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無知なる子 3

 二つ目の幸運は、陛下が公平な人だったことだ。


 薄暗い隠し通路を初めて歩いたのは、もうすぐ五歳を迎えるという頃だった。幼い年齢に加えて、食事量も減っていたことから、長時間歩き続けるのは難しかった。少し歩いては休む、少し歩いては休む、ということを繰り返していた。それでも進むことをやめなかったのは、寒さのせいもあったと思う。雪こそ降っていないが、真冬と呼べる時期。春にはまだ遠い。そんな季節、暖房の届かない隠し通路はとても冷えていた。立ち止まり続ければ、体温を奪われていただろう。

 本能的な危機感に押されるようにして、歩き続けた。


 道は一本道じゃなかった。途中、何度か分かれ道があった。どう進めば正しいのかなんて、まるで分からない。逃げ道にちゃんと繋がっているのだろうか。不意に不安が押し寄せてくる。


――エリー。


 呟いた言葉は、通路の奥の方に溶けるように消えた。こんな所にエリーがいる訳ない。分かっているのに。


――エリー?


 もう一度、呟いていた。

 当然、返事はない。涙が溢れそうになった。ふと気づいてしまったから。自分のことを心配してくれる人は、もういないのだということに。ぎゅっと胸の辺りを掴まれるような、鈍い痛みを感じた。

 そうして、私の足はまた動き出した。泣いても何も変わらない。逃げたいのなら、歩き続けるしかないのだ。


 何時間、歩いたのだろうか。お腹が空腹をしきりに訴える頃、目の前に扉が現れた。自分の部屋の扉と比べると、大分小さい。護衛の騎士だったら、少し屈まないといけないかもしれない。

 どうしようか。少し考えてから、エリーが教えてくれたことを思い出した。入室する時には、ノックが必要だ。

 コンコンコン、と軽快な音が場違いに響いた。でも、何も反応はない。部屋の中には誰もいないのだろうか。開けてみようとして、ドアノブがないことに気付く。押してもビクともしないし、引く取っ掛かりもない。少し悩んで、ドアのすき間から左右に開いてみようとすると、案外簡単に開いて――。


 目の前に剣が突き付けられていた。


 だけど、残念なことに、当時の私に剣の知識がなかった。人の命を簡単に奪うことができる刃物だと、全く分からなかったのだ。護衛の騎士たちの腰に下がっているものの中身が何か知らなかった。


――何奴……その髪色は!


 反応のない私に声をかけて、途中で驚愕していた。扉の向こうから差し込む光は、思ったよりも明るくはない。髪色を判別するには、あまり適切な灯りではなかったかもしれない。

 初めて間近に見る剣が気になって触れようとしたら、慌てた様子で鞘に収められてしまった。


――触れてはなりません!


――どうした?


 落ち着きと威厳を兼ね備えたような、低い声が響いた。初めて聞く声なのに、従わないといけないと思わされる威圧感がある。

 目の前の男は一歩引いて、相手が見える立ち位置についた。


――……殿下がいらっしゃいました。


 デンカ。何だか久しぶりに呼ばれた気がした。

 目の前に現れた男性は、剣を突き付けた男に比べれば、随分小柄だった。それにも関わらず、ずっと大きく見えた。


――名は何という。


 名……名前……。エリーが名前の文字を教えてくれたのが、もう随分と昔のことのように思えた。そして、それは忘れてしまうのに充分な時間だった。そもそもエリーにしても護衛の騎士たちにしても、王族の名前を呼ぶことはなかったのだから。そして、今のメイドたちからは、ちゃんと呼びかけられたことさえなかった。


――どうした、答えられぬか。


――デンカ? ノロイ?


 急かされて出てきた直近の呼び名は、男性の眉間に皺を刻ませた。


――アードルフ、教育係の方はどうなっておる。


――乳母が職を辞してからは分かりませぬ。


 アードルフと呼ばれた男の言葉に、子の教育もまともにできぬか、と落胆した声がこぼれ落ちていた。当時の私には、よく分からない会話のやり取りだった。今思えば、王太子殿下が信頼をまた一つ落とした瞬間だった。

 とりあえず、あの隠し通路は逃げ道ではなかったらしい。と、ぼんやりと理解し始めた頃、ふわりと男性に抱きあげられていた。人肌にはぬくもりがあるのだということを、思い出した。


――お前の名は、ラーシュ・シェーナ・フォン・スコーグラードだ。


――ラーシュ……。


――私は、お前のおじいちゃんだ。


――おじーちゃん?


 首を傾げて辺りを見回す。自分の部屋とは、まるで印象が違った。本がぎっしりと並べられた本棚。その本棚の一部が不自然に空いていて、自分が入ってきた場所だと分かる。机もどっしりとした重厚感があって、高く積まれた書類が忙しさを物語っていた。そして、二人以外にも人がいた。男が更に二人。


――陛下、ひとまず湯と着替えの用意をさせましょう。


 かけられた言葉に、おじーちゃんこと国王陛下は頷かれていた。エリーが言っていたこの国で一番偉い人だと分かったけど、不思議と怖さはなかった。

 それから隠し通路で汚れて冷えた体を温かな湯で清められ、小綺麗な服に着替えさせられた。大人ばかりの場所に子供の服があるのは不思議だったけど、物持ちが良いのだ、と深く説明されることはなかった。サイズは少し合っていなかったけど、普段着ているものより上質であることは分かった。


 その後、周りの環境はまた少し変わった。

 世話をしてくれる者たちが入れ替わり、仕事の精度が上がった。親しげに語りかけてくることはなかったけど、少なくとも部屋に埃がたまるようなことはなくなった。食事にも毒を盛られることはなくなった、と思う。ただ、どうしてもたくさんの量は胃が受け付けなくなっていた。


 一番大きな変化は、冬の厳しさが和らぎ、春の訪れを感じ始める頃にやって来た。


――王太子殿下、王太子妃殿下がお見えです。


 淡々とメイドが告げた言葉。正直に言うと、言葉の意味がよく分からなかった。


――誰?


――殿下の御父上と御母上にございます。


 父? 母? エリーのような人が他にもいたのかな。ほんのりと期待する気持ちが沸いて、ドキドキと胸が高鳴る。

 だけど、その気持ちは部屋に招き入れて、すぐに萎んでいった。


――大きくなったな。


――そうね、何だか不思議な感じだわ。


――元気そうで何よりだ。


――呪い子と聞いていたけど、平気そうね。


 二人はソファに座ることもなく、私に話しかけることもなく、ただ喋っていた。


――父上も会ったそうだが、特に体調は崩されていなかったからな。


――そもそもどこで会ったって言うのよ。


――執務室だ。子供はかくれんぼが得意なんだろう?


――平民の子の話よ。


――いずれにしろ、元気なら放っておくのも外聞が悪いだろう。父上も口煩いし。


――そうね、挨拶くらいできないとね。


 言葉を挟む隙はなかった。一方的に話し続けていた。挨拶もできないと言われても、二人だって名前を名乗りさえしていない。


――ああ、そうそう、誕生日おめでとう。


――いい子にしていたら、また来るわね。


 そうか、今日は誕生日だったのか。エリーや護衛の騎士たちが祝ってくれた時とは、まるで違う雰囲気だったから、立ち寄った理由に全く思い至らなかった。お忙しい合間を縫って来てくださったのですよ、とメイドは一応フォローしてくれた。ただ、その忙しい理由が、既に終えているべき妃教育や、王太子として最低限の公務だと後に知った時は、何とも言えない気持ちになった。

 それでも、教養、語学、歴史、算術の教育係がつくようになったのは、幸いなことだったと思う。

 ただ、陛下が関与した人間関係から、また変わる機会を与えることにもなった。


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