鉄錆の老将
バスティオンが丘を降りてくる。
一歩ごとに地面が揺れた。35トンの質量が灰域の大地を踏みしめる振動が、残殻のコックピットに伝わってくる。カイの足裏が、その重さを感じ取った。
通信が続く。
「汎殻は下がらせてある。俺一人だ」
ゲルハルト・ナルセンの声は、不思議と穏やかだった。殺意がない。だが油断もない。声の底に、三10年分の戦場の重みが沈んでいる。
「ガルド・ヴェッセン。いるんだろう」
沈黙。
ガルドが通信を開いた。
「久しぶりだな、ゲルハルト」
「10年か。もっとか。お前が逃げてから、俺のバスティオンを直せる技匠がいなくなった。コックピット周りの調子が悪い」
「それは知らん。グランヴェルトの技匠班に任せたはずだ」
「あいつらはお前じゃない。手つきが違う」
短い沈黙。
「テオの息子。名前は」
「カイ・セヴァル」
カイが自分で答えた。声が震えないように、操縦桿を強く握った。
「カイか。テオが名前を選ぶのは下手だった。だがいい名前だ。短くて、叫びやすい」
ゲルハルトの声に苦笑が混じった。
* * *
バスティオンが400メートルの距離で足を止めた。
カイのセンサーが、銘殻の全容を映し出す。
鉄錆色の重厚な装甲。兜を模した頭部の正面に横長のメインカメラが光る。額に張り出した装甲板が庇のように影を作り、その下でカメラの光が鋭く輝いている。
胴体は分厚い箱型。正面装甲の表面に、無数の弾痕と修復痕が重なっている。この装甲は何十発もの砲弾を受けて、その度に修復されてきた。
右腕は左腕の1.5倍の太さがある。鉄巌剣を振るうための駆動系が強化された腕だ。その手に握られた大剣は全長4.5メートル。峰の厚さは15センチ。切断ではなく、叩き割ることに特化した重剣。
左腕にはイージスの小型シールド。中央に射出口が開口している。パイルバンカーのクラレ。盾を構えたまま鉄杭を射出する近接貫通兵器。
脚部は太く短い。膝裏と足裏にブースターノズルが見える。突撃用だ。この重い機体を一瞬だけ弾丸のように加速させる。
ガルドの設計だ。カイはその事実を噛み締めた。自分の保護者が設計した機体が、今、敵として目の前にいる。
「ゲルハルト。何が目的だ」
ガルドが問うた。
「テオが隠したものだ。ヴィルヘルムの命令で探している。だが、正直に言えば――テオが何を考えていたのか、俺自身が知りたい」
通信越しの声に、感傷が滲んだ。
「テオは俺に何も言わなかった。お前にも何も言わなかっただろう、ガルド。二人とも俺を巻き込むまいとした。だが巻き込まれなかったことの方が、俺には辛かった」
カイは冴覚を研ぎ澄ませた。
ゲルハルトの言葉には嘘がない。だが、嘘がないことと敵でないことは同じではない。この男はグランヴェルトの兵だ。命令があれば戦う。
「カイ・セヴァル。お前の腕を見せろ」
ゲルハルトの声が変わった。穏やかさの下にあった鉄が、表に出てきた。
「テオの息子が何を背負えるか、この目で確かめる」
* * *
戦闘が始まった。
バスティオンの膝裏のブースターが火を噴いた。35トンの巨体が、弾丸のように前に跳んだ。
速い。
この質量がこの速度で来る。ガルドが言った通りだ。生き物のように動く。カイの冴覚がゲルハルトの動きを捉えた。右肩が沈む。鉄巌剣を振り上げる予備動作。
灰色が落ちた。
静寂。心拍。世界がモノクロームに沈む。バスティオンの鉄錆色だけが、灰色の中で鈍い赤に浮かぶ。
来る。
カイは操縦桿を右に倒した。残殻が横に跳ぶ。
間に合った。
間に合ったが、風圧が来た。
鉄巌剣が空を斬り裂いた衝撃波が、残殻の装甲を叩いた。刃が届いていないのに、風圧だけで装甲板が軋む。コックピットが横に揺れ、カイの体がハーネスに引っ張られた。
これが銘殻の一撃。
カスっただけで装甲が剥がれる。直撃すれば、残殻は上半身と下半身に分かれる。
距離を取った。200メートル。カイの残殻に搭載されたルーク機関砲の射程だ。トリガーを引いた。40ミリの弾丸が6発、バスティオンの正面装甲に命中した。
弾かれた。
火花が散り、弾丸は全て装甲の表面で潰れた。100ミリの特殊鍛造鋼。40ミリでは歯が立たない。
バスティオンが再び加速した。
カイの冴覚が読む。ブースターの出力変化。踏み込む足の角度。体重移動の方向。全てが見える。次の一撃は左からの水平斬り。鉄巌剣の軌跡が、脳裏に線として浮かぶ。
読めた。だが動けない。
残殻の脚部の出力が足りない。冴覚が「左に跳べ」と告げても、機体がその指示に追いつかない。反応速度のギャップ。脳は0.3秒先を見ているのに、機体は0.5秒かけてようやく動き始める。
鉄巌剣の峰がカイの残殻の左肩を掠めた。
装甲が千切れ飛んだ。左肩装甲の表面層が根こそぎ剥がれ、内部フレームが露出した。コックピットの装甲健全度モニターが赤に変わる。
痛みはない。カイは鋳脈を持たない。機体が受けたダメージは、計器の数字でしか分からない。だが衝撃は伝わる。体がハーネスの中で叩きつけられ、左肩に鈍い痛みが走った。ハーネスの圧力による生身の痛みだ。
* * *
三度目の突撃が来た。
今度は正面から。バスティオンが全推力で突進し、鉄巌剣を突きの構えで繰り出す。カイは瓦礫の壁に体を滑り込ませた。コンクリートの残骸が盾になる。
鉄巌剣がコンクリートの壁を貫通した。壁が弾け飛び、破片がカイの残殻に降り注ぐ。カイは壁の裏を回り込み、バスティオンの側面に出た。
至近距離。
機関砲のトリガーを引いた。バスティオンの右脇腹に40ミリ弾が叩き込まれる。側面装甲は正面より薄い。弾痕が装甲に食い込み、塗装が剥がれた。だが貫通はしない。
ゲルハルトが左腕を振った。盾の中央からクラレの鉄杭が射出された。カイの残殻の右脚の横を、鉄杭がかすめて飛んだ。地面に突き刺さり、コンクリートの破片が飛び散る。
至近距離のパイルバンカー。直撃していたら、脚が消えていた。
カイは距離を開けた。300メートルまで後退する。
息が上がっている。冴覚の連続使用で、こめかみの奥に鈍い脈動が始まった。
バスティオンは追撃してこなかった。
その場に立ち止まり、鉄巌剣を肩に担いだ。
通信が入った。
「お前の親父に似た目をしている。同じ冴覚を持っている」
ゲルハルトの声は荒い息をしていなかった。余裕だ。本気を出していない。
「だが今のお前じゃ話にならん。読めても動けない。機体が足を引っ張ってる」
カイは歯を食いしばった。
正しい。何もかも正しい。冴覚でゲルハルトの動きは全て読めた。一撃目も二撃目も三撃目も、来る方向と軌跡が分かっていた。だが機体の性能が追いつかない。読めたが動けない。それが残殻の限界だ。
「テオが隠したものは、お前が思っているより重い。覚悟がないなら引き返せ」
ゲルハルトのバスティオンが背を向けた。殺さなかった。止めを刺す気が最初からなかった。
「ガルド」
通信越しに、ゲルハルトがガルドを呼んだ。
「あいつのコックピットの設計は、まだお前のオリジナルか」
「ああ」
「相変わらず座り心地がいい。それだけは感謝してる」
通信が切れた。
バスティオンの鉄錆色の背中が、砂塵の向こうに消えていく。
カイの残殻は立っているのがやっとだった。左肩装甲は半壊し、右脚の関節から異音がしている。弾薬は残り2割。燃料は38%。
あの男は、父を知っている。父が何を隠したかも。
そしてあの男は、カイを殺さなかった。テオの息子だからか。それとも、殺す価値がないと判断したのか。
ガルドが作業車から降りてきた。無言でカイの残殻の左肩を確認し、工具を取り出した。
「言った通りだ。勝てない」
「ああ」
「だが、お前は三撃目まで立ってた。ゲルハルトが本気を出してないとはいえ、残殻で三撃を凌いだ奴は多くない」
ガルドの声に、不思議と叱責の色はなかった。
カイは操縦桿を握ったまま、手の震えが止まるのを待った。




