灰域《アッシュランド》の旗
集会場の空気は冷たく、壁の隙間から入り込む風が足元を撫でていた。
旧世界の講堂だったという建物は天井が高く、声がよく響く。壁面には旧文明の配電盤が剥き出しのまま残っており、意味を失った配線記号が列をなし、同じく意味を失った機器が並んでいる。それでも誰も剥がそうとはしない。
講堂の中央に置かれた長机の周囲には、6つの椅子が並んでいる。カイは入り口に近い席に座っていた。椅子は旧世界の金属製で、座面の革が擦り切れて中の綿が覗いていた。
バートンが立ち上がった。
スーツに似た仕立ての上着は灰域では浮いて見えるが、この男が口を開くと誰もその服装を忘れてしまう。右手の4本の指が地図の上に置かれた。小指のない手を、バートンは隠しもせずに地図の上へ広げた。
「集まってくれたことに感謝する」
声は穏やかで、決して怒鳴るような男ではない。喋りながらバートンの目は卓を一周していた。退屈しているやつ、苛立っているやつ、言いかけて飲み込んだやつ——そのすべてを拾い上げる目だった。
「グランヴェルトの鋼城建造は既に始まっている。ルイの情報が正しければ、船体の骨格が完成するまで2ヵ月。完成すれば、灰域を横断する力を持つ移動要塞が生まれる」
ボルトが鼻を鳴らした。
椅子の背もたれに体を預けて太い腕を組んでいる。坊主頭の上の刀傷が蛍光灯の下で白く光った。3本ある蛍光灯のうち1本は切れており、残り2本も不規則に明滅している。
「2ヵ月。そいつが出来上がってから戦うのか、出来上がる前に叩くのか。どっちだ」
「後者は不可能だ。グランヴェルトの管区に攻め入る戦力は、我々にはない」
バートンの返答にボルトは口角を上げた。最初から分かっていて尋ねた顔だった。
「つまり待つしかねえってことだな。俺の嫌いな戦い方だ」
「待つのではない。備えるんだ」
バートンが地図を指で叩いた。それはストーンクロスを中心に灰域の集落が点在する手描きの地図だった。正確な測量などなく、距離も方角も歩いた人間の記憶だけを頼りに描かれている。
「ボルト。レイダーズに前線指揮を任せたい」
ボルトが片眉を上げた。
「任せたい、ときたか。命令じゃなくて依頼か」
「灰域には軍がない。命令系統もない。だから頼む。報酬は出す」
「金の話は後でいい」
ボルトは腕組みを解いて前へ身を乗り出した。重みで椅子が軋む。186センチの巨体が動くと、それだけで空気が揺れた。
「いいだろう。前線は俺が持つ。だが俺は殴ることしか能がない。作戦は誰が組む」
マイロが手を挙げた。手を挙げたというよりは、眼鏡のフレームを押し上げるついでに指を立てたと言う方が正確だった。
「その役は私が引き受けます。敵の戦力構成が分かれば、配置と動きの設計はできる。ただし、情報が足りない。鋼城の護衛部隊の規模が未確認です」
「ルイに追加の調査を依頼してある」
バートンが答えると、マイロは小さく頷いて内ポケットからメモ帳を取り出し、何かを書き留めた。鉛筆の先が紙を引っ掻く音が静かな講堂に響く。
「遊撃はトワに任せる」
バートンの視線がトワへ向いた。
トワは椅子には座らず、壁に背を預けて立っていた。腰のコンバットナイフの柄に片手を添え、もう片方の手で煙草を口元へ運んでいる。その煙が旧世界の配電盤に沿って天井へ立ち上っていく。
「遊撃ね」
「前線が崩れた時の保険だ。トワの機動力なら、戦線のどこにでも駆けつけられる」
「保険ってのは使わないのが一番だが」
トワは煙を吐き出し、細めた目でバートンを見つめた。
「了解した。ただし、指揮系統に縛られるのは御免だ。動くタイミングは自分で決める」
「それでいい」
バートンが頷いた。
カイは黙って聞いていた。
前線指揮はボルトで、作戦立案はマイロ。そして遊撃はトワ。灰域の戦力が徐々に形を持ち始めている。寄せ集めの傭兵と集落の防衛隊を、一つの軍として機能させようとしているのだ。
だが、自分はどこにいるのか。
その問いが頭に浮かんだ瞬間、リントが口を開いた。
「で、セヴァルはどうするんだ」
声にはっきりとした棘があった。
長机の端に座るリントは、赤いスカーフを巻いた首を傾けてカイを見ている。薄い茶色の目が値踏みするように細められていた。
「テオ・セヴァルの息子だから、連合の中心に据えるってのか。バートンさんの判断は大体正しいと思ってるが、これは違う」
場の空気が変わった。
ボルトが顔を上げ、マイロの鉛筆が止まる。バートンだけが表情を動かさなかった。
「俺はストーンクロスで6年、残殻に乗ってきた。実戦も潜った。この街を守るために戦ってきた。セヴァルが灰域に来て何ヵ月だ。名前だけで飯が食えるほど、ここは甘くないはずだ」
地を這うような低い声だった。カイは掌を強く握り込み、爪が肉に食い込む。妹のことだ、とカイは思った。あいつはいつも妹のことになると声を低くするのだ。
カイは何も言えなかった。
「文句があるなら腕で黙らせろ」
トワの声が割り込んだ。壁に寄りかかったまま、煙草の煙越しにリントを見据えている。
「灰域じゃそうだろう。言葉で決まらないことは、腕で決める。セヴァルに不満があるなら模擬戦でも仕掛けろ。それで勝ったら、お前の言い分を通せばいい」
リントがトワを睨みつけたが、トワは表情を変えない。29歳の傭兵と22歳の操手。その経験の差が沈黙の長さとなって表れた。
やがてリントが先に目を逸らした。
「……今はいい。戦う相手を間違えるほど馬鹿じゃない」
赤いスカーフの端を指で弄びながら、リントは椅子に深く座り直した。その視線は地図に落ちている。
そこでバートンが場を引き取った。
「カイ。君の役割は追って伝える。今は、ボルトとマイロの訓練に参加してくれ。灰域の操手たちと連携を組む練習が要る」
「分かりました」
カイの声は自分でも驚くほど平坦だった。
テオ・セヴァル。親父の名前が俺の実力より先にこの土地を歩いている。胃の腑に鉛を飲まされたような重苦しさがあった。
* * *
会議が散会した後、カイは講堂の出口で立ち止まった。
外は灰色の空だった。1月の灰域は凍えるほど寒く、吐く息が白く散っていく。ストーンクロスの石壁が冬の光を受けて鈍く光り、壁の隙間からは灰原草の枯れた穂が覗いていた。
リントが先に出ていくのが見えた。風に揺れる赤いスカーフと、広い背中。180センチの体格には、独学で叩き上げた6年分の筋肉が詰まっている。その背中を見送るうち、カイは自分がここにいる理由をもう一度考えずにはいられなかった。
「セヴァル」
背後からボルトの声が聞こえた。振り返ると、186センチの大男が講堂の扉を潜って出てくるところだった。扉の枠に肩がぶつかりそうになり、少し身を屈めている。
「さっきのガキの話は気にするな。リントは口が悪いだけで、根は真っ直ぐだ。ストーンクロスで一番まともな若造だよ」
カイは頷いた。気にしていないと言えば嘘になるが、リントの怒りの根底に妹の不在があることを思えば、あの程度の棘は当然だった。
ボルトが顎を掻いた。太い指が何度も折れた鼻の横を通り過ぎる。何かを言おうとしてためらっているようだった。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前の親父の機体、まだ動くのか」
カイの足が止まった。
ケストレル。鉄紺色の銘殻。テオが乗り、ガルドが設計し、旧世界の合金で組まれてなお原型を留めている機体。
今はガルドの仮設作業場に入ったままだ。修復が始まっているのか、それとも始まってすらいないのかすらカイには分からない。ガルドは何も言わず、作業場に近づくと「まだだ」とだけ言って追い返されるからだ。
「分かりません」
正直に答えた。そう答えるしかなかった。
ボルトは一瞬だけ目を細め、それから大きく頷いた。
「そうか。まあ、急かすつもりはない。あの技匠は気難しいからな」
ボルトが歩き出した。革ジャケットの背中に、鉄殻部品のバンドが巻かれた両腕が揺れる。数歩進んでから、彼は振り返らずに言った。
「だがな、セヴァル。灰域にゃ旗がいる。ボロ布でもいい、旗は旗だ。お前が何者かなんざ、戦場で決まる。名前じゃない」
ボルトの背中が石畳の道を遠ざかっていく。
カイは凍えた空気の中に立ち尽くしていた。
ケストレルはまだガルドの手の中にある。




