無知なる子 8
明日が来るのが待ち遠しい。
こんなにワクワクした気持ちで日々を送るのは、初めてのことだった。未来を望む自分がいるなんて驚きだった。それだけカロリーナの存在は、大きなものになりつつあった。
だから、もっと自分のことを知ってほしいと思ったし、友人の関係を深めたいと思ったのだけど……。
――え、薬草摘みに誘われたのですか?
オリアン男爵家に届けた手紙の内容を聞いてきたので、素直に答えたらエドヴァルドは戸惑いを隠さなかった。
――出す前に確認すべきでしたかね……。
ちらりと傍らに控えているアードルフに尋ねている。いつものように毅然とした態度を見せるかと思いきや、アードルフは気まずそうに視線を逸らす。
――王族の手紙を検分するなど、不敬かと。
手紙の内容を第三者に見られるのは正直恥ずかしい。だけど、仮にも王族から貴族へ手紙を出すとあれば、中身の確認が必要になることもあるのかな、と思ってしまう。私もカロリーナも責任を取れない子供であれば尚のこと。
兎にも角にも二人の様子から、貴族令嬢を薬草摘みに誘うのはまずかったらしい。
――私としては、友人には普段の自分を知って欲しいと思ったのだが……。
――そうですね。お互いを知っていくことは、とても大切ですね。それと同じくらい相手を気遣えることも紳士として大切なことなのですよ。
――気遣い……。
――オリアン男爵は爵位こそ低いですが、裕福な家ですからね。貴族令嬢として育てられていれば、土に触れたこともないのではないでしょうか。
自分の考えを押し付けてしまっていた。
後悔は胸に痛みを与える。ろくに気遣いもできない男など、友人としてもごめんだと言われるかもしれない。その思いは、当日のカロリーナの姿を見た瞬間に、確信に変わったはずだった。カロリーナは貴族令嬢として逸脱しない範囲で、動きやすさを重視した外出着の恰好をしていたから。こんなにも無駄に気を遣わせる相手と一緒に過ごすのは、苦痛だろう。更に言えば馬車も用意できない体たらくだ。
だけど、カロリーナが怒ることはなかった。
――ラッセ、色々と気にかけて頂いてありがとうございます。今はまだ友人の距離を測りかねている状態ですもの。色々と齟齬が出てしまうのは、仕方のないことですわ。
――友人の距離?
――ええ、今回、私は貴族令嬢としての準備をしましたわ。でも、ラッセは王族ではなく普段のラッセとして準備して下さいました。どちらが良いのかは、これから考えていけば良いのです。
カロリーナは広い視野を持っているのだろう。すぐに自分のことだけでいっぱいいっぱいになる自分とは、見えている範囲がまるで異なるのだと思う。実験の一つだと軽やかに言ってのけながら、手を差し伸べる彼女は温かで優しい。
情けない姿ばかり見せる私を、決して非難しない。
十二歳にも関わらず馬にも乗れない私も。
見知らぬ人が作った料理に怯える私も。
街の人に呪い子と詰め寄られる私も。
突然現れた弟の存在に戸惑う私も。
カロリーナは否定しない。あるがままの姿を受け入れ、前を向き、道を指し示してくれる。
――私たちは一人ではありませんわ。一緒に、一つ一つできることを増やしていきましょう?
王族としての無力さに項垂れる時も、カロリーナは隣に立とうとしてくれる。まだ十歳だった彼女。だけど、その言葉は孤独を包み込んで消してしまうほどに、大らかで温かだった。嘘偽りなく実感のこもった言葉は、背を押す力になる。
それは私だけに限ったことではなかったのかもしれない。
バリエンフェルト伯爵家の長子、アルフォンス。彼の行動の軸にはカロリーナの存在がある。私と交流のある貴族がカロリーナだけということもあるのだろう。彼個人の意志、というよりアールクヴィスト公爵家の意向を汲んだものだったとは思う。それでも彼の年齢を考えれば、社交界を生き抜く胆力が充分に育っていると言える。表に出ない第一王子を取り込むために弄した行動力は、感嘆するしかない。元騎士団長の家系という矜持がアルフォンスを突き動かしたのだろうか。
エドヴァルドの動きも、目に見えて変わった。私を保護する一方で、王家との繋がりを意識させることなどなかった。だのに、バリエンフェルト伯爵家のお茶会に着ていく服がないと知った時、エドヴァルドは大胆な行動に出た。
――アードルフ、第一王子殿下が茶会に参席する旨、陛下に伝えてください。
――陛下に、か?
――ええ。殿下の状況はよく把握しておいででしょう? 王家の威光を落とさぬために対処してくださるはずです。
――しかし、仕立ての予約を割り込ませば反発の芽も出そうだが……。
――おや、陛下が幼少のみぎりに着用されていた服はたくさんあるでしょう?
暗に陛下からの下賜を促すエドヴァルドは、普段の彼とはまるで違うように見えた。彼にとって私は駒の一つに過ぎず、とても小さな存在になったように思えて、何だか嫌だった。だけど、私を見たエドヴァルドの瞳は優しげで……。
――殿下、陛下の後ろ盾が明確になれば王宮での生活も改善されていくでしょう。王族として為せることも、今より増えますよ。
エドヴァルドは、私を一人の人として見てくれているのだと思った。話をずっと聞いてくれていたエドヴァルドだ。
私は拗ねたような顔をしていたのだろうか。エドヴァルドは苦笑して、私の頭を撫でてくれた。初めて城下を歩いた時と変わらない手のひらだった。
それからは目が回るような日々だった。
静かだった離宮は瞬く間に人が増えた。陛下自身が離宮を訪れたためだ。私に下賜するご自身の服を手ずから持って現れた陛下の姿は、衝撃が強すぎた。
――愉快なことだな。孫が私の服を着るということは。
近衛隊や、陛下専属のお針子たちがいる前で放たれた「孫」という単語は、一時間もしない内に王城を駆け巡ったという。意図的な口の軽さの怖さを実感した。そして、それは陛下と並んで豊穣祭の祭祀に参列したことで、決定的なものになった。
後は言うまでもない。
陛下の第一王子への本格的な介入は、私の生活を劇的に変えたのだ。
それは同時に王太子殿下の立場を危うくするものだった。次代の王よりも次々代の王へと関心が動いていく様は、王太子殿下をどんな気持ちにさせるものだったのか。相変わらず交流する機会がないままの私には、分かりかねることだった。祭祀では隣に並んだというのに……。
カロリーナとの交流が、私の生活を変えた。
きっと、民たちのために王族の責務を果たすことも可能になっただろう。王族として向き合うことができる。それはとても喜ばしいことだ。
だけど、そう思う一方で……。
――ラッセ、この薬草の効能は何ですの?
――腹痛に効く薬草だね。
――まぁ、腹痛……。
カロリーナは心配気に私のお腹の辺りに視線を落とす。
――えっと、私は大丈夫だよ?
毒による腹痛を案じられたのかもしれない。だから問題ないことを笑顔で示せば、安堵してくれる。その優しい顔が、何よりも嬉しい。
――ラッセ、何、にやけていますの?
にやけるだなんて。温かい眼差しのつもりだったのに。心外だと唇を尖らせば、笑みを返してくれる。
第一王子と男爵令嬢。
幸福は、小さな建物の片隅に隠れているのかもしれない、と思うのだ。