個目のシナモンロールに手を伸ばした。カップから焦げた塊を取り出す。
横から見ると、アルベルトの言うとおり、上ばかりが集中的に焦げていた。だが、下だって十分焦げている。表面だけとも思えない。その塊を、思い切って口に放り込む。
すぐに舌が、食べ物でない物の味を感知した。舌が収縮しそうなほど苦い。その感覚は喉の奥や鼻にまで到達し、細かいイガを飲み込んでいるような気分になる。いや、実際にそうなっている。かつてパン生地だった炭の粉が、唾液と混ざって複雑な形の粒になっていた。それらが歯や喉の内側に貼り付いている。
さらに、炭の臭いと、わずかに残るシナモンの香りが、鼻を突いた。たまらず鼻から息を吸うと、唾液に濡れなかった焦げた粉末が息と一緒に肺に入り、ユリアは盛大に咽た。
「大丈夫か?」
アルベルトはユリアに、コーヒーカップを差し出した。ユリアはそれを引っつかみ、慌てて飲み込む。コーヒーの苦味が混ざり、口の中はさらに訳のわからないことになった。
カップを置き、ユリアはアルベルトを見た。ユリアの目の前の彼は、澄ました顔でコーヒーを啜っている。
それから、ユリアは掴んだままのパンを見た。一口かじっただけのパン。確かに中は、あまり焦げていないようだ。それでも、もうこれ以上食べる気にはならなかった。
なのに。
アルベルトはこれを、5個も食べたのだ。信じられない。正気の沙汰じゃない。
「なんでこんなもの食べたの?」
「さっき言った。ユリアが作ってくれたものだからだ」
だからって。
ユリアは俯いた。顔を上げられない。アルベルトの顔を見れない。
アルベルトが立ち上がって、ユリアの横に立った。頭の上に、アルベルトの大きな手が置かれる。
「オーブンが壊れたのだったな」
ユリアは黙って頷いた。
「なら、いまから新しいオーブンを買いに行こう。今日は僕がユリアの分まで食べてしまったから、今度は2人で一緒に食べよう
大きな手が、ユリアの頭を優しく撫でる。その手に包まれながら、ユリアは自分が急に、子どもになったように感じた。
パンが焦げたのを、オーブンのせいにして、アルベルトのせいにして。
なのに、そんな子どもに、アルベルトは優しく接している。愛している。包み込んでいる。
全く、正気の沙汰じゃない。
ユリアはギュッと、目を固く瞑った。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この作品は、あまり細かい世界観を考えずに書いてたりします。
ユリア(Julia)もアルベルト(Albert)もドイツ語名なので、たぶん、ヨーロッパの話なのでしょう。
それも、文通を交わしているところから、ケータイどころか電話すらない時代の話なのでしょう。
それでいて、本作の7年後にあたる『吹雪の夜に』では電話が登場しているので、
電話が普及する前後の時代、つまり1900年代初頭の話なのでしょう。
……本当か?(←セルフ突っ込み
たぶん、我々とは違う世界の話なのだと思います。