その親子はいつも自販機のアイスを食べている
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その親子はいつも自販機のアイスを食べている。
スーパーの一画。時刻は大体16時頃。
店内に入って一番初めに目に飛び込んでくるのはカプセルトイの列であるはずなのに、子どもはそんなものには目もくれず、アイスの自販機に一目散。
自販機近くのベンチに座って、母親と子ども、2人で分け合いっこしながら食べている。
私はそんな親子を、大量のショッピングカートを押しながら毎日目にしていた。
私の仕事はこの店内に散らばったショッピングカートを回収することだ。
規模の大きいスーパーでは、あちらこちらにショッピングカートを取り出し返却する場所がある。その置き場を均等に、そして過不足なく整理するのが私の仕事だ。ただのショッピングカートだけであればそこまで苦労はしないのだが、このスーパーではチャイルドシートを備えたものを3種類、カート上で精算ができてしまう機器を搭載したものも取り揃えていて、ショッピングカートだけでも5種類も運用している。だから、私達のようなカート回収係がいなければ、到底この店内のショッピングカートを客の不自由なく回す事はできないだろう。
私はこの仕事を始めて2年になる。長年勤めていたバス会社を定年退職し、この仕事に就いた。
40年近くも働いて、最初は仕事なんてもう一切しないつもりでいた。けれど家でたった1人過ごす寂しさは、仕事が忙しく充分に休息が取れないことより私には耐えられなかった。
仕事に打ち込み過ぎて、すっかり家族というものをおざなりにして生きていた。出世してこそ、金を稼いでこそ男の生き様という時代を私は生き抜いてきて、家族のことなど全て妻に任せきりだった。そうして気付けば、妻も子ども私の周りからいなくなっていた。
定年退職後も同じバス会社で働き続ける選択肢もあった。だが、一度綺麗すっきり辞めてしまった手前、またお世話になるのも何やら気が引けてしまって、それならとたまたまアルバイトを募集していたこのカート回収の仕事に就いたというわけだ。
この2年間、私はひたすらショッピングカートを動かしてきた。勿論、その他の雑務もあるのだが、多くの時間をショッピングカートを押すことで過ごしているように思う。たまに同僚と酒を飲みに行って、けれど特に大きな面白みがあるわけでもなく、ただ平凡に同じ毎日を過ごす。
そんなある日、その親子を見かけたのだ。
幼稚園の帰りだろうか。制服を着た3歳くらいの男の子が、自販機の届かないボタンに必死に手を伸ばしている。母親が「どれなの?これ?」と言ってボタンを押してしまうと、「ボクが押したかったのっ」と子どもが駄々をこね始める。
母親の大きな溜息がここまで聞こえてくるようだった。彼女の背中からは疲れ切った雰囲気が隠さず漏れている。
怒るのだろうか。わがまま言わないで、と、そんな言葉が聞こえてくるような気がした。
けれど、その母親は違った。疲れ切った背筋を整えて、子どもを抱きかかえる。「じゃあ、ママの押してくれる?」と若干棒読みではありながら、そんな優しい言葉を子どもに投げかけている。
機嫌を直した子どもと2人でアイスを食べる。食べ終わったら、すぐに店から出ていく。
私はその親子を毎日見かけた。平日の大体16時。やがてその時刻は、短くとも私にとって価値のあるものになっていた。
季節が巡っていく。過ごしやすかった気候は徐々に暑さを増していき、子どもの服装はいつの間にか可愛らしい白色と水色の制服に変わっていた。母親の服装もそれに合わせてかゆったりとした涼し気なワンピースに変わって、そんな彼等の姿から、私は夏の到来を感じていた。
親子は今日もスーパーに訪れる。子どもがアイスに飽きてきてしまったのか、以前と比べると来る回数はぐっと減ったけれど、それでも1週間に一度、親子は必ず自販機の前に現れた。
あれ?そう言えば最近見ていないなと思ったのは、夏の暑さも随分と和らいで来た時だ。
1週間、いや、2週間近く、あの親子を見ていない。
一体どうしたのだろう。あんなに足繁く自販機に通っていたのに、子どもはすっかりアイスに飽きてしまったのだろうか。
それとも、何かあの親子にあったのか。
ぞくりとした。微笑ましいあの親子に万が一のことが起きていたらと想像したら、これまでの人生で一度も味わったことがないような息苦しさに襲われた。
けれど、私にはあの親子に何があったのか、それを知る権利も方法もなかった。あの親子はただのスーパーの客で、私もただのショッピングカート回収係なのだから。
それ以上の関係など、夢にも思っていなかったのだから。
そのまま時は過ぎていく。親子が訪れなくなってから、2ヶ月近く経っただろうか。
ある日、スーパーであの子どもを見かけた。時刻は大体19時頃。例のアイスの自販機の前でだ。
子どもの隣にいたのは母親ではなかった。背の高い見知らぬ男性が、疲れ切った顔で子どもの背中に向かって「走んないで!」と怒っている。
昔は多くの女性から言い寄られていた私から見ても色男に見えた。そして、子どもと顔がよく似ている。
父親だろうか。思えば、ずっと母子を見ていたのに父親を見たのは初めてだった。
子どもがアイスの自販機の前で止まる。食べたいアイスのボタンが押せなくて、父親に抱っこをせがんでいる。父親はやれやれと言うように子どもを抱き上げる。
子どもは椅子でアイスを食べたいと言った。けれど父親は「車で食べようよ」と返事をする。当然、子どもが納得するはずもなく、椅子で食べたいと駄々を捏ね始める。
子どもが納得しないのは当然のように思えた。自販機近くのベンチで食べるアイスは母子にとって大切なもので、子どもはその時間をきっととても楽しみに思っているはずなのだ。
ちらりとたった1回来ただけの父親が、その価値を理解できるはずもない。
他人事なのにその価値を理解できていない父親に憤慨している自分に驚く。しかもたかが、子どもがベンチでアイスを食べたいと駄々を捏ねただけだというのに。
母親はどうしてしまったのだろう。2ヶ月前までは特に何事もなく元気そうにしていたのに。
子どもの元気は嬉しく思えど、心の内のそわそわとした感覚は変わらない。
根負けした父親が、子どもと一緒にベンチに座る。子どもがアイスの包装を開けてほしいと父親にせがんで、父親はそれを面倒臭そうに開ける。
クッキー&クリーム味のアイスクリーム。子どもはいつも、これかオレンジ味のシャーベットを美味しそうに食べている。
無我夢中で子どもはアイスを頬張っている。口元はすっかりアイス塗れになっていて、そこからゆっくりとアイスが垂れていく。
ーーーアイス、美味しい?
母親がハンカチを片手に、子どもの口元を拭いている。呆れながらも笑って、子どもにそんな言葉を掛けている。
ーーーうん、美味しい。まる、このアイス大好きなんだよ。
瞬きをする。ベンチに座っていた母親は消え失せていて、そこには父親が座っている。
アイス塗れになっている子どもの口元から、ゆっくりとアイスが垂れていく。それはやがて、雫となって子どもの着る制服へと落ちていく。父親の視線は携帯に注がれていて、そんなことには気付きやしない。
「ねぇ、落ちた」
子どものそんな言葉に、父親は携帯の画面を見つめたまま「え?」と答える。
「アイス、落ちた」
「えっ」
父親が慌てたようにベンチの下を見る。どうやら、子どもの拙い言葉のせいで、アイスを床に落としてしまったのだと勘違いしたようだ。
「違う。ここ」
子どもが自分の制服のズボンを指差す。そこに広がる小さな染みを見て、父親は「何だ。びっくりした」と言う。
そんな光景はその日から1ヶ月、毎日のように見るようになった。時刻も大体19時頃。たまに20時を過ぎて見かけることもあり、そんな日は父親も子どもも疲れ切ったような顔をしていた。
1ヶ月経っても母親の姿を見ることはなかった。父親のワイシャツには暫くの間アイロンが掛かっていなくて、日に日にやつれていくような雰囲気すら感じる。
そんな父親の姿は、妻に見捨てられた夫の末路のようにも見えた。
この男は、あの妻に捨てられてしまったのだろうか。私のように、ある日、突然。
今までの人生、他人に同情したりどうしようもなく共感してしまうこととはおおよそ無縁に生きてきた。日々の仕事に忙殺され、自分以外の人間を気遣うことなど到底できやしなかったからだ。
そんな私が、今、自分でも想像もできなかった程、この男の心の内がわかるような気がしている。
何故、もっと妻の話を聞こうとしなかったのか。何故、彼女の言葉の意味を理解しようとしなかったのか。何故、彼女がそこにいることが当り前だと思っていたのか。
失って初めて、その大切さに気がつく。そして気付くからこそ思うのだ。
私は妻を心から愛していたのだと。
男は駄目な生き物だ。愛は言葉にしなければ伝わらないというのに。
せめてあの家族には私と同じような末路を辿って欲しくなかった。けれどそれからも、母親が姿を見せることはなかった。
アイスの自販機から目を逸らす。もう私は彼らを見てはいられなかった。
私は今日も、ショッピングカートを移動する。自販機を見ないようにしながら、上から下へ、下から上へとひたすらショッピングカートを動かしていく。
季節はすっかり冬を迎えていた。冬休みの子ども達が、昼間からフードコートに居座って楽しそうにゲームをしている。
冬であれどアイスの売れ行きはそこそこ快調だった。店内は外の寒さなど微塵も感じられないほど温まっていて、故に皆、アイスの自販機の前に自然と集まっていく。
子ども達の笑い声が店内に響く。そんな楽しげな声に混ざって、赤ん坊の泣き声も聞こえてくる。
私は気にせずカートを押しながら歩く。数人の子ども達がアイスの自販機から走り去って行く。走ると危ないよ、と心の中で彼らの背中に注意する。
子ども達の背中をじっと見つめて、何も言えないまま目を逸らす。
「ママっ!」
自販機の近くで、そんな子どもの声が聞こえた。ゆっくりと視線を動かし、しかし目に飛び込んできたその光景に、私は目を見開く。
例の子どもがいた。アイスの自販機の前で、このアイスが欲しいとせがんでいる。そのすぐ傍にいたのは、あの母親と父親だった。
母親が「どのアイス?」と子どもに聞いている。子どもの手をぎゅっと握ったまま、3人で自販機を見つめている。
いや、4人だ。母親の胸の前で、まだ生まれたばかりの小さな赤ん坊が泣いている。
強い想いが込み上げてくるようだった。その想いは涙となって私の頬を伝う。
気付けば大人気なくおいおいと泣いていた。近くを通り掛かった同僚が怪訝な顔をしていて、けれども涙を止めることはできなかった。
良かった。本当に良かった。あの家族はまだそこにあった。無くなってなどいなかった。
母子が自販機の傍のベンチに座ってアイスを食べている。2人でそれぞれ違うアイスを食べて、分け合いっこしている。子どもの口元からアイスが垂れると、母親はそれを直ぐにハンカチで拭う。
いつの日からかずっと心待ちにしていた光景が、そこにはあった。
涙を拭う。さぁ、自分の仕事をしなければと、カートを押す手に力が入る。
カートを所定の場所に移動して、私はその場を後にしようとする。けれどすぐに足を止めた。ぐっと拳を握り締めて、高鳴る鼓動を感じながら私は後ろに振り返る。
こんなにも緊張したのは、一体何十年ぶりだろうか。
子どもがアイスを頬張っている。クッキー&クリーム味のアイスクリーム。母親はオレンジ味のシャーベットを食べていて、冷たそうにシャーベットをハンカチで包んでいる。私の心臓はこんなにも速く動いているのに、目の前に広がる光景はそんな私の心を知るよしもなく平和に続いている。
足を踏み出す。ゆっくりと、けれど着実に。
それはもう二度と、後悔しない人生のための決意だった。
「これはこれは、可愛くて元気な赤ちゃんだ」
終
これは布石である。
短編小説であり、短編小説ではない。
その物語が始まる時、
貴方の見えていた世界は一変する。