鋳脈を寄越せ
作業場は静かだった。
ガルドが工具を動かす音だけが仮設の壁面に反響している。鑢が金属の表面を削る乾いた連続音。一定のリズム。速くもなく遅くもない、何十年も同じ動作を繰り返してきた人間の手が出す音だった。ケストレルの左膝関節のカバーが外され、内部のフレーム接合部が露出していた。ゼルマ戦で歪んだ部位だ。
カイは作業場の入口に立っていた。
入口の鉄扉は開いていた。外から差し込む灰色の光が作業灯の黄色い光と混ざって床にまだらな影を作っている。冬の空気が足元を這い、コンクリートの床を冷やしていた。ガルドは背中を向けたまま作業を続けている。カイが来たことに気づいていないのか、気づいた上で何も言わないのか。多分、後者だった。
カイは口を開こうとしたが開かなかった。
ゼルマ戦の記憶がまだ体の中に残っていた。凍結湿地帯の薄い氷。右肩装甲が吹き飛ばされた衝撃。冴覚が全てを見せていた。ゼルマの遊肢の軌道。速射砲の射線。次の手。その次の手。全部見えていた。見えていたのにケストレルの手足が追いつかなかった。頭の中では回避の動作が完成しているのに、操縦桿を倒してから機体が動くまでの0.3秒が鉛の重さとなってカイの腕を縛り付けた。
0.3秒。
たった0.3秒だ。計器を読んで操縦桿を倒し、機体が応答する。そのどうしようもない遅延が右肩の装甲を奪った。ボルトの増加装甲を砕き、リントの左脚関節を歪めた。0.3秒があと5回重なれば誰かが死んでいた。
鋳脈があればあの0.3秒は消える。
冴覚で読んだ情報が鋳脈を通じて直接機体に伝わる。操縦桿を倒す必要も、計器を読む必要もない。体の延長として機体が動く。それだけであの0.3秒が消える。
カイは作業場の中に足を踏み入れた。
「ガルド」
鑢の音が止まった。
ガルドは振り向かなかった。鑢を持った右手を膝の上に降ろし、ケストレルの膝関節を見つめたまま動かない。背中が広い。煤けた作業着の肩が作業灯の光を吸い込んでいた。
「何だ」
「鋳脈を、俺に施してくれ」
声が震えなかったことに自分で驚く。何度も頭の中で繰り返した言葉だった。ゼルマ戦の夜から。湿地帯で右肩装甲を失ったあの瞬間からずっと喉の奥に溜まっていた言葉がようやく音になった。
ガルドの背中が強張った。
肩甲骨の間の筋肉が一瞬だけ引き攣るのが見えたが、ガルドは振り向かなかった。鑢を右手に握ったままケストレルの膝関節を見つめ続けている。
「鋳脈があれば、ゼルマの遊肢を全部躱せた」
カイは言った。声を抑えているつもりだったが、言葉が口を出ると抑制が効かなくなった。ずっと考えていたことが次から次へと溢れ出した。
「冴覚で全部見えてるんだ。遊肢の軌道も、射線も、次にどこから来るかも。全部分かってる。なのに機体が追いつかない。計器を読んで、操縦桿を倒して、機体が動くまでのあの一瞬で全部が台無しになる。鋳脈があればあの一瞬が消える。冴覚で読んだものが、そのまま機体の動きになる」
ガルドは答えなかった。
「ゼルマだけじゃない。コルヴァスの銘殻が灰域に入ってきてる。リーヴの部隊だ。あいつらは全員鋳脈持ちだ。遊肢も使う。冴覚で読んでも、鋳脈なしじゃ銘殻の速度に追いつけない。このままじゃストーンクロスを守れない」
カイの声が大きくなっていた。自覚はあったが止められなかった。
「鋼城だって来る。全長3.2kmの要塞が灰域を踏み潰しにくる。あれを止めるのに何が必要か、あんたなら分かるだろう。鋳脈があれば――鋳脈があれば、ケストレルの全部が使える。アルマナック・フレームの反応速度を全部引き出せる。鋼城だって、止められるかもしれない」
ガルドが鑢を作業台の上に置いた。
金属が金属に触れる硬い音。作業場に反響して消えた。その音が消えた後の沈黙は今までの沈黙とは違う質を持っていた。重く、空気そのものが固くなったようだった。
ガルドが立ち上がった。
ゆっくりと膝に手を当てて44歳の体を持ち上げるように。そして振り向く。
カイはガルドの顔を見た。
見たことのない表情だった。
ガルドは怒っているのでも呆れているのでもなかった。顔の筋肉が全て止まり、目だけが動いていた。薄い灰色の目がカイの顔を見つめていた。いつもの鋭さはなく、代わりにあるのはカイが名前をつけられない何かだった。
「駄目だ」
低い声だった。
「あんた、話を聞いてたか。俺は――」
「聞いた。聞いた上で、駄目だと言っている」
ガルドの声には抑揚がなかった。感情を押し殺しているのではなく、感情が多すぎて声にできないようなそういう平坦さだった。
「お前の親父と同じ道を歩かせるために、俺はあの機体を直したんじゃない」
その言葉がカイの胸を抉った。
テオ・セヴァル。父。ケストレルの最初の操手。鋳脈を受けて冴覚と組み合わせ、灰域の伝説と呼ばれた男。そして体を壊して消えた男。
分かっている。父が鋳脈の代償で右耳の聴覚を失い、右手の指先の感覚を失ってもなお戦い続けたこと。ガルドがその鋳脈を施した本人であること。全部知っている。
知った上で言っている。
「親父の話をしてるんじゃない」
カイの声が低くなった。
「今の話をしてる。今、この灰域で、何が起きてるかの話だ。シンダーが来た。コルヴァスが来た。鋼城が来る。ストーンクロスに住んでる人間が何人いる。あの人たちを守るのに何が要る。冴覚だけじゃ足りなかったんだ。ゼルマ戦で分かった。鋳脈がなければ、俺は次に誰かが死ぬ時も同じことを繰り返す」
ガルドの目が細くなった。
「お前は17だ」
「だから何だ」
「テオが鋳脈を受けたのは22だった。それでも早すぎた。神経の劣化は、若い体ほど速く進む。17で受ければ、テオより速く壊れる」
「それでもいい」
カイは即答した。考える間も、考える必要もなかった。ゼルマの遊肢が右肩装甲を吹き飛ばした瞬間からずっと同じ結論に辿り着いていた。壊れることと守れないこと。その二つを天秤にかけて答えは最初から決まっていた。
「良くない」
ガルドの声が初めて大きくなった。作業場の壁面が振動し、工具が微かに鳴った。
「良くないんだよ、カイ。テオの体がどうなったか、お前は知らない。数字は聞いたかもしれん。右耳が聞こえない、右手の指先が分からない。だがそれがどういうことか、お前は分かってない。テオは笑ってた。いつもの顔で笑って、痛くないと言って、大丈夫だと言って、俺の前でも平気な顔をしてた。だがカルテには書いてある。感覚喪失の速度が想定の3倍だったこと。俺が設計した素子が、テオの神経を食い潰していったこと。俺の手が作ったものが、テオの体を――」
ガルドの声が途切れた。
右手が震えていた。鑢を握っていた手は今は何も握っていない。空の拳が工具を探すように宙で強張っている。
カイは唇を噛んだ。
ガルドの言葉が重い。その重さは分かっている。ガルドがどれだけの罪悪感を背負って生きてきたか。テオに鋳脈を施し、テオの体を壊し、テオの息子を育て、テオの機体を直した。全てがテオへの贖罪だ。そのことをカイは知っている。
知っている。
知っているが、それでも。
「じゃあどうしろって言うんだ」
声が荒れた。抑えようとしたがもう無理だった。ゼルマ戦の0.3秒が喉の奥で燃えている。
「このままじゃ誰も守れない。鋳脈なしでゼルマに勝てない。鋳脈なしでリーヴに勝てない。鋳脈なしで鋼城を止められない。あんたが親父の二の舞を嫌がる気持ちは分かる。分かるけど、俺がここで何もできないまま立ってたら、タリアが死ぬ。ボルトが死ぬ。ストーンクロスの人間が全員、灰になる。それでもいいのか」
ガルドは答えなかった。
工具を握ったまま――否、工具はもう握っていなかった。空の右手が体の横で硬直している。口が開きかけては閉じ、もう一度開きかけてまた閉じた。
答えが出なかった。
カイはガルドの目を見つめ、ガルドもカイの目を見つめ返した。作業灯の光がケストレルの鉄紺色の装甲に反射して二人の影を壁面に落とす。ケストレルのコックピットの横に手擦れの跡があった。塗装が薄くなり、アルマナック合金の地金が僅かに覗いている場所。テオが何千回も手をかけて登った場所だ。その跡をカイも知っている。自分もあそこに手をかけて登る。父と同じ場所を同じように。
沈黙が長かった。
長すぎた。
カイは踵を返した。
「……カイ」
ガルドの声が追いかけてくるが、カイは振り向かなかった。足も止まらなかった。怒りなのか失望なのか自分でも分からないものが胸の中で渦を巻いていて、ここに立っているとそれが全部ガルドに向かって飛び出しそうだった。これ以上ここにいたら取り返しのつかないことを言ってしまう。
作業場の鉄扉を押し開けて外に出ると、冬の灰色の空気が顔を叩いた。冷たく、息が白かった。
背後でガルドが何かを言おうとする気配がしたが、言葉にならなかった。声にならない呼吸が鉄扉の隙間から漏れ出し、冬の空気に溶けて消えた。
カイの手が震えている。怒りだった。ガルドへの怒りではなく自分への怒りだった。0.3秒を埋められない自分の体への。冴覚という力を持ちながらその力を活かし切れない不完全な自分への。
振り向かなかった。
* * *
カイの足音が遠ざかっていった。
コンクリートを踏む硬い音が一歩ごとに小さくなり、やがて消えた。作業場の鉄扉が風に押されて軋んで半分閉じる。外光が細い帯になって床を横切り、ガルドの足元で止まっている。
ガルドは動けなかった。
右手が震えていた。鑢を握っていたはずの手が空を掴んでいる。指を開こうとしたが開かなかった。テオの時と同じだ。テオが鋳脈を受けた日も、施術を終えた後に同じように手が震えた。あの時は左手だったが今は右手だ。今は右手だ。20年経って震える手が変わった。それだけだ。
ガルドはゆっくりとケストレルの方を向いた。
鉄紺色の装甲が作業灯の光を静かに弾いている。コックピットの横に手擦れの跡がある。テオが何千回も触れた場所。その隣にもう一つの手擦れが生まれ始めている。カイの手が作ったものだ。父と息子の手が同じ装甲の同じ場所を磨いている。
ガルドはケストレルの胸部装甲に手を当てた。冷たかった。冬の鉄の冷たさだった。
「テオ」
声が掠れた。
「お前ならこいつに、何て言う」
ケストレルは答えなかった。鉄紺色の装甲がただ冷たかった。作業灯の光が微かに揺れ、ガルドの影がケストレルの足元で震えていた。




