無知なる子 7
最大の幸運は、カロリーナ・オリアンに出会ったことだ。幸福とも言えるかもしれない。
エドヴァルドの店に通うようになって五年が経っていた。その間、勉学の進みは相変わらず緩やかなままだった。それでも王族という恵まれた立場にいる自分について、考える機会は多くあった。王族は民の生活を保障する存在であらねばならない。日頃の勉強の中で、私はそう理解するようになっていた。しかし、私に権限がないことも理解していた。
せめて手の届く範囲で、人々の力になろう。
結果、私は自然とエドヴァルドの仕事を手伝うようになっていた。第一王子を使うことに一切躊躇わなかったエドヴァルドは、豪胆な性格をしているだろう。万が一、王家に咎められるような場面があったとしても、民の生活を知るのも重要な責務です、と、しれっと答えると分かる。だから、私も遠慮なく頼ることができる。
エドヴァルドのブローロース商会の現状についても、知った。王家の醜聞の迷惑を被ったのなら、少しでも補填したい! なんて幼いながらに思ったのだが、エドヴァルドに切羽詰まった様子は見受けられなかった。王家と繋がりがあることに理由があるのだろう、と思うものの、詳細は不明だ。
――殿下が知るにはまだ早い話ですね。
尋ねてみても煙に巻かれてしまう。
いつか教えてもらえるならいいかな、と呑気に考える程度には、自分の人生にある種の諦観を覚えていた。王族としての力を持たないまま、緩やかに終わりを迎える確信だけはあったのだ。
その意識の変化は、よく晴れた午後の表通りに訪れた。
ご近所に薬を届けた帰り、私はうっかり転んでしまっていた。裏通りと表通りの境目となる道は、状態がまちまちで却って歩きにくいのだと知った。そして、本来の髪色が露わになっていることも分かった。ひそひそとした声は、波を作るように耳に届く。
顔を上げるのが怖かった。呪い子とここでも言われたら。
――まぁ、膝を怪我されたのね? 立てるかしら。
凛とした声で、手を差し出したのがカロリーナだった。かつらを手早く被せてくれたカロリーナは、堂々としていた。
その姿は眩しくて、上手く言葉を返せた自信はない。
――名乗るほどの者ではございませんわ。貴族の娘として当然のことをしたまでです。
自分より幼く見えたカロリーナは、貴族としての矜持を既に胸の内に秘めていた。カロリーナは私の身分を察しているようだった。だけど、カロリーナは最後まで態度を崩すことはなかった。平民であれ、王族であれ、助ける場面には手を差し伸べる。その誠実さが、心に引っ掛かった。
そして、まともにお礼も言えなかったことが、心残りになった。心残りは、お礼を果たした後もわずかに残り続ける。もっと話したかった、もっと笑顔を見たかった、と少しずつ形を変えながら残り続ける。その意味を、十二歳の私はまだ知らなかった。
一方で知ったこともあった。
――叔父さんは私の護衛なの?
エドヴァルドの店の応接室で直立不動の姿勢をするアードルフは、傍目にも気まずさが伝わってくる顔だ。
――……アードルフとお呼びください、殿下。
叔父さんと名乗ったのはアードルフ自身なのに。ちょっと意地悪な気持ちが覗いたけど、そっと胸の内に仕舞う。エドヴァルドはからかいたそうだったけど、見つめて制する。それだけで控えてくれるエドヴァルドは、やはりただの平民には見えない。
――アードルフは陛下の近衛ではないのか?
落ち着いた口調で、改めて問う。陛下の指示をもとに動く近衛隊のアードルフが、まるで私の護衛であるかのように動いていること。それでいて、普段は身近に姿を現すことはない。彼の立ち位置を図りかねていた。
――はい。陛下の指示で動いております。
とりあえず職務を逸脱した動きはしていないらしい。
ただ陛下の意図は不明瞭だ。王城内で遭遇した際に陛下の傍で対応するのと、陛下の目が届かない所であたかも護衛のように対応するのとでは、周囲の受ける印象はだいぶ変わるだろう。
陛下の公平さのバランスが変わってきている気がする。
――そもそも殿下が出歩いているのに護衛がいない方が不自然ですからね。当然の配慮かと。
思案する私に対して、エドヴァルドは熟慮した様子もなく言ってのける。言われてみれば確かにそうなのだけど……。陛下と王太子殿下の間にいらぬ軋轢を生みそうで、少し心配にはなる。
離宮の料理には、一切口をつけない方が安全かもしれない。
――陛下もご存知なら、当面城下に下りても問題はないということで良いか?
――はい。殿下の見識を広めることになるだろうと仰せです。
一先ず餓死することもないらしい。王城での食事より、城下での食事の方が安全性が高いというのも変な話かもしれないけど。そして、陛下は視野の広い方なのかもしれないと思った。
何よりお忍びが今後も継続できそうなことに、安堵している自分がいた。カロリーナとまた会える機会を得たような気がして。
カロリーナは不思議な女の子だった。
国の第一王子が頻繁に王城を抜け出して、自ら採取した薬草を裏通りの店で売っている。事実を並べれば、だいぶ滅茶苦茶なことをしているとは思う。カロリーナも大層驚いた様子だった。
だけど、呪い子だと忌避することはなかった。
むしろ、私の現状を垣間見る度に顔を曇らせた。同世代の子と話す機会のなかった私は、カロリーナの表情の意味を上手く把握できなかった。大人でさえ、多くの者は私を避けてきた。それなのに会って数回の子供である彼女がまさか――。
――むしろ、心配になった方です。
心配してくれているなんて思っちゃいけないはずなのに。カロリーナはいとも簡単にその言葉を口にした。
同情なのかもしれない。
王族として情けないことなのかもしれない。
それなのに、どうしたって胸の奥が温かくなることを止められなかった。だけど、一人で勝手に確信を得ることはまだ怖くて。
――護衛でも大人でもない君が、私の心配をするのは……オリアン嬢にとって、私は友人だからだろうか?
卑怯にもカロリーナに決定権を委ねていた。そんな私の浅はかさをさらりとかわして、彼女は心の内を晒してくれる。
――今まで友人がいなかったので、定義が分かりません。
誠実だった。偽ることなく、真正面から向き合ってくれる人。それがどれだけ得難いことなのか知っている。
もっとカロリーナと話したい。
――では、友情とはどういうものか二人で実験していくのはどうだろうか?
なんて言ってみたけど、本当は友人になってほしいと素直に言いたかった。でも、私が王族であることも尊重してくれるカロリーナに対して、重荷になりたくはなかった。今でも充分戸惑わせていると思うけど……。
もっともっとカロリーナと話したい。
そんな下心を隠した提案に頷いてくれた彼女に、友人となる一歩を踏み出すことを許可してくれた彼女に謝意を伝えたくて。
彼女の右手の指先に、そっと口づけを落とした。
初めてのことに心臓の鼓動がすごいことになっている。友人って、こんなに胸を高鳴らせるものなのかな。友人の定義は難しそうだ。
視線を上げると、頬を赤くした彼女がいて……。
カロリーナはとても可愛らしかった。