隣国
入学初日から落ち着かないことが続いてしまった。
ラッセと会えたことは嬉しい。でも、嬉しいだけでは済まない年齢になってきているのよね……。友人の枠から一歩踏み出せば、逆風が吹きすさぶことになるだろう。
更には隣国の公爵子息とも面識を持ってしまった。男爵家の社交としては、本来なら順調な滑り出しと喜ばれそうなんだけど……。今年の新入生にも高位貴族はもちろんたくさんいる。そんな中で男爵令嬢がしゃしゃり出ているとなれば、面倒ごとを呼んでしまいそうだわ。
周囲にも、もっと気を配っていかないとね!
なんて気合を入れた昨晩が、もう遠い昔のことのよう。思わず溜め息がこぼれ落ちてしまう。
「何か心配事でも?」
溜め息に気を悪くするでもなく、気安い笑みを浮かべる。きっと悪い人ではないのだろう。黒髪に陰鬱とした雰囲気はなく、むしろ爽やかに見えるのだから不思議だ。私も明るい笑みを浮かべられたら、きっと仲の良い友人同士に見えたと思う。
「気遣いありがとうございます。大丈夫ですわ」
「そう? 話すだけでも気が楽になることもあると思うよ?」
そうですわね、と曖昧に頷きながら、今話しかけられていることが心配ごとですとは、口が裂けても言えない。
年上の、隣国の、公爵令息、クリスティアン・ソールバルグ。
ただの一つも間違いは許されない。相手がどんなに友好な態度を取っていようとも。ましてや人通りも多い学園の廊下で。誰か手を差し伸べてくれる人はいないものかとも思うけど、対抗できそうなラッセはもちろんヴィンセント様もアマンダ様も、一年生の教室が並ぶ廊下に都合よく現れるわけもなかった。そう、一年生の廊下なのよ。三年生のソールバルグ様が何故いるのだろう?
「あの、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
たまたま通りかかったなんてことはないのだとしたら、私に用事があるのだろうけど、皆目見当がつかない。昨日も挨拶しただけだし……。
「オリアン嬢のことが、ちょっと気になったんだ」
「私が、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
周囲もわずかにざわついた気がする。ソールバルグ様のことを把握していなくても、異国情緒溢れる美男子なのだ。ロマンスを期待しちゃうよね。
「星が秘す赤薔薇の君を知りたくてね」
「そのような方は存じ上げませんわ」
本当に一体誰のことを言っているのだろう? 周りのざわつきも一気に沈んだみたい。ただの人探しだったのだから。
「え、自覚はないのかい?」
「自覚と言いますと……」
「オリアン嬢のことだよ、赤薔薇の君」
「人違いだと思いますわ」
あり得ないことだったので、間髪入れずに否定してしまった。少し失礼だったかしら。けれど、ソールバルグ様は楽しげな笑みを浮かべられる。
「じゃあ、確かめてみるかい?」
一言で言えば、大分怪しい。
返答に窮したところで、授業の開始を告げる鐘が鳴った。
「申し訳ございません。授業がありますので、失礼しますわ」
しっかりとカーテシーをして、礼を失さないようにする。これで質問に答えなかったことは帳消しにしてほしい。意図が通じたのかどうかは、分からない。
「またね」
ソールバルグ様の声は何故か弾んでいた。
とりあえず、国際問題になるようなことはないだろう。
でも、学生生活は問題大有りかもしれないわ……。教室に入ると、興味深そうな瞳たちに迎えられてしまったから。廊下側の窓から丸見えだったものね……。でも、声をかけられることはないし、気付かなかったふりをする。
教室の席は、階段状に並んでいる。後ろの席でも教壇がよく見える。決まった席はないので、みんな自由に座っている。私は席を取ってくれていたエステルとベアトリスの隣に座った。
「大丈夫だったの?」
「ええ、多分」
微妙な返答に、エステルはますます顔を曇らせる。それはベアトリスも同じだ。
「一度、アマンダ様に相談してみる?」
「そうね、相談してみようかしら……」
アマンダ様なら、国は違えど同じ公爵家。万が一、ソールバルグ様に無理難題を突き付けられることがあっても、問題なく退けてくれると思う。星が秘す赤薔薇の君なんていう大層な二つ名の真意もご存知かしら?
三人で頷き合った所で、先生が教室に入ってきた。あちこちから飛んできていた視線も、鳴りを潜める。
初回の授業は、年間のスケジュール、成績の評価方法等、全般に関することが中心だ。この辺もヴェロニカの頃と変わらないわね。
先生の話を聞くともなく聞いていると、先ほどまでのやり取りが気にかかってくる。
バルグリング王国は、その名の通り、山々にぐるりと囲まれていて、国全体が巨大な盆地になっている。スコーグラード王国の南側に位置することもあって、冬でも温暖なのよね。国土はそこまで広くないけど、肥沃な大地で、鉱山にも恵まれたことで、裕福な国ではある。
中央の王家と四方を守護する四つの公爵家によって、国政も安定している、はず。
その公爵家の一つ、ソールバルグ公爵家の嫡男であるクリスティアン様が、隣国とはいえ、わざわざ留学してきているのは何故だろう?
安定した国では文化が花開く。次代に不安定さが丸見えのスコーグラード王国より、バルグリング王国の方が落ち着いて学問にも取り組めると思うのだけど……。
ヴェロニカの頃とは情勢が変わってきているのだろうか。それとも後継のラッセに接触することで、スコーグラード王国の行く末を見極めようとしている……?
なんて考えすぎかしらね。
私は一先ず目の前の授業に集中することにした。