呼び名
黒い泥に覆われた大地が、何処までも広がっていた。
否、泥ではなくヘドロと言うべきか。防毒マスクの浄化作用で臭いも抑えられていなければ、名状し難い悪臭に苦しめられただろう。
しかしそんな臭ささえも、ひょっとすれば意識に上らなかったかも知れない。
此処にあった筈のビルやマンション、民家などのあらゆる建物が、ヘドロの津波で押し流された光景を前にすれば。少なくとも見える範囲全てが、瓦礫による多少の凹凸以外は真っ平らで、地平線が見える有り様だ。
「一般的な人間の視点から見える地平線の位置は、大体四〜五キロ先。それぐらい広範囲を、このヘドロは押し流したと言えるわね」
「と、とんでもない災害ですね……」
幸恵がその光景から分かる『被害』について述べると、敦は驚きと恐怖を声に滲ませた。
怪獣が倒された後であるため、その津波が今、此処で起きる可能性はない。しかし災害の跡地で、何が起きたか聞けば、恐怖心が込み上がるのは自然な反応だろう。
何よりこのヘドロや瓦礫の下には、巻き込まれた『誰か』がいるかも知れない。少しでもそれを想像すれば、一歩踏み出す事さえ勇気のいる行動となる。
「ふむ。何処かにヘドロの塊はないだろうか……」
微塵も気にせずズカズカと歩き回る、賢治がちょっとおかしいのだ。
とはいえ怖がり過ぎも良くない。幸恵達は怖がるためではなく、研究のため此処に来ている。賢治の姿が如何に人としておかしくとも、研究者としては彼が正しい。
「ええ、とんでもない災害よ。その原因と対策を知るために、私達は此処にいる。さぁ、気合い入れていくわよ!」
「は、はい!」
幸恵が力強く歩み出して、敦の動きを促す。敦も声を張り上げ、幸恵の後を追うように進んだ。
――――さて。
勢い勇んで踏み出したが、やる事は単純だ。現場に散らばったサンプルを掻き集め、それを研究室に持ち帰る事。あちこち歩き回り、試験管にヘドロを詰め込むだけ。
やる事は至極地味である。とはいえ地味な単純作業だから、歩きながら思考する事も可能だ。
現場にいるからこそ見えてくるものというのは、決して少なくない。作業しながら幸恵は思考を巡らせる。
「(やはり、骨格のようなものはないわね)」
高火島に出現した巨大物体は、大きく膨張した後に大爆発を起こした。
小さな島の村とはいえ、市街地全てを覆い尽くすほどの大爆発だ。巨大物体の内部に何か、身体を支える骨格のようなものがあったとしても、粉々に吹き飛んだ可能性が高い。だから島の調査で骨の類が発見出来なくても、単に見えないほど細かくなっているだけという仮説を否定出来なかった。
しかし此処熊本で倒れた怪獣は、激しく倒れはしたが、高火島の巨大物体と違って爆発していない。骨が折れる、破損する事はあっても、見えないぐらい粉々にはならないだろう。なのにどれだけ歩き回っても、骨の一本どころか一部すら見当たらない。
なら、あの怪獣に骨はなかった、と考えるのが自然か。
「(あり得ないとまでは言わないけど、ちょっと興味深いわね)」
生物が大きくなるには骨格が必要だ、という考えは厳密に言えば誤りである。正しくは「骨格を持つ方が大型化しやすい」だ。
骨格がないのに大きな身体を持つ生物の一例は、まず植物が挙げられるだろう。単純な重さだけで言えば、地球最大の動物であるシロナガスクジラよりも遥かに重い種類も珍しくない。例えばセコイアデンドロンという種では、推定重量二千トンという超巨大サイズの『個体』もいる。この巨体は身体を構成している有機物そのものが頑強だからこそ可能だ。
昆虫など節足動物の場合、歴史を紐解いても最大サイズは数メートルが限度だ。しかしこれは身体の頑丈さではなく、呼吸方法の欠点によるもの。節足動物は血液ではなく、直に空気を運ぶ事で酸素を身体中に行き渡らせているため、酸素濃度が低いと身体の末端まで酸素が届かないのだ。一応非効率なだけなので生きられない訳ではないが……活性は大きく下がってしまう。同じぐらい大きなライバル――――人間のような脊椎動物との生存競争が発生した時、活性の低い身体では勝負にならない。そして負けた先に待つのは絶滅だ。
色々な前提を抜きにすれば、骨格なしでも大型化は可能と言えるだろう。
しかし、それは理論上可能というだけの話。地球の生命を見れば、大型の動物はみんな骨格を持っている。それが大型化する時に一番『簡単』で、効率的なやり方という事だ。
ましてやヘドロは不定形の物質である。どう考えても自重を支えられるものではない。植物だって骨はなくとも同じくらい頑強なセルロースで全身を形成し、昆虫も丈夫な外骨格で体重を支えているのだ。『支え』なしにあの巨体を維持出来るとは到底思えない。
「(やっぱり、そもそも生物なのかってところから疑うべきなのかしら)」
相手はヘドロの塊だ。確かに有機物の塊ではあるが、有機物=生物ならば、人糞の山だって生物と言わなければならない。有機物と生物の違いは、それぐらい大きい。
ヘドロの集まりであるこの『怪獣』を生物と考えるのは、物質的には無理がある。
無理があるが、しかしやはり怪獣的な動きをしているのは見逃せない。この怪獣は歩き、咆哮を上げたのだ。戦闘機への反応こそしなかったが、攻撃により傷付いた身体でバランスは取ろうとしている。あまりにも生物的な動きであり、これを観測しながら非生物だというのも、強情というものだろう。
果たしてこれは生物なのか、非生物なのか。
……鍵を握るものがあるとすれば、やはりヘドロ内の微生物だと幸恵は思う。微生物ではなくとも、なんらかの特異な成分が含まれているかも知れない。だからこそ微生物学者の存在は頼りになるのだ。
「……ねぇ、麻原くん。何か気付いた事はある?」
「ふぇ? え、僕ですか!?」
更に広い知見、考え方を得ようと、幸恵は敦にも意見を求めてみる。聞かれた当初は戸惑っていた敦だったが、何か言いたい事があったのか。案外すぐに答えた。
「あ、あの、気付いたというか、疑問なんですけど」
「ええ、それでも良いわ。何かしら?」
「その、この化け物はなんで熊本に来たんでしょう? 海から現れたのなら、やっぱコイツらの住処は海、なんですよね? わざわざ陸に来る理由なんてないと言いますか……」
敦は考えながらの、拙い言い方で尋ねてくる。
その疑問は、幸恵にとっても謎であった。
「そうね、残念だけど私にもそれは分からない」
仮に怪獣が生物であるとして――――熊本の個体も、高火島の個体も、どちらも海からやってきた。
敦が言うように、海が奴等の住処なのだとすれば、どうして上陸の必要があるのか。例えば海洋生物であるウミガメが上陸するのは、産卵のためである。カメは肺呼吸をする爬虫類であり、どれだけ海洋に適応しようと、空気呼吸をしなければならない。卵は自力での呼吸が行えないため、砂地という陸地で産卵しなければ死んでしまう……という『理由』がある。
ならばあのヘドロの怪獣にも、何か理由があるのか。しかし自衛隊の邪魔がなかった高火島の個体が上陸後にしたのは、盛大な自爆である。あれこそが奴等の産卵だ、という可能性もあるが、些か激し過ぎないだろうか。わざわざ陸地に上がる必要性も、あるとは思えない。
また熊本と高火島では少し行動が異なる。高火島では上陸後比較的すぐに自爆したが、熊本ではかなり長時間行動していた。それこそ報道ヘリが陣取り、自衛隊が出動するだけの時間が。そこまで時間を掛けて、一体何をしたかったのか。
……そして一番の問題は、この疑問は熊本と高火島の怪獣が『仲間』である事が前提な点だ。動き回るヘドロが二種類もいるとは思いたくないが、いない保証は何処にもない。全く別系統の存在だとすると、共通点があると考える事自体が誤りとなってしまう。
強いて今の時点で分かった事があるとすれば、熊本と高火島に現れた二個体が『何処』を目指していたか、ぐらいか。
「……何故かは分からないけど、何処かは予想出来ているわ。熊本に現れた個体は一直線に進んでいたから、そのまま進み続けた場合の進路予想は簡単だもの」
「あ、そうなのですか。一体何処に向かっていたんです?」
「阿蘇山よ」
幸恵の答えに、敦は「へぇー」と言うだけ。どうやらピンと来ていないらしい。
仕方ないので、幸恵は地理と地質学について教鞭を執る事にした。
「良い? 阿蘇山はね、火山の一つなのよ」
「火山……あっ!? 高火島と同じ……!」
「そういう事。あのヘドロの化け物達は、どうやら火山を狙っているらしいわ」
とはいえ、何故火山なのか、というのは分からない。火山自体は海にもあるのだから、わざわざ上陸する必要性もないだろう。
そもそもたった二つのケースで見られた傾向であるため、予測が正しいとも限らない。もっと別の、異なる共通点がある可能性も残る。
そして仮に予想が的中していたとして……何故到達後の行動が『自爆』なのか。火山の近くで爆発して、噴火の誘発を狙っている? 生憎、自爆が成功した高火島では今のところ噴火の兆候は見られない。
やはり、確証を持って言える事がない。何もかもが憶測であり、だからこそとっ散らかった考えしか出来ない。
「何も分からないからこそ、調査を進めないとね……あ、大河内くん。そっちの方はどう?」
一通り周囲を歩いたところで、近くまで歩いてきた賢治と合流する。大河内はこくんと大きく頷いた。
「サンプルは、それなりには確保しました。塊がないため、無酸素状態のヘドロは少なかったですが……側溝などに溜まったものを採取したので、多少はマシかと」
「ああ、成程。掃除をしてない側溝でも、ヘドロは発生するからね。今回のように大量のヘドロが堆積しても、無酸素状態が保持出来ているかも」
「ええ。しかし流れた後に溜まったものです。建物を破壊するほどの激しさで流れたのであれば、中まで酸素が入っている可能性が高いかと」
津波や土石流などの災害は、人間にとっては災いばかりのものに思える。しかし自然として考えると、様々な栄養分を遠方に運び、堆積していた底砂をひっくり返すなど、循環としての働きも持つ。
津波のような流れでは、恐らくヘドロ全体に酸素が行き届いている。これでは今回も、嫌気性細菌の多くが死滅しているかも知れない。
「そう。なら嫌気性細菌は期待出来ないか……」
「……確かに嫌気性細菌は期待出来ませんが、好気性細菌にも注目すべきかと」
「ん? 怪獣はヘドロの塊なのだから、嫌気性細菌の方に何かありそうだと思ったんだけど」
「自分もそう思います。ですが、ヘドロも体表面は酸素に触れています。その部分なら、好気性細菌が活動している筈です」
賢治から指摘され、確かに、と幸恵は納得する。無意識に原因を一つに求めようとしていたが、複数の細菌が関与している可能性もあるだろう。そしてそれは賢治が言うように、好気性細菌が関わっているかも知れない。
「分かった、好きなように調べて良いわ。あなたに任せた方が、良い結果が出そうだし」
「それは有り難い事です。ではもっとサンプルを……実は採りたい場所があるのですが、自分の力では少し困難で」
許可を出したら、途端に早口になってサンプル確保を申し出る。浮かべた笑みも少し気持ち悪い。
幼児的なオタク気質の四十代男性。
字面にすると中々最悪だが、細菌学の天才には違いない。夢中になるほど成果が出ると思えば、実に頼もしい。
「分かったわ。すみません、彼の手伝いをしてもらえますか? 私達の護衛は一人で大丈夫なので」
「……了解しました」
護衛として付いている自衛隊員達四人に、賢治の手伝いを頼む。
彼等が揃えば、大抵の場所でサンプルは採取出来るだろう。研究にはサンプルが欠かせない。十分な試料が得られれば、研究は着実に進む筈だ。
しかし……
「(こんなもんじゃ足りないわね)」
ここでどれだけサンプルを集めても、それはたった『一体』の怪獣の情報でしかない。
より詳細なデータを集めるには、複数個体の情報が必要だ。それはこのヘドロがまた都市を蹂躙する事を意味するもので、口に出して良い願望ではない。しかし正確性、確実性を考えると、無視出来ない部分でもある。
勿論、「サンプルが足りなくて何も分かりません」なんて言う訳にはいかない。情報が少なかろうが足りなかろうが、なんらかの対策案を打ち出す。政府主導の対策チームとして活動するからには、結果を出さねばならないのだから。だが情報不足であるなら、導き出した結論が誤りである可能性は常に付き纏う。謙虚さを忘れたら、すぐに『失態』を犯す事になる。
もっと広範囲でサンプル採取をすべきか。この個体が現れた、海岸などの調査も必要だろう。それと過去に目撃例がないか、漁師などから聞き取り調査を――――
「あ、そういえば先生。あの怪物に名前とかって付けましたっけ?」
そんな考えをしていたところ、敦が声を掛けてきた。
言われて気付く。確かに怪獣や化け物、ヘドロの塊など、様々な呼び方が出ている。統一的でない名称は混乱の元なのだから避けるべきだ。
一応巨大物体が現時点での政府公認の呼び名だが、これは暫定的に付けた仮称でもある。これで統一してもいいが、些か特徴がなさ過ぎるし、それに他の「大きな物体」との区別が付かない。名前というのは凝ったものにしても混乱を招くが、簡易過ぎても意味が伝わらない。もう少し分かりやすく、固有の名称を与えるのが好ましいだろう。
十秒ぐらい、幸恵はうーんっと考えて。
「……オドロ。オドロにしましょう」
フィーリングで付けた名前を、正式名称にする事とした。
「えぇー……なんか子供っぽくないですか? ねぇ、大河内さん」
「……子供っぽいかは分からないけど、カッコよくはないかな。細菌の学名みたいなやつがいいと思う」
「そんな複雑なの付けたら普通の人は混乱するの。良いのよ、怪獣みたいな奴なんだから怪獣みたいな名前で。はい、高火島に現れた奴はオドロ一号で、熊本に現れた奴はオドロ二号。主任権限で決定よ!」
「わー、独裁的ぃ」
煽るような物言いの敦を無視して、怪獣達を通称オドロと命名。正式名称は巨大汚泥物体オドロに改め、出現順番を末尾に付ける事とした。
熊本での調査を終えた後、幸恵は政府に名前の変更を伝えた。以降、政府は怪獣達を巨大汚泥物体オドロ◯号、マスコミでは「オドロ◯号こと巨大汚泥物体オドロ◯号」という表現が多用される。
そして命名から三日後、なんであれ名前を付けた甲斐があった。
九州湾内から出現したオドロ三号が熊本県に上陸。ちゃんとした名前がなければ混乱を招いたであろう事態が起きたのだから……




