死滅した海
世界の海は今、危機に瀕している。
ゴミ投棄や工業排水による汚染、温暖化に伴う海底無酸素化、異常高水温による定着生物の死滅、二酸化炭素濃度上昇に伴う海洋酸性化、無秩序な乱獲による漁業資源の激減……
いずれもこのままでは人間社会に大きな影響を及ぼす出来事なのに、社会の関心は薄いと言わざるを得ない。陸地に暮らす人類にとって、海の問題など大した事ではないと思っているのだろうか。だが海は地球環境そのものに影響を与えている。そこが破綻して、どうして人類が、文明が無事だと言えるのか。海の状態を知らないままでいるのは、座して滅びを待つのと変わらない。
飯海幸恵は、この危機的状況にある海の環境について調査・研究をしている科学者である。
学生時代から様々な論文を発表。若干三十代にして助教の地位に就いた、若き天才と周りから称賛されている。幸恵本人はあまりそういったものに興味はなく、褒め言葉に無関心。本人の端麗な容姿もあって、冷たい美人、という印象を与えるだろう。お陰で親しい友人というのが極めて少ない。
「飯海くん、この状況をどう思う?」
幸恵に意見を求めてきた人物――――学生時代の恩師にして上司である教授の畠山勇次郎は、その数少ない『友人』の一人と言えた。六十半ばを超えた彼と幸恵は親子ほどに歳が離れているが、そんな事は気にならない程度には親しい。
勇次郎の隣に立つ幸恵は、彼の顔ではなく自分の正面をじっと見つめる。
此処は大海原のど真ん中。
より正確には日本本土から太平洋上に八百キロほど離れた、高火島という島の周囲に広がる海だ。幸恵達は大学保有の小型船に乗り、その海に浮かんでいる。南方に位置するため、一月にしては高めの気温だが、船が飛び散らせている海水を浴びれば流石に少し冷えを感じた。
近くに浮かぶ高火島は面積二十平方キロ未満という小ささ(小笠原諸島の父島よりも小さい)で、暮らしている島民はたったの二百五十人。中学校にはフェリーで通わねばならず、生活はお世辞にも『高水準』ではない。また高火島は火山島である。現在噴火の兆候はないものの、数万年前に噴火した形跡がある事、そして観測所がないため緊急事態に対応出来ない事から、島民の移住が国から推奨されている。尤も、島での暮らししか知らない島民が、いきなり本土に移れと言われたところで従う訳もない。戦前から移住の話は出ているが、実現はしていない状況だ。
そんな高火島の産業は、漁業が主体である。というより火山島である高火島の土壌は薄く、農業に全く向いていない。植生が乏しいためヤギなどの家畜も飼えず、魚を捕まえる以外に生活の糧を得る術がなかった。
幸恵達がいる海は、島民達の生活を支えてきた恵み。澄み切った青さが美しい、魅惑的な大自然。
その自然が今、腐臭を垂れ流している。
「正直、信じられない状況ですよ、教授。何故こんな事になっているのか、今のところ見当も付いていません」
「うん。僕もそう思う。赤潮でもないのに、一体どういう事なんだろうね」
勇次郎は顔こそ笑っていたが、声色と眼差しは真剣そのもの。海から漂う悪臭に、思考を巡らせている。幸恵も同じく考え込む。
――――魚の大量死。
三日前から高火島周辺では魚の大量死が頻発しており、幸恵達はその調査のために此処を訪れている。先述した通り高火島は漁業が主要産業であるため、魚の大量死は島民の生活を脅かす。原因を突き止め、可能ならば解決策の提示、或いは適切な補償について意見するのが幸恵達の仕事だ。
そして海に出た訳だが、現時点で魚の死骸は見られない。しかし問題が解決していない事は、海から漂う悪臭が教えてくれた。恐らく近海の魚は死滅したか、危険を察して逃げたのだろう。
海から悪臭が漂う要因として、真っ先に浮かぶ理由は二つ。
一つは工業排水、もう一つは赤潮だ。どちらも魚の大量死を招く。工業排水の中には魚介類にとって猛毒の成分を含んでいる場合があり、赤潮は大量発生したプランクトンによる酸欠や毒素などで海洋生物を死滅させる。
このうち工業排水については除外して良い。本土から八百キロも離れ、最寄りが人口二百五十人の高火島しかないこの海の近くに、排水を垂れ流す工場なんてない。本土の工場で出された排水が海流によって運ばれた、という可能性もまずあり得ない。八百キロも離れた海まで移動したら、高々一工場の排水なんて簡単に薄まってしまう。どれだけ大量の、恐るべき猛毒を垂れ流したところで、この島には一切影響なんてない筈だ。仮にそれほどまでに強烈な猛毒排水を大量に流していたら、その排水から揮発した成分だけで本土の人間(と工場の従業員)はバタバタと死んでいるだろう。
だとすると赤潮が現実的な可能性であるが、この海にその兆候、例えば海水の色に異常は見られない。そもそも赤潮とはなんらかの要因でプランクトンが大量発生している状態であり、プランクトンの栄養となるものがなければ中々起こらない。そしてプランクトンの栄養とは主に窒素やリンなどであるが、これは工業・農業排水に多く含まれる。やはりこの島周辺では考え難い要因だ。
おまけにこの悪臭、赤潮の時の生臭さとは異なる。
「……ヘドロ臭い……?」
直感的に幸恵が思ったのは、ヘドロの臭い。
傍でこの独り言を聞いた勇次郎も、こくりと頷いた。
「確かに、これはヘドロの臭いっぽいね。ドブ浚いをした若い頃を思い出す」
「海底で無酸素化が進んでいるのでしょうか。しかし、この辺りの海域はそこまで深くない筈です。いくら世界的な酸素濃度低下が進んでいるとはいえ、この辺りが無酸素化するとは考え難いかと」
「そうだね。だからもし起きているなら、悪い意味で世紀の大発見だ。可能性を否定するためにも調べるとしよう。とりあえず、海底の泥でも採るかな」
「そのための道具を持ってきておいて良かったです」
「あ、あのー……」
幸恵と勇次郎が言葉を交わしていると、若い声が声を掛けてくる。
麻原敦。幸恵の勤める大学に通う二年生であり、幸恵達の所属する研究室の一員だ。今回は海洋調査に始めて同行し、主に雑用などを担当してくれている。熱心なのだが、まだまだ「海の生きものが好きな少年」レベルの知識しかない。これからの成長が期待される身だ。
若い学生が何かを聞きたがっている。助教授、即ち人にものを教える身分として、その疑問を無視する訳にはいかない。
「うん、麻原くん。どうしたのかしら?」
「い、幾つか質問が。あの、ヘドロと無酸素にどう関係が? あと酸素濃度低下って……」
「ふむ。そこの説明ね」
敦の疑問に、幸恵は一つずつ答える。まずはヘドロと無酸素化の関係について。
海でなんらかの有機物……例えば生物の死骸が発生すると、それらは他の生物の餌となる。他の生物とは、甲殻類や魚などの『動物』も含むが、一番活躍するのは微生物だ。小さな単細胞生物達は死骸を食べて増殖し、有機物を無機物へと分解。無機物は水に溶け出して植物プランクトンを育む栄養となり、植物プランクトンは魚やエビの餌となって再び生態系を循環していく。
と、これだけならなんの問題もない、むしろなくてはならない働きである。
だがなんらかの要因(例えば高水温や有害な工業排水など)によって、大量の生物が死ぬと話が変わる。生物の大量死というのは、細菌達からすれば餌の大量供給に他ならない。当然餌を食べまくり、細菌はどんどん増殖する。
そして増殖した細菌は酸素を消費する。
細菌の数が多ければ、それだけ多くの酸素が消費される。本来なら海流や大気から酸素は供給されるが、その供給量を超える呼吸をすれば酸素濃度は低下していく一方。やがて海底から酸素が枯渇してしまう。
海洋生物も、その多くは酸素呼吸を行う。細菌達だって酸素呼吸生物だ。酸素が枯渇すると、これらの生物が一斉に窒息。更に大量の有機物が堆積する。しかし酸素が尽きた状態では、細菌達も生きていけないため殆ど分解が起こらない。
この分解されない有機物の塊がヘドロだ。
「まぁ、よくある原因が有機物の大量発生ってだけで、他にもヘドロが生じる要因はあるけどね。例えば堤防などで海の流れを止めても、今までよりも酸素供給が減るからヘドロの発生要因となるわ」
「な、成程……えっと、それで海の酸素濃度低下とは?」
「中学ぐらいで習わなかった? 水は温度が上がると溶存酸素量、つまり水に溶け込む酸素の量が減るって。今、地球温暖化の影響で海水温が世界的に上昇している。だから水の中に酸素が溶けにくくなっているの。あと、海洋大循環も止まりつつある」
「海洋大循環?」
海洋大循環とは、地球の海を巡る大きな流れだ。この流れの出発点は二つあるが、いずれも南極などの寒冷地にある。
この出発点で表層、つまり浅い場所の海水が深海へと沈んでいく。
浅い場所の水が沈む原理は、寒冷な空気に触れて冷やされるため。温かい水は上に、冷たい水は下に溜まるというのは、小学生の理科で習っただろう。普通であれば海も同じように表層の方が温かく、冷たい水で満たされた深海に流れ込む事はない。しかし寒冷地では空気によって急激に冷やされるため、海底よりも表層の水が冷たくなる。冷たい水は底に溜まるもの。海底より表層の水が冷たければ、表層の水は底へと向かう。この動きにより大きな流れが生まれるのだ。そして沈んだ水は世界を巡り、赤道などで浮上。再び寒冷地へと流れ、また冷やされて沈む。
そして深海の酸素は、この大循環によって運ばれる。
そもそも地球における酸素の発生源は主に植物であるが、この植物が酸素を生むには光合成……光が必要である。しかし深海は水に遮られて光が届かないため、光合成は行われない。また大気中から酸素が溶け込むにしても、それが起きるのは空気に触れている水面だけ。遥か数百メートル下の海底までは殆ど届かない。
このため海洋大循環による酸素供給なければ、海底は無酸素化してしまう。
「えっ!? じゃあそれが止まったら、深海魚とかみんな死んじゃうんじゃ……」
「必ずしもそうとは限らないけどね。シーラカンスみたいな古代からの生き残りはいるけど、古代にも海洋無酸素化は起きたと思うし。浅い場所に逃げるとか、冷たい場所に行くとか、やりようはあるんでしょう。でも全ての種が生き残る訳じゃない……深海魚は食用として日本でも多く消費しているのに、この問題、全然取り上げられないのよねぇ。自称魚好きなら、もう少し関心を持った方が良いと思うんだけど」
思わず愚痴をこぼしてしまったが、ともあれ海洋無酸素化の原理については説明した。
要するに温暖化により海洋の無酸素化が進めば、海底にヘドロが堆積する可能性があるという事だ。そしてそれは今、現実に起きつつある。既に多くの研究で海洋大循環の弱体化が報告され、海底における無酸素領域の拡大も論文が出ている。正に一刻の猶予もない問題だ。
しかし今回、この海にそれが当て嵌まるとは思えない。
「この辺りの海域は、精々水深三百メートル。人間からすれば十分深いけど、無酸素化が発生するほどとは思えないわ」
「でも、この臭いはヘドロっぽいんですよね?」
「そうなのよねぇ。だからよく分からない。ま、あれこれ考えても仕方ないから、海底の泥を引き上げて調べようって訳」
「なので麻原くん、船の備品置き場から検査道具を取ってきてくれるかい? 採泥器って書いてあるやつね」
「わ、分かりました!」
勇次郎に指示され、敦は大急ぎで備品置き場へと向かう。
慌てなくてもいいのに、と言おうとした幸恵であるが、どうせ探すのに時間が掛かるだろうと思って口を閉ざす。勇次郎も自分も片付けが苦手で、あの置き場は酷くごちゃごちゃしているのだから。
「で? 飯海くんは何やら納得してないね?」
敦が探し物をしている間、幸恵は勇次郎ともう一議論する。
「……仮にこの悪臭の原因がヘドロだとして、それで魚が大量死するとは思えません。此処の海底がヘドロ化するぐらい酸素濃度が低下しているなら、そうなる前に魚はみんな死んでいるか、逃げているでしょう」
「ああ、そうだね。島民の話でも、ここ何年かは魚の大量死なんて発生していない。むしろ去年は豊漁だったというし、酸欠が起きていたとは思えない」
工業排水など多量の有機物投入がない、環境変化(例えば温暖化)に伴う無酸素化が起きていたとすれば、その変化は極めてゆっくりな筈だ。酸欠もゆっくりと進行し、まずは元々酸素濃度が低い海底に生息していた魚類や甲殻類が死ぬだろう。酸素のある場所まで逃げられない、稚魚なども多く死ぬかも知れない。
だが全滅には至らず、漁業としては毎年少しずつ漁獲量が減っていくように感じられる筈だ。当然ヘドロも少しずつ溜まる。
そういった兆候もなく、突然悪臭がするほど大量のヘドロが堆積するなんて考え難い。強いて可能性を考えるなら、何処かの大企業が何百隻もタンカーを引き連れ、一斉に生ゴミの不法投棄をしたという無茶な妄想しか思い付かないぐらいには。
実に奇妙で不可解。だが、だからこそ解明し甲斐がある。
「(もしもこれが温暖化や環境破壊に起因する新事象なら、今後世界中で起きるかも知れない。それが更なる問題悪化を引き起こす可能性もある)」
環境問題というのは、今この瞬間に原因を解消しても、さながら慣性で走り続ける車のようにしばし悪化し続けるという特性がある。
何故なら一度起こした破壊により、環境の破壊が連鎖的に続くからだ。例えば地球温暖化により山の氷が少なくなると、その分地表面の露出が増える。地表面は氷よりも『黒い』ため、太陽光の熱を吸収しやすい。即ち温まりやすい。これにより地域一帯の平均気温が上がり、更に広範囲の氷が溶け出し、また気温が上がっていく。
この悪循環も何処かで安定し、止まるだろう。だが何処で止まるかは分からない。山の氷の例にしても、全ての氷が溶けてもそれで終わりとは限らない。平均気温上昇に伴い土壌水分の蒸発量が増え、大雨による洪水・周辺植生の破壊を引き起こす事も考えられる。
今回高火島周辺で起きた異変も、温暖化など環境問題に起因する何かかも知れない。それが連鎖的に周辺環境を破壊しているとしたら……人類はいよいよ海の恵みを失うかも知れない。
逆に問題を解決出来れば、海と人類を救う事も出来るかも知れない。
「(俄然、やる気が出てきたわね)」
人のため、そして海のため。幸恵はなんとしてもこの異常事態の原因を突き止めると決心した。
――――その志は尊く、正しいものであろう。
だが幸恵は知らない。いや、知っていたが見て見ぬふりをしていた。環境問題には後戻り出来ない地点……引き返し不能地点と呼ばれるものがある事を。そこを越えてしまっては、もう気候変動は人間の手ではコントロール出来ない『破局』になる。
此処で起きているものは、既に破局となったものであり。
そして破局は今、幸恵達のいる海域に接近していた。




