軽やかなひと時
夜の八時に第一王子がお忍びに出ることは可能なのか。
答えは簡単、無理である。いや、以前のラッセの状況だったら、可能だったのだろう。だけど、第一王子としての足場を固めつつある今は難しい。
「この前、離宮に帰ったら、侍女や騎士たちが総出で捜索していたんだよね、私を」
アマンダ様の手紙を解読した後、お城では一悶着あったようだ。苦笑いを浮かべるラッセは、でも伝統衣装を着ている。一応完成したので、一旦着てもらって細かい調整をしているのだ。平民の服にも関わらず、オリアン家の客間の気品の度合いが上がって見えるのだから不思議だ。伝統衣装なので、刺繍を除けば決まった形のものなのに、違和感なく着こなしている。むしろ顔面の良さが際立つ。
「本来、それが普通ですよ」
一足早く調整の終わった私は普段着のワンピースで、澄ました顔を作る。
「何でバレたんだろう?」
納得のいっていない様子のラッセだけど、侍女たちに根回ししていないのに気付かれなかった今までが異常だったのだ。
「侍女や騎士がきちんと仕事をするようになったということでしょう」
「確かに、新しく配置された侍女たちは、みんな挨拶するもんなぁ」
今まで挨拶もされなかったの……。そんな侍女たちなら職務怠慢で異動になっても仕方ない。ラッセがお茶会に顔を出したのは、アールクヴィスト家とバリエンフェルト家が絡んだ二回だけだ。それでも表舞台に現れた影響は大きい。陛下はレオナルド様による教育はもう諦めたらしく、自身が離宮の人事にも介入し始めたようだ。結果、ラッセの環境は第一王子らしいものに変わり始めたようだけど……。
「何だか窮屈に思ってらっしゃいます?」
「うーん、慣れなくて」
「王子殿下として慣れてください」
「おじい様と同じことを言うんだね」
「あら、陛下とはだいぶ打ち解けられたのですね?」
「どうやら王太子殿下に思う所があるらしく、それの当て擦りの気もするけどね」
「それでも親しい身内がいるのは心強いでしょ?」
服の調整をしている間、首から上は暇を持て余すらしく、気軽な言葉がぽんぽんと飛び交う。そんな私たちの会話を割るように、長い長い溜め息が響いた。
「ベルタ、何か問題があったの?」
袖口周りを確認していたベルタに声をかけるけど、返事がない。どうしたのだろう。ラッセと顔を見合わせる。もう一度問いかけようかと思った時、地を這うような声が響いた。
「問題、あるに、決まっている、でしょ!」
「え、見た感じ服のサイズに問題はなさそうだけど」
「うん、窮屈なところもないが……」
思わずフォローするような言葉が飛び出る。それに対して、ベルタは深呼吸を数回繰り返してから、ようやく口を開いた。
「失礼しました。ですが、お二方、今、目の前に王族でも貴族でもない平民がいることをお忘れではないですか?」
「あら、ベルタのことを忘れてなどいないわよ?」
「いいえ、お忘れです! 雲の上の方々のお話をポンポンするのはお控えくださいまし!」
ベルタの鼻息が荒い。
言われてみれば、陛下の思惑やレオナルド様への扱いは、気軽にして良い話ではなかった。場合によっては不敬に問われてしまう。
「ごめんなさい。配慮が足りなかったわ」
「すまない」
素直に二人揃って謝れば、ベルタは顔面蒼白になる。
「過分なお言葉ですわ……」
確かに王族から平民に謝罪するのは重すぎるわね。忠告に感謝する方が良いのではないかしら、とラッセに進言すれば、カロリーナ様もですわよ、とベルタに嘆息された。
「そもそも王族の方が着るものを密かに作っていたということだけでも、心臓に悪いんですから……」
ベルタの立場に立って考えれば、卒倒ものだったろうな、と思う。ラッセのことを貴族だとは理解していたけど、よもや王族とは想像しなかったに違いない。それなのに仕立てた服をオリアン家まで持っていったら、着るのは第一王子だというのだ。心労はいくばかりか。
それでも、一応、ベルタのことも気にかけたつもりだ。周囲の環境が変わって気軽にお忍びができなくなったラッセが、以前のようにベルタの店を訪れるのは難しい。だからと言って、いきなり王城に持ってこいというのも酷なもの。だから、親交があると公になっているオリアン家をラッセが訪れた際にベルタもたまたまやって来た、という体裁を取ったのだ。
「王家御用達のお忍び服の仕立屋に選ばれたと思って、許して欲しいわ」
「今後もお忍びの服を依頼するよ」
二人揃って再度フォローすれば、ベルタは一瞬、遠い目になった。
「ありがたいお言葉でございます……」
貴族と王族では大きな隔たりがあるのだなぁ、と、しみじみしてしまった。
「ところで、今後も、ってお忍びの許可は下りるのですか?」
「少なくとも、豊穣祭に関しては民の生活を知るためで押し通したよ」
ベルタの作ってくれた服が無駄にならないようで良かった。まぁ豊穣祭に関してはアールクヴィスト家から王家に働きかけがあった可能性も高いけど……。
「ただ、護衛が増えるけどね」
ちらりとラッセが扉の方に目を向ければ、マーヤ、パウル、アードルフの他に見慣れない三人の若い男性がいる。たぶん近衛隊の三人だ。増える、と言うからには三人が表に出てきた分、影で護衛する騎士が更に配置されているのだろう。
「今後も近衛隊の方が護衛についてくださるんですの?」
「学園に入るまで、もう半年くらいだからね。今から専属を決めてもきちんと機能するか怪しいから、入学までは近衛隊がついてくれるよ」
この半年で学園について行ける専属の護衛一人を選出するとも言える。結局、この三人が有力候補ということなんだろうな。貴族の出なら、学園の構造にも詳しいだろうし。
「ラッセの安全が確保されているなら、何よりですわ」
「ただ……」
そこで声を落としたラッセに、どうしたのかと首を傾げる。
「その、エドヴァルドの店には、少し行きづらくなったのが残念ではあるんだ」
王族とブローロース商会が積極的に関わるのは、まだ難しいということだろうか。でも、王城の隠し通路の一つが、エドヴァルドの店に繋がっているのよね。エドヴァルドは陛下ではなくレオナルド様と今も繋がっているのかな。そんな様子はなかったけど……。むしろ将来は暗愚と蔑んでいた。
エドヴァルドは分からないわね……。
「せめて、孤児院に薬は届けられるように考えてはいるけどね」
その心根は、民を思う王族だと思う。その想いがレオナルド様とアンナさんにも少しでもあれば、スコーグラード王国の未来はまだ救われると思う。
そんな取り留めない話をしている間に、服の確認は終わったようだ。ベルタは何だか疲れ切った顔をしていた。私たちの取り留めない話は、ベルタからすれば国家機密級の話だったかもしれない……。
うん、配慮、心遣い大事よね。とりあえず、ベルタの店に被害が出ないよう、内密に護衛をしばらくの間つける手配はした。権力欲にまみれた貴族の情報網は怖いからね。
ベルタには疲れた顔より、活力に満ちた顔でいて欲しい。部屋から退出するベルタに気合いを送ったけど届いただろうか。
「それにしても、カロリーナの伝統衣装姿を私は見れていないのだけど……?」
王族の恰好に戻ったラッセは、どこか不満げだ。私だけラッセの伝統衣装姿を堪能しちゃったからね。拗ねたような顔は、年相応に見えて可愛らしいと思ってしまう。
「まぁ、殿下はレディの着替えを見たいんですの?」
「えっ! ち、違うよ! そういう意味じゃないよ!」
からかえば、途端にラッセの顔は耳まで真っ赤になった。必死に弁明する姿は、やっぱり可愛らしい。
「ふふふ、冗談ですわ。私の服は当日までのお楽しみにしておいてくださいませ」
当日までにはラッセの隣で伝統衣装を着られる自信と覚悟をつけておきますので、と内心葛藤していることには気づかず、ラッセは赤い顔のままだ。気持ちを落ち着かせられるようにお茶に誘えば、笑顔が返ってきた。ラッセが当家の食事に不安を覚えることは、もうないのだ。
こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのに、と秋風に揺れる葉に願いをかけた。