野犬たちの掟
訓練場は旧世界の駐車場だった。
アスファルトの舗装が四角く割れ、隙間から灰原草が密生している。等間隔に並んだ車止めのコンクリートブロックは半数が砕けて瓦礫と化し、残ったものが訓練時の障害物として使われていた。舗装の亀裂を辿れば、かつてここに白い区画線が引かれていた名残が見える。
カイが訓練場に着いた時、1機の残殻が舗装の中央に立っていた。
左右非対称の奇妙な機体だった。
右腕は太い。肩から肘にかけて分厚い装甲板が溶接され、前腕部には鉄殻用の戦闘鉈が固定されている。刃は短く、刺突ではなく叩き斬るための形状だ。対して左腕は細く、肘関節から先が丸ごと速射砲に換装されて砲身が腕の延長のように突き出ている。右腕で殴り左腕で撃つという、攻撃の性質が左右で完全に異なる構成だった。
キャリバー。リント・ガーレスの残殻だ。
「来たか、セヴァル」
コックピットのハッチが開き、リントが身を乗り出している。赤いスカーフが朝風に揺れていた。
「テオの息子だってのを見せてみろ。乗れる残殻はあるか」
カイは訓練場の端に並んだ残殻を見た。ストーンクロスの防衛隊が予備機として管理している3機だ。いずれも旧式の汎殻フレームを改造した残殻で、腕や脚が別の機体の部品に換わっている。一番手前の機体に近づくと、右膝の関節に新しい溶接痕があった。フランの仕事だ。
「それ、ガルバンだ。右腕の応答が0.3秒遅れる。気をつけろ」
声は訓練場の隅から聞こえた。旧世界のコンクリートブロックに腰かけたトワが片膝を立てている。コンバットナイフの柄に手を添えた姿勢は、いつ立ち上がっても戦えるように備えている人間の癖だった。
カイは頷き、ガルバンのコックピットに乗り込んだ。ハッチを閉じると計器の明かりが暗がりに浮かぶ。操縦桿を握ると、右の操縦桿が微かに遊んでいた。トワの言う通り右腕の伝達系統に遅延があるが、左腕は問題ない。フットペダルを踏み込むと脚部の反応は素直だった。
エンジンを始動すると、ガルバンの動力炉が低い振動を発した。機体の個体差が振動に出る、残殻特有の不規則な唸りだ。ケストレルともラストヘイムで乗っていた残殻とも違うこの機体だけの鼓動。
通信器からリントの声が飛んできた。
「ルールは簡単だ。胴体に触れたら1本。先に3本取った方が勝ち。実弾は抜いてある、近接武器も刃を落としてる。死ぬことはねえが、骨は折れるかもしれない」
「了解した」
「始めるぞ」
その声が終わる前にキャリバーが動いた。
速い。
カイが最初に感じたのはそれだった。
キャリバーが正面から突っ込んでくる。右腕の戦闘鉈を振りかぶり、全速力で距離を詰めてきた。教本通りなら中距離を維持して射撃で牽制するのが残殻戦の基本だが、リントはそれを無視している。開幕から全力の近接だ。
カイが操縦桿を左に倒すとガルバンが横に跳んだ。着地と同時にフットペダルを踏み替え、旋回しながらリントの側面に回り込もうとする。
だがキャリバーは追ってこなかった。
突進の勢いのままリントは通り過ぎた。振りかぶった戦闘鉈をそのまま地面に叩きつけてアスファルトの破片を巻き上げ、カイの視界を一瞬遮る。
破片の向こうから左腕の速射砲が火を噴いた。
訓練弾だ。ゴム被覆の低速弾が3発、ガルバンの胸部装甲を叩いて衝撃がコックピットを揺らした。当たったが、胴体への直撃ではなく左胸の肩口だ。
「惜しいな」
リントの声には笑いが混じっていた。
カイは操縦桿を引いて距離を取った。リントの戦い方には型がない。近接で突っ込んでから射撃に繋ぐのは普通と逆だ。
灰色が落ちた。
世界から色が引いていく。コックピットの計器の光、アスファルトの灰、灰原草の緑。全てがモノクロームに沈み、残ったのは自分の心拍とキャリバーの関節が軋む音だけだった。
冴覚が捉えた。
キャリバーの右肩が沈むのは右腕が動く前兆だ。次は右の戦闘鉈が来る。カイは操縦桿を右に倒して回避軌道を取った。
鉈は来なかった。
リントは右肩を沈めたまま左腕の速射砲だけを撃った。右肩の動きはフェイントですらなく、ただの癖だ。射撃の反動を殺すために右肩で体重を支えているだけで、攻撃の前兆ではなかったのだ。
冴覚が読んだ「合理的な次の一手」と、リントの実際の動きがずれている。
訓練弾がガルバンの右腕を叩き、応答がさらに鈍くなる。
カイは歯を食いしばった。肩の傾きや重心——いつもならそこに次の一手が透けて見えるが、リントの体からは何も読めない。
思考を経ていない完全な反射だ。右肩が沈むのは射撃の予兆ではなくただの癖で、突進と射撃の連動にも戦術はない。死線を生き残るためだけに体へ叩き込んだ動きだった。
キャリバーが再び突進してくる。今度は左腕を前に突き出し、速射砲を撃ちながらの接近だ。自ら弾幕の中に突っ込んでくるような自殺的な動きは、被弾を恐れる普通の操手なら決してやらない。しかしリントは恐れず、ガルバンの射撃が当たっても構わず突っ込んでくる。
カイは冴覚を手放した。
読めないなら読まない。目で見て耳で聞き、操縦桿の振動で感じる。灰色の静寂が解けて世界に色が戻った。訓練弾の着弾音が耳を叩き、アスファルトの破片が視界を散らす。情報量が一気に増えた。
正面からぶつかった。
ガルバンの左腕でキャリバーの戦闘鉈を受け止めて押し返す。金属が軋み、操縦桿が激しく振動して手のひらが痺れた。キャリバーの出力がガルバンを上回っており、力では負ける。
カイがフットペダルを蹴り込むと、ガルバンの右脚がキャリバーの膝を横から蹴った。バランスを崩したキャリバーが半歩下がる。その隙にガルバンの右腕を伸ばし、キャリバーの胴体に触れた。
1本。
「……やるな」
リントの声から笑いが消えていた。
そこからは殴り合いだった。
リントが2本目を取り返す。戦闘鉈の柄でガルバンの腹部を突き、カイが反応する前に左手の砲身を胸に押し当てた。カイも2本目を取り返す。キャリバーの左腕の砲身を掴んで引き寄せた勢いで頭突きを見舞い、怯んだところで胸を叩いた。
2対2。
互いの機体が距離を取って向かい合う。ガルバンの右腕はもうほとんど動かず、関節部の応答遅延が悪化して操縦桿を倒しても反応するまでに1秒近くかかる。キャリバーも右脚を引きずっており、先ほどの蹴りで膝関節にダメージが入ったらしい。
決着はつかなかった。
リントの戦闘鉈がガルバンの胸を叩くのと、カイの左拳がキャリバーの腹に入るのがほぼ同時だったからだ。互いの機体がよろめき、アスファルトの上に片膝をつく。
「……引き分けだ」
息を切らしたリントが通信器越しに言った。
コックピットから降りると、冬の空気が汗ばんだ体を冷やした。
カイは膝に手をついて呼吸を整えた。冴覚を途中で切り替えた反動で、こめかみの奥が微かに痛む。
リントがキャリバーのハッチから飛び降りてきた。赤いスカーフを首に巻いたまま乱れた髪を片手で掻き上げ、カイの前を通り過ぎる時に一度だけ足を止めた。
「悪くねえ」
それだけ言ってリントは歩いていった。振り返らない。
トワがコンクリートブロックから立ち上がり、カイの隣に来た。
「なぜ途中で冴覚を止めた」
カイは少し考えてから答えた。
「読めなかった。リントの動きには合理的な順序がない。冴覚で次の一手を推測しても、リントはその推測の外にいた」
トワは薄い唇の端をわずかに動かした。笑みなのかそうでないのか判別がつかない。
「灰域の傭兵は教科書通りに動かない。師匠がいない。教本もない。実戦で体が覚えた動きだけで戦う。合理的じゃないから、合理で読む人間には厄介だ。それが灰域の強みだ」
カイは頷いた。冴覚は万能ではないと頭では分かっていたつもりだった。だがこめかみの奥に残るこの鈍痛は、頭で理解することとは別物だった。
「読めない相手にはどう戦えばいい」
「目で見て、体で応えろ。読むな、合わせろ。お前にはその反射がある。冴覚に頼りすぎるな」
トワはそれだけ言うと踵を返した。黒のライダースジャケットの背中が訓練場を横切っていく。
一人でガルバンの足元に残されたカイが視線を上げると、訓練場の端にボルトが立っていた。いつからいたのか分からない。腕を組み、坊主頭の上の刀傷を冬の光に晒してこちらを見ている。
カイが歩み寄ると、ボルトは腕組みを解かないまま言った。
「ああいう奴は、追い詰められた時に化ける。覚えておけ」




