無知なる子 1
長く、長く続く薄暗い通路。
美しく整えられた石畳の道は安定しているけど、柔らかさもないので、歩き続けると若干、足が痛くなることもあった。それでも歩き続けた。その先に温かな光があるような気がして……。
始まりはちょっとした好奇心。それが日常に変わっていくのは、案外すぐのことだった。
長い、長い暗闇の向こうの光は眩しく、世界は広いのだと教えてくれた。全てだと思っていた部屋は、とても小さかった。
そして、自分の足で歩くことの大切さを知った。
「――シュ、ラーシュ、起きろ!」
乱暴に肩を揺らされて、眠っていたのだと自覚する。まぶたをゆっくりと開けば、ヴィンセント先輩の顔。この二年で、すっかり見慣れた顔は、怒っているようにも呆れているようにも見える。
辺りを見回せば夕焼け色に染まる図書館。
「こんな所で寝ていると、襲われても知らんぞ」
「図書館で……?」
広い学園の一角にある図書館。学生であれば誰でも利用できるから、王立図書館に比べれば人の出入りは多い。それでも外部からの侵入は難しい。そもそも学園に入り込むこと自体が厳しいのだ。
「大丈夫だと思うよ。多少は武の心得もあるし」
「いや、貞操の危機という意味だ」
「え?」
冗談かな、と思ったけど、ヴィンセント先輩の顔は大真面目だった。
「お前はもう少し自身の見目を自覚するべきだな」
「これでも一応王族だし、無理に迫る子なんていないと思うよ」
学園内は身分差に対しても比較的寛容だ。でなければ、公爵家嫡男で年上とはいえ、ヴィンセント先輩の物言い自体が問題になっているだろう。だけど、だからと言って何をしても許されるわけじゃない。場合によっては停学や退学の処分を受けることもある。
ヴィンセント先輩は、これ見よがしに大きく溜め息をついた。どうやら私の考えは甘いらしい。
「もうすぐ閉館の時間だ。どうせ寝るなら部屋に戻ってからにしろ」
「分かったよ」
最もなことなので、素直に頷いた。
テーブルに広げていた本を片付けていく。課題の調べ物をしようとしていたんだっけか。植物図鑑や薬学に関する本が、開きっぱなしになっていた。明日以降に、また図書館に来ることになりそうだ。
筆記具類を鞄に仕舞おうとして、今朝、寮を出る際に寮監に渡された封筒が目に入る。王太子妃殿下の印で封蝋されている。苦々しい気持ちになる。これのせいで、あんな夢を見たのだろうか。
どこまでも、どこまでも続くように思えた王城の隠し通路。
「どうかしたのか?」
「いや、この手紙をどうしようかと思っただけだ」
封蝋が見えるように封筒を掲げると、ヴィンセント先輩の瞳が蔑んだ色を帯びる。
「また内容のない手紙か」
「さぁ、読んでいないから分からない」
出来るなら読まずに捨ててしまいたい。けれど、寮監の目に入っているのだ。王太子妃殿下の手紙を無碍にするわけにもいかない。近い内に返信を寮監に預けることになるだろう。
王家の機密文書なら、第三者の目に入らない別のルートを使うはずだ。だから、本当にどうでも良い内容の手紙だと読む前から分かっている。子を心配する母親をアピールするだけのものだ。
王太子妃殿下は、学生の頃から成長していないのではないかと思えてくる。
――相変わらずですねぇ。
なんて寮監にも呆れと憐憫を混ぜた言葉をかけられる。きっと王城の使用人や配達人も同じ気持ちだろう。
それを敢えて放置して、手紙のやり取りを続ける私は、性格が悪くなっただろうか。
「どこまで踊ってくれるだろうな」
ヴィンセント先輩の冷えた声に、ただ笑みを返す。
図書館を連れ立って出れば、夕闇を背にした学園が目に入る。ゆったりと輝き出す月の光を受ける校舎は幻想的で、一瞬、異世界に迷い込んだかのような心地になる。
王城の狭い隠し通路を歩いているだけでは、一生目にする機会のなかった景色だろう。
知らないことを知ることは楽しい。あの頃は、知らないことが何かなのかさえ分かっていなかった。
それでも、今こうして生きていられるのは、多いとは言い難いが人の縁に恵まれたからだ。運を持っているのだと思う。隣の彼も良縁の一つだ。
「ヴィンセント先輩、お腹空かない?」
「もう夕飯時だからな」
気安く言葉を返すヴィンセント先輩と並んで、寮の食堂へと歩き出した。