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無知なる子 2

 最初の幸運は、乳母が職務に真面目な人だったことだ。

 当時は、王太子妃どころか側妃になれるかどうかも怪しかった女の子供。しかも、誕生が前王太子妃殿下の薨去と重なったこともあって、次第に呪い子として扱われるようになっていった子供の乳母など、家門に不利益を及ぼすことも多かっただろう。

 それでも彼女は乳母として職務をこなしていった。


――エリー!


 幼く、名前をきちんと発音できなかった私は、彼女のことを愛称で呼び、懐いていたように思う。そんな私を邪見にすることもなかったエリーは、もともと子供が好きだったのかもしれない。

 そして、思慮深い人でもあった。

 誕生して一年経っても、二年経っても、王太子殿下が顔を見せることはなかったそうだ。王太子妃殿下もだ。産まれた時に抱きしめられたのかどうかも、今となっては定かではない。

 そんな境遇の王族の子供に、エリーは危機感を覚えたはずだ。それでも変わらず笑顔で接してくれていたが……。

 三歳を間近に控えても、教育係の選定が行われる様子がなかったらしい。


――おかしいわ……。


 私が話を理解しているとは思わなかったのだろう。エリーは部屋の護衛をしてくれている騎士に、不安を吐露していた。しかし、乳母と言っても人事権を持っているわけでもなく、嘆いたところで待遇が変わることもなかった。


 それから、エリーはマナーの基本を、子守の合間に話してくれるようになった。まだまだ手が小さいので、カトラリーを持つのも難しかったが、怒るでもなく根気よく教えてくれた。将来、どの立ち位置になっているか分からないため、挨拶の仕方等は基本を押さえたものだけだった。三歳児と考えれば、充分でもあった。


――殿下のお名前は、こう書くのですよ。


 今まで模様に見えていたものが、文字になった。自分の名前以外を覚えるのは難しかったが、意味があることは知った。

 護衛の騎士たちも、体力作りを名目としながら、代わる代わる遊び相手にもなってくれていた。

 産まれた時から接してきてくれたエリーや彼らは、呪い子の噂よりも、私自身を見てくれていたのだ。思い返してみれば、幼児期の頃はきちんと幸せだった時もあった。

 だけど、その時期も長くは続かなかった。


 エリーの子供が亡くなった。


 マナーが身に着いたらご挨拶させてくださいね、と言われていたのに。その日を迎えることはなくなってしまった。二歳を迎える前に乳離れをすると共に王宮からも離れていた彼とは、きちんと面識を持つ機会を永遠に失った。

 乳兄弟が生きていれば、また違った人生だったのだろうか。そんなことを今でもたまに考えたりする。

 子供を亡くしたことで心を病んだエリーは、王宮での職を辞した。

 巷では、乳母を独占するために乳兄弟を呪い殺したと、まことしやかに語られるようになったらしい。


 新しく世話係がついたが、エリーのように私に接することはなく、名前も聞くことはなかった。護衛の騎士たちは変わらず優しかったが、事件が起きてしまった。


 食事に毒を盛られた。


 とんでもなく不味いと思ったのは、毒だったかららしい。幸い、嘔吐と発熱、軽い痺れで済み、死に至ることはなかった。けれど、毒を盛られた事実に変わりはない。

 快復して目を覚ますと、周囲には知らない人しかいなかった。

 護衛の騎士たちは、当時、小競り合いが絶えなかった国境沿いに飛ばされたと、メイドたちの囁く声で知った。あんな王子と親しくしても良いことはない、と、どこか嘲りのある声だった。

 そんなメイドたちも、食事に毒を盛られる度に入れ替わり、気づけば私と積極的に関わろうとする人は一人もいなくなっていた。


 目覚めと就寝、そして三度の食事の世話。最低限の会話だけで過ごす日々は、彩りをなくしたように薄暗く、孤独だった。思い出したように盛られる毒に苦しむ私を見ても、淡々と侍医に連絡するだけの人々は、ただ恐ろしくもあった。

 食べたくない。でも、食べないと、もっと怖い。

 少量だけなら、然程苦しむこともなく快復できると理解してからは、食事の量もぐっと減った。後何日したら、また吐くんだろうな、と毒料理が出されるサイクルが感覚的に分かるようにもなった。


 それが、とても、とても嫌だった。

 毒が日常になっていくのが嫌だった。


 私は部屋から逃げ出すことを決めた。扉を叩いても開けてくれる護衛の騎士は、もういない。窓には手が届かない。届いても、きっと地面が遠くて下りられない。

 逃げ出せないなら、隠れる場所を探そう。部屋の掃除も朝に片手間で行われるようになったので、どこか埃っぽい。それでも構わずテーブルの下に這いつくばってみたけど、すぐにバレると気付く。ベッドの下は……息苦しそう。


 辺りを見回して、メイドたちが着替えを出し入れしている扉が目につく。普段、入ることのない部屋。精一杯、背伸びしてドアノブを回すと、ガランとした空間が目に入った。服の量が多ければ後ろに隠れられたかもしれないのに、申し訳程度に吊るされている今の状態では、丸見えだ。

 念のため、奥まで見て回るが、さして広くもない部屋だ。隠れる場所はないと、すぐに分かった。

 だけど、どうしてだろう。

 扉を開けた正面奥の壁が、ふと気になった。足元辺りの壁の一部が、少し色合いが違って見えたのだ。近づいて触れてみる。特に違和感はないように思えた。でも幼児特有の好奇心が働いて、気づいたらその壁を叩いていた。


 バン、バン、バンバンバン。


 力一杯叩いた。叩いた回数もリズムも、偶然だった。でも、確かにそれは作動するスイッチになったのだ。

 ガチャン、と壁の向こうで音がしたのを聞いて、私はもう一度壁を叩いた。すると壁は、いともたやすく向こうへの道を開いた。あまりのあっけなさに、壁を叩いた勢いのままに上半身が倒れこんでしまった程だ。室内よりも更に埃にまみれていた。服はあっという間に汚れた。けれど気にならなかった。


――ここから逃げられる!


 この薄暗い通路がどこに繋がっているのか、全く分からなかったのに。私はためらうことなく歩き出していた。


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