第二章 浮世に咲く、終わりの花
第二章 浮世に咲く、終わりの花
一
「誠くん。君はもうすでに鍵を握っているの」
聖スサク大付属病院の小さな個室の病室で花蓮はそう呟いた。最後に誠に会ってから三週間が過ぎていた。次に彼に会う時は自分が死ぬ時であろう。そう釘を打っておいたから誠は必ず自分を殺しにくる。それが彼に課せられた宿命という名の呪縛なのだ。タリタスとなった人間の宿命であり呪縛。
今から六百年以上前、時代は室町。これまでの鎌倉文化に庶民の禅宗の文化が融合した時代であった。そして室町時代独自の文化が形成されていく。室町時代の文化には足利義満の頃に開花した『北山文化』。そして足利義政の頃に開花した『東山文化』さらに北山文化以前に栄えた『南北朝文化』に分かれている。この時代に茶の湯や生け花そして能や狂言という文化が生まれ、そんな時代を花蓮は生きていた。同時にこの時代、花蓮は一人のタリタスを殺す。
タリタスが生まれ変わる可能性は限りなく低い。詳しい統計があるわけではないが一千年に一度くらいだと花蓮は自覚していた。当時日本には花蓮の他にもう一人のタリタスがいた。その人物を『足利千寿王』という。
千寿王は室町幕府の第二代将軍・足利義詮の長男であり生母は正室の渋川幸子。義詮の幼名と同じく千寿王と名付けられ足利将軍家の後継者としても目されていたのだが五歳で早世したと言われている。しかしこれは史実とは違い現実の千寿王は生きていた。それも五歳から時が止まったかのように。彼は五歳の時に大病を患い生死を彷徨った。助かる見込みがないとされ義詮が彼を死んだように秘密裏に処理をしたのである。しかし彼は不死鳥のように蘇った。同時にそれ以降歳を取らなくなったのである。
その後五歳の容姿を抱えたまま千寿王は静かに生き続ける。彼は元来才能豊かな人物であったが臨済宗の禅僧だった「夢窓疎石に永遠の子供である特質を見抜かれ禅僧として迎え入れられる。そして武家社会に臨済宗の教えを説くために疎石と共に活動したのである。時代はそれまでの優美で華やかな公家文化に禅宗の質素な文化が反映され見事に融合していった。
しかし千寿王は永遠に子供のままの自分という異質な存在に疑問を抱くようになった。千寿王は臨済宗の禅僧になったため坐禅で悟りを得る修行がなされた。臨済宗では悟りを開く修行をする際に師弟が向かい合って座り禅問答を行う。師匠は弟子に問いを投げかけ弟子はその問いに対して頭で考えるのではなく体全体で思考して答える。この一連の流れが論理を超えた真実を導き出し悟りの境地を開くのである。
この修行の際、千寿王は師である疎石の問いかけから悟りの境地を開く。同時に、その時彼は察したのだ。自分は永遠に生きる人間であり自分を殺せるのは同じ永遠に生きる人間なのだと。それを察した千寿王は修行と銘打って日本全国を旅する。永遠の子供のまま。その異様な姿に人々は恐怖を抱いたが同時に神の化身として崇め称えた。そしてそれから二百年後の1603年、徳川家康が江戸幕府を開いた頃江戸にやってきてさらに14年ほど経った1617年江戸吉原の遊郭で花蓮と邂逅する。同時に自分の命の灯火を消せるのは花蓮だけであると見抜いたのである。
もちろん子供の容姿である千寿王には遊郭は利用できない。しかし近づく方法がないわけではない。当時年を取らない不思議な禅僧の噂は江戸にも伝わっており一種の見世物として千寿王は江戸幕府を訪れたこともあった。その過程で遊郭の中に禅の教えを説きにいったのである。
吉原の遊郭ができたのは1617年。彼らを結び付けたのは遊郭の遊女で年を取らない不思議な女がいるという噂がたちそれを聞きつけた千寿王が遊郭に向かったことから始まる。
この当時花蓮は花蓮という名前ではなく浮世大夫という遊女の名前を持っていた。彼女は年を取らない永遠の美を持った遊女であり当時の美の象徴であった。遊郭というと花魁という存在が有名であるがこの当時は花魁という呼称で呼ばれていたわけではなく「太夫」という女郎の中でも格上の存在として認知されていた。
その太夫という存在であった浮世太夫である花蓮は同じくして年を取らない千寿王の存在を知り実際に彼に会いその結果不死者を殺せるのは不死者しかいないと告げられるのである。同時に自分が千寿王を殺す存在であると諭される。
二
「お主は拙僧を殺す存在。不死者は不死者ならざらば殺せなし。お主には拙僧を殺す役目があり」
遊郭の一室で外見が五歳児である千寿王と遊女である花蓮が向かい合って座り合う。その姿は花魁とその子供という形で見られるが内面は全く違う。二人ともタリタスという特殊な人間である。
「主さんは不死者なのでありんすか?」
花蓮は告げる。相手が自分と同じタリタスであると俄かには信じられぬ様子。しかしこの目の前に座る僧の格好をした子供は普通の子供ではない。話し方はひどく大人びているし長い間生きてきたという証というか雰囲気が感じ取れる。同時に花蓮はこの禅僧から放たれるオーラが自分と近い何かがあると感じ取っていた。
「そう。拙僧は不死者なり。さて不死者は不死者にしか殺せなし。其方の役目は拙僧を殺す。お願ひできるや?」
「あちきが主さんを殺すのでありんすか?」
「有無。その通りなり」
千寿王が悟りにより導き出した答えはタリタスはタリタスによって葬られるということであり、タリタスである人間が別のタリタスと出会った場合どちらかを殺害しなければならないというタリタスの宿命である。
タリタスは神に近い人間であり複数人必要ない。
だからこそタリタスは世界中に散らばっているものの数は少なく同地区に複数人がいない。仮に同地区に複数のタリタスがいた場合どちらが消滅する必要があるのだ。その逃れられない魔の宿命を悟りによって悟った千寿王は自らの命の終焉を望んでいた。
彼は禅僧であり永遠に生きる存在であるならばそれは高貴な存在として昇華され世の民に崇め称えられるだろう。しかしそれが本来の姿ではないような気がしていた。やはり人は死ぬから尊いのであり永遠に生きる人間など必要はない。彼は二〇〇年以上生きてきたがその中で見たものは人の醜い部分でありその中で永遠に生きるという必要性を感じていなかった。むしろ死んでしまいたい。儚く散って行きたい。散り際の美しさというものである。
一方花蓮は返答に迷っていた。自分がこんな子供を殺していいのかという疑念があったからだ。しかし自分と近い存在である千寿王の願いを聞き届けてやりたいという思いもあった。
「具体的にどうやって殺せばいいのでありんすか?」
と花蓮。
ひっそりとした茶の間の空間は痛ましいほど静まり返っている。
それを聞いた千寿王はゆっくりと目を閉じるとやがて話し始めた。
「不死者を殺すためにはその不死者の中に入る必要があり。これは其方にしか能はず。我々不死者は仏に近き存在なるが仏ならず。されど不死者同士お互いの心が深く結びつきたるなり。さて相手の心の入り込み命の灯火を消し去なばよし」
「しかしあちきには主さんの心に入る方法が判りんせん」
「問題はなし。不死者を殺す方法は殺す側が何かするわけならざるなり。殺さるる側が相手の心を操作し己の命を差し出す。其方は私によりて操作さるるがそれは一時的でありやがて終はる。これより決行したいのなるがよろしきや?」
人が人を殺す場合、通常は殺す側が意図して相手を殺す。つまり殺される側が何かするわけではない。しかしタリタスの場合はそうではない。消滅する側が相手をコントロールし自らの命を差し出すのである。コントロールされる側はあくまでも命の灯火を消すだけのトリガーでありそこには拒絶の意思が通らない。消滅を望むタリタスがいればもう一方のタリタスはそれに従うしかないのだ。
不思議な存在である千寿王はゆっくりと閉じた目を開けた。
静かな闇の中にひっそりと蝋燭の明かりが忍び込んでくる。この世界で長く生きた。人間のいい所、醜い所、色々みてきた。戦国時代を潜り抜け江戸の世まで渡り歩いてきたがもはや何の未練もない。タリタスは複数人必要ない。悟りによって悟った教えに従って自分は消滅する必要があるのだ。
花蓮はこの五歳児の禅僧の固い決意を見てとった。同時に自分にしかできない役目があるのならその役目を果たしてもいいと思うようになったのである。
「判りんした。やりんしょう。でも最後に教えておくんなんし。あちきたちのような人間のことをなんというのでありんすか?」
と花蓮。
千寿王は不死者と呼称していたがそれはどこかしっくりこない。何か別の呼称があるのではないかと考えたのである。
それを聞いた千寿王は
「तरिताः」
「それはどういう言葉でありんすか?」
「仏の言葉で『たりたす』と言ふ。拙僧が悟りを開きし時遥か彼方よりこの言葉が聞こえしなり」
「たりたす…。判りんした。その役目あちきがしんしょう」
その言葉を聞いた千寿王はにっこりと笑みを浮かべる。その笑みは五歳児の無邪気な笑みのようにも見えるし老人の笑みのようにも見える不思議な笑い方であった。
「拙僧、遙昔に死にかけしためしあり。同時にこはく生を願ひき。それが恐らくタリタスとなるよしとなれらむ。其方もいつか己の死なぬよしを知るほどの来るならむ」
数秒の間があった後、突如花蓮は自分の体が何か異様なものに乗っ取られるような強い感覚を覚えた。これがタリタスを殺す儀式。人が死ぬと葬儀をするようにタリタスにも死の儀式があるのだろう。花蓮は直感的にそう察した。そして乗っ取られる感覚に身を委ね彼女はゆっくりと目を閉じた。不思議なのは目を閉じたはずなのに暗闇に包まれるのではなく辺りは白い靄に包まれていたことだろう。そしてその靄の先にガラスに反射した日光のような明かりが光っているのが判った。花蓮は手を伸ばしその光に触れてみる。恐らくこれは千寿王の魂。生きる魂である。これをふっと蝋燭を消すように吹き消せばきっと千寿王の命は終わるのであろう。
ここに花蓮の意思はない。彼女は黙って自身を斜め上から俯瞰しているような状態である。体はすでに自身でコントロールできずただ淡々と操り人形のようになっていた。花蓮は光を鷲掴みにした。すると途端辺りは深い闇に包まれた。原始の宇宙のような何もない深淵の闇である。体がようやく自由になったと思った途端、花蓮は深い闇から戻ってきた。
先程までいた茶の間には特に変化はない。ただ唯一違うのは自分の前に座っていた千寿王の姿が無くなっていることであろう。煙のように消えてしまった。そして千寿王の存在は自分以外誰も知らなかった。ここに入ってきた五歳児の存在を他者に尋ねても誰も知らなかったのである。花蓮は悟る。タリタスの最後は人間とは違う。人間の最後は皆に見送られるがタリタスの最後はその存在ごと消えるのである。これはタリタスの呪いであり宿命なのであると花蓮は悟る。
やがて自分にも消える時がくる。それが何十年いや何百年先なのかは判らない。しかし自分以外のタリタスが現れる瞬間がきっとある。その時自分は存在ごと消えるのだ。それが悲しいのか嬉しいのかイマイチ判然としない。人は死んでも生き残った者たちの心の中で生き続けるからこそ人間というものは尊い生命なのだろう。しかしタリタスの最後はタリタス以外の人間たちの記憶から完全に消えてしまうのである。
花蓮は笑う。
次のタリタスが現れるまで自分はこの世界で生き続けるのだから…