無知なる子 6
エドヴァルドが用意してくれたかつらは、茶色の髪の毛をまとめた帽子のようなものだった。確かにこれを被ったら顔の印象はだいぶ変わった。服も結局着替えさせられた。一番地味だと思うものを選んで来たのだけど、充分派手だったらしい。エドヴァルドが用意した服は、刺繍などはなく着古した色合いのものだった。それでも、平民の服としては上等な方だということを、この時の私はまだ知らなかった。
――色々ありがとう! 行ってくるね!
元気よく外に飛び出そうとしたら襟首を掴まれた。
――一人で外に行かれるつもりですか?
――え、うん。
一人以外に、どうやって出かけるのだろう。陛下や護衛に見つかることはあっても、誰かと出歩いたことはない。そんな相手もいない。当然だ、という顔をしていたら、エドヴァルドに溜め息をつかれた。
――殿下、王都と言っても、七歳の子供が一人で歩き回るのは危険がつきものなのです。迷子になって帰って来られなくなりますよ。
――地図なら覚えてきたよ?
この日のために王都の地図は頭に叩き込んで来た。夕食までに戻らなければならない以上、効率的に見て回る必要があるから。
――勉強熱心なのは感心ですが、過信は禁物です。今日は私が案内いたしましょう。
こんなふうに注意されるのも、申し出を受けるのも初めてで困惑してしまう。更には手を差し出されて、ますます戸惑う。触れた手のひらは温かくて、不思議な感じがした。
エドヴァルドの店は裏通りにある。店の外に出た瞬間に着替えさせられた理由を察する。裏通りを歩く人々の恰好は、王城で働く人の恰好とは、まるで違ったから。シャツとズボン。パッと見は薄汚れた下着のような恰好だ。でも誰も彼もがそんな恰好で、これが平民の普段着なのだと理解する。だとすると、今の自分の姿でも浮いているような気がするのだけど……。
――商人であれば多少着飾ることもありますから。
貴族を相手にすることもあるなら、そうなのかもしれない。そして、自分は恵まれた人間なのだと思った。
裏通りは王城とは別の意味で静かだった。話し声はヒソヒソとしていて、全体に暗い。自分一人で歩くには、ちょっと怖い雰囲気だ。エドヴァルドの手をぎゅっと握り直していた。エドヴァルドがそれを拒否することはなかった。
けれど、表通りに出ると雰囲気はがらりと変わった。部屋のカーテンを勢いよく開いたような眩しさがあった。道端には人が溢れ、馬車も頻繁に通り過ぎる。これだけでも賑やかさは段違いだ。
地図で見るのと、実際の景色はまるで違うのだと知った。
――エドヴァルド、あれは何?
周りは初めて見るものばかり。気付くと、あれは何、これは何、とエドヴァルドに質問を繰り返していた。エドヴァルドは嫌な顔をすることなく返事をしてくれる。何だかエリーみたいだな、と思った。
しばらく歩いていると、お腹が空腹を訴えてきた。人波をかきわけ歩くのは、隠し通路を黙々と歩くよりも体力がいるらしい。噴水広場の辺りでは、美味しそうな匂いをさせる屋台がいくつもあったせいもある。
――何か食べますか?
――……大丈夫。
――毒見ならいたしますよ?
――ううん、大丈夫。
毒見。毒料理を食べるのは、とても辛いことだ。そんな役割をエドヴァルドにさせる訳にはいかない。
――夕食が入らなかったらバレちゃうから。
笑顔で告げれば、エドヴァルドは納得してくれたみたいだ。実際の所、夕食もきちんとした量を食べられない。今食べたってバレるようなことにはならないはずだ。そもそも今のメイドたちは、私が少食だという認識になっているだろう。
けれども、別の意味で食事に気を配っていると知るのは、間もなくのことだった。
エドヴァルドの店に出入りするようになった頃、体調の変化を感じるようになっていた。立ち上がる際にふらつくことが増え、予習をしても勉強した内容が頭に入ってこなくなった。食事量も更に減ったように思う。さすがに最低限は食事をするようにと窘められた。
それは悪魔の言葉だった。
体力が落ちてエドヴァルドの店に行く頻度が週一回に減った時、最初は王族が裏通りに頻繁に出入りするリスクを理解したのだろう、と考えていたらしい。だけど、私の顔色の変化を認識した瞬間、エドヴァルドに抱きかかえられていた。
――体調が悪くなったのは、いつからですか?
厳しい口調。だけど、優しさを感じる。問われるままに最近の体調を伝えれば、エドヴァルドの眉間に皺が寄った。
――王太子妃殿下の時と同じ手口ですね……。
その呟きの意味を問う前に、利尿作用があるという薬草茶をたくさん飲まされた。そういえば最近トイレの頻度も減っていた。食事量が減ったなら当然かと思って気にしていなかった。複数回トイレに立った後、気付くと眠りに落ちていた。意識を手放したと言ってもいい。
次に目を覚ました時には、離宮の自室のベッドの上だった。どうやって戻ってきたのかは分からなかった。
だけど、エドヴァルドは王宮と繋がりがあるのだな、と今更に納得していた。隠し通路の出口に店を構えているのだから当然だった。それも上層部と繋がりがあるようだ。離宮で見かける顔が、またしてもガラリと変わってしまったから。
事の経緯を離宮で把握することはできなかった。以前にも増して口の堅い人たちになっていたから。人数もだいぶ減ったように思う。王族だからと言って本当に信頼できる相手というのは、存外少ないのだと寂しく思った。
自分の身に何が起きたのか、知りたい。
そんな思いから、体力が戻ってきた所で再度エドヴァルドの店を訪れていた。エドヴァルドはどんな顔で迎えてくれるだろうか。面倒な王子だと邪見にされてしまうだろうか。不安がちらりと過る。
だけど、エドヴァルドは笑顔だった。
――おや、体調はもう大丈夫なのですか?
――……うん。
多くを喋れば涙がこぼれそうだった。
エドヴァルドは静かに淡々と事実を並べるように、私の周りで起きていたことを話してくれた。
曰く、私は薬を一ヶ月ほどかけて服用させられていたらしい。気付かないように徐々に量を増やしながら。毒薬ではない。でも飲む必要のない薬。どんな良薬も量を間違えれば害になる。
吐き気が込み上げてきた。今日も少量ではあったが離宮で食事を摂ってしまった。エドヴァルドに背中を撫でられて吐くことはなかったけど、気分の悪さは残った。
それから、私は離宮での食事に口をつけられなくなった。無理に食べたとしても、ドレッシングも何もついていないサラダを少しと、無味無臭の水くらいだった。エドヴァルドの用意したものも食べられなくなっていたら、とっくに餓死していただろう。
そうして、勉強の時間を終えた後はエドヴァルドと過ごすことが日常になっていった。通い始めて二年が過ぎる頃には、一人で王都を歩き回る許可も下りていた。多分、陛下の護衛とそれなりに交渉を重ねた結果だったのだろう、と理解したのは、ずっとずっと後のことだ。
街を歩けば、本や授業だけでは知らなかったことを、たくさん見聞きする。
プラチナブロンドの髪色は、王族のみに受け継がれるものだということも初めて理解した。授業で聞いても、きちんと分かっていなかった。エドヴァルドがかつらを用意してくれた意味も。私が今も生きていられるのは、この髪色のお陰だろう。でなければ、生まれた瞬間に死んでいた。
平民の生活は、王城で働く人たちよりも多分ずっと貧しい。だけど、躍動感に溢れていた。幸福は貧富だけで決まるものでもないらしい。
その安定した生活の基盤をつくるのが陛下のようだった。平民たちは王族や貴族に逆らうことは難しい。だけど、その動向をきちんと見ていた。陛下は子育て以外は有能という評価らしい。王太子殿下は下半身のみ有能ということだった。意味が分からずエドヴァルドに聞いたら爆笑されて、教えてはくれなかった。無知とは怖いもの知らずだと、後年になって赤面した。
そして、第一王子は呪い子だった。
私は前王太子妃殿下を死に追いやり、王太子殿下の元側近たちに悪意を植え付け死に導き、乳母の子を殺し、更に護衛の騎士やメイドたちにも不幸を止めどなく降り注いでいるらしい。
誰かを呪いたいなんて思ったことはない。でも、全て知っている出来事だ。
悪気なく噂話と語られる話は、平民たちを不幸に誘うようだった。それは私の本意ではない。王族として恵まれた立場にいる自分。教養の教師、歴史の教師は王族のあるべき姿を何と語っていたか。人を不幸にする自分にできることはあるのだろうか。その思いは年々深くなっていった。
思案する私に着かず離れずの距離で助言してくれるエドヴァルドは、不思議な存在だった。王都を歩き回る中で、母親と父親という存在も正しく認識した。自分にとっての母親はエリーだ。だとしたら父親はエドヴァルド、なのかな。
――父さん。パパ……親父?
もし呼んだらエドヴァルドは、口をへの字に曲げて困惑するだろう。そんな表情を見せてくれるようになるなら、案外愉快なことなのかもしれない。
いつか呼んでみたい。でも照れ臭いから、多分無理。