前世の足跡
図書室というより書斎かもしれない。ヴェロニカの記憶にある図書室からすると、オリアン家の図書室はこぢんまりとしていた。公爵家と男爵家を比べては酷というものだと、考えをすぐに打ち消す。男爵家のタウンハウスに図書室と呼ばれるものがあるだけでも十分だ。王都に大きな邸宅を構えるのは、余程の財力と身分がなければ難しいから。
「お嬢様、何をお読みになりますか?」
尋ねながらもマーヤの足は、子供が好む読み物がある棚の方へ向いている。以前の私ならもちろん異論はなかった。でも、今は違う!
ベッドから出ることを許可された私は、より詳しく現状を把握することにした。前世からたった十二年とはいえ、ヴェロニカの頃とは変わっていることも多いはずだから。
「私、お父様のことが書かれた本が読みたいわ」
頑張って無邪気な声を出すと、マーヤは少し思案した。お父様は物語になるような功績は持っていらっしゃらないし、書物を書かれることもないからね。やがて、私の狙い通りの棚へと足を運ぶ。そう、貴族年鑑のある棚へ!
「お嬢様、旦那様のことが書かれたものだと、こういった本になるのですが……」
マーヤは申し訳なさそうな顔をしている。私の希望をばっちり叶えているのだけど、本来、子供が楽しんで読むような類ではない。少しがっかりした顔をした方がいいのかな?
「ううん、ありがとう」
お礼を言うのに留めたけど、だましているような罪悪感が言葉尻に滲んでしまった。ヴェロニカの頃だったら、完璧淑女の笑みになっただろうに。子供だからなのか、カロリーナだからなのか、感情のコントロールが不得手になっている気がする。
考えるべきことが、また一つ増えてしまったわね……。
とりあえず、今は情報収集に集中しようと頭を切り替える。
書斎、いや図書室に唯一あるテーブルの席に着く。
「あら、今年の版だわ」
貴族年鑑の表紙には二二三年版と記載されていた。貴族年鑑は毎年出るものだけど、去年のものと大きく変わることは少ないし、自身が把握しているのであれば照会する必要もないので、毎年購入する貴族は少ないと聞いていた。アールクヴィスト公爵家では、もちろん毎年仕入れていた。大きく変わらずとも些細な変化はあるから。それが公爵家の舵取りにとって重要になることは多い。それに貴族年鑑は表に出せる情報。裏の情報と突き合わせて判断するには便利なものだと、お父様は、アールクヴィスト公爵閣下はおっしゃっていた。
全ての貴族を網羅されていたから、オリアン男爵家のことも把握されていた。嫡男が娘であるヴェロニカと学園で同級生になるのだから、なおのことだろう。
ぱらり、と、ページをめくるとまず王族の系図が載っている。
……ふむ、レオナルド様はまだ王太子殿下のままなのね。三十歳前後で王位を継承されることが多いから、そろそろなのかしら。この十二年の間にまともな教育を受けていらっしゃることを願うわ。
そして、アンナ・モーネ・フォン・スコーグラード。
モーネのミドルネームがついているということは正妃になったのね。カールソン男爵家の庶子だったけど、アベニウス侯爵家の養女になってから嫁いだのか。アベニウス侯爵家は昔も今も変わらず宰相だったはず。家格を釣り合わせるには丁度良かったんでしょうね。
二人の間にはご子息が二人。
率直な感想としては、意外と少ない、だった。婚前交渉をされるくらい熱い関係だったのだから、もっといてもおかしくはないのに。側妃はいらっしゃらないから、王子二人を産んでお役御免になった様子でもないし。
第一王子は、ラーシュ・シェーナ・フォン・スコーグラード。
今年で十二歳。
……うん、確実に先日会った男の子だわ。
次に会うとしたらデビュタントの時か、学園に入学した後か。いずれにしても数年先だから、王子様の記憶から私のことはきれいさっぱり消えていることを祈るわ。
ん? ていうか王子様の誕生日ってヴェロニカの命日と一緒? お飾りの正妃とはいえ死の淵にいたのだから一度くらい見舞いに来なさいよ、って当時思っていたけど、そりゃあ来ないわね。あの時もレオナルド様はアンナさんの傍についていたのだろう。
葬儀と誕生祭って同時進行で行われたのかしら。さすがに貴族年鑑には書かれていないわね。
王子様、ラーシュ殿下には何だか申し訳ないわ……。来年の誕生日には心からお祝いしよう。末端貴族の男爵家じゃ、お声は掛からないだろうけど。
第二王子は、ルーカス・シェーナ・フォン・スコーグラード。八歳で十歳未満だからまだ詳しいことは記載されていないのね。でも年齢はダニエルと同い年。気をつけた方が良さそう。
「お嬢様。飲み物をどうぞ」
「ありがとう」
貴族年鑑に集中していたら、マーヤが紅茶を用意してくれていた。一口飲むと甘い香りが漂い、喉を潤してくれる。もう少し集中できるわ。
とりあえずアンナさんのご実家になったアベニウス侯爵家を見てみよう。
「え……」
思わず声が漏れた。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「アベニウス侯爵家のご子息はお一人だったかしら?」
マーヤの瞳がかすかに揺れた。けれども、にっこりと笑みを浮かべた。
「はい、今現在はご子息がお一人ですね。アンナ妃殿下は王家に嫁がれましたので」
そういうことじゃない、と言いそうになるのをぐっとこらえる。ちらりと貴族年鑑のあった棚を見るけど、過去の版は残していないようだった。カントリーハウスの方だったら図書室も大きかったし、残っているかな。領地に戻るのは冬になる前だから、まだ半年は先の話になるわね。
ひとまず他の家も確認してみることにしたけど……いない。アンナさんの取り巻きをしていた子息たちが軒並み消えている。騎士団長だった家に関して言えば、次男が継いでいる上に文官になっちゃっている。
廃嫡。
この十二年の間に何があったのか。子供の無邪気さを装っても、さすがに聞けそうにない。
あの婚約破棄騒動に関わった者たちは、学生の未熟な判断として謹慎処分に留められたはず。教師は懲戒解雇になった上で実家に強制送還だったけど……。当時の唯一の王子にして王太子が騒ぎの中心だったから、あまり大ごとにもできなかったのよね。
陛下の判断が覆ったということ?
王家に嫁いでからのことは自分自身のことで手一杯になってしまったし、途中から毒で朦朧としていたから、細かいことが分からない。つくづく王太子妃失格だったな、と思う。
「あっ」
そうだわ、アールクヴィスト公爵家はどうなのかしら。少し震える手でページをめくった。公爵家は……残っている。
安堵の溜息がこぼれた。
今の当主は、ヨハンネス・アールクヴィスト。お兄様だ。
「ねぇ、マーヤはアールクヴィスト公爵家のことについて何か知っている?」
「公爵家でございますか?」
マーヤは首を捻ってから、少し困った様子で口を開いた。
「以前は権勢を誇っていらっしゃいましたが、今の当主になられてからはあまり話を聞きませんね」
「そうなの?」
「はい。公爵家の領地は裕福だと聞きますが、社交シーズンは議会では姿を見るものの、夜会ではほぼお見かけしないそうです」
「ほぼ?」
「はい、王家主催のものに参加されるだけです。公爵家主催の夜会も領地ではあるそうですが、王都では聞きませんね。前公爵様も爵位を譲られてからは、一度も王都にいらしてないそうです」
「そう。教えてくれてありがとう」
娘、妹があんな死を迎えたのなら王家と距離を取るのも道理なのかな。子息たちの廃嫡とも関わりがあるのか、ないのか。
ふと、マーヤがじっと私を見ていることに気付く。
「どうかした?」
「いえ、お嬢様ももう社交に興味がおありなのだな、と。つい先日まで駆けっこに夢中でしたのに」
しまった。ヴェロニカの記憶が刺激されたせいで、意識まで引きずられちゃっていたわ。以前の私なら理解しきれない言葉や言い回しもあっただろうに。
うん、勉強に力を入れて差を埋めなきゃ、すぐにボロが出ちゃいそう。
「ところでお嬢様、来月の旦那様の誕生日に贈る物は決まりましたか?」
「へ? 誕生日?」
「ええ、先日の買い物も途中になってしまいましたし。今日は旦那様のことをお調べされていましたし」
にっこり微笑むマーヤの手元には、いつの間にか男性向けのカタログが数冊あった。
そう、先日のお出掛けはお父様のためだったのね。すっかり記憶の彼方に飛んでいってしまっていたよ。ごめんなさい、お父様。
私は今更にオリアン男爵家のページを開くのだった。