弟の気持ち
非公式な招待であったとしても、第一王子の参加の是非を男爵令嬢が勝手に判断するわけにはいかない。と言っても、私だって離宮に公式に手紙を届ける方法はない。なので、いつものようにパウルに手紙を持たせた。
そしたら、王宮から公式に返事が届いた。
卒倒しなかった私を褒めてほしい。その威厳溢れる王家の封蝋を、ヴェロニカの記憶が呑気に懐かしがったお陰かもしれない。
お父様とお母様も案外平然とされていた。事前に手紙の内容を伝えていたこともあるけど、ラッセとの交流を認めた時点で、いつかはと覚悟していたのかもしれない。
ただダニエルにとっては晴天の霹靂だったようで、寝込んでしまった。お医者様によれば知恵熱のようなものらしいけど……。
「ダニエル」
呼びかけるけど、ベッドの上で眠るダニエルは反応しない。椅子に座って見下ろす寝顔は赤く、息苦しそうだ。
額の上のタオルは、もうぬるい。私はサイドテーブルに載っている水桶でタオルを濡らす。額に載せ直すと、ダニエルの寝息が少し落ち着いたように感じられる。
「カロリーナ様」
遠慮がちに掛けられた声に振り向くと、マルクスがいた。
「ダニエル様のお世話は私どもが致しますので……」
ダニエルの隣にはメイドも二人いる。仕事を取ってしまっていたわね。いけないわ。分かるけど……。
「最近、ダニエルとあまり話せていなかったから。こんな時くらいはそばにいたいのよ。ダメかしら?」
「いいえ。ダニエル様も嬉しいかと存じます」
「そうだと良いのだけど……」
姉離れを始めているらしいダニエルにとっては、迷惑なことかもしれない。
そっと触れたダニエルの髪は、汗に濡れてもふんわりとした柔らかさがある。昔から変わらない。だけど、いつか、後数年もしたら手が届かなくなるのでしょうね。子供は目を離した隙に大人になっていく。
「ダニエルは、この所、無理していない?」
王家からの手紙は確かに重い。だけど、まだ八歳の男の子が、その重みをどこまで理解できるのだろうか。聡い子ではあっても、本質を理解する経験はまだまだ少ないはずだ。だから倒れるような要因が他にもあったんじゃないかしら。王家からの手紙は、あくまでも最後の一押しのように思える。
マルクスは困ったような笑みを見せる。でも、私の視線が外れないのを理解すると、メイドの二人に目配せをした。そっと退出していくのを見届けてから、マルクスは声を潜めて打ち明けた。
「実の所、かなり無理をされています。勉学には以前よりも精力的ですし、最近始められた乗馬や剣術も、かなり前のめりに進められています。カロリーナ様との会う時間を削られるほどに」
「どうして……」
「今回のことは私の不徳の致すところでございます」
頭を下げるマルクスからは、悔恨の念が伝わってくる。確かに主人を支える者としては大失敗だろう。
「頭を上げて。私から言うことはないわ」
「カロリーナ様?」
「お父様からもうお叱りは受けているのでしょう?」
気まずい顔を隠さない辺り、大分強めに叱責されたのだろう。それでも、ダニエルの傍から離れずに済んでいるのは、ダニエルの事情をお父様も把握されていたからなのかと思う。知らないのは私だけ。
「だから、教えてほしいの。ダニエルは、どうして、そんなに無理をしていたの?」
マルクスはダニエルの寝顔を一度見遣る。その瞳には、気遣いと心配が宿っている。
「ダニエル様は、カロリーナ様に追いつきたかったのです」
「私に?」
追いつくも何も、ダニエルは私よりもずっと優秀な子だ。将来当主になるため、ということもあるけど、私が八歳の頃に学んでいたことより深い勉強をしている。そして、学んだことをきちんと理解しているのだから。
「カロリーナ様は、この数ヶ月で成長されました。そのことにダニエル様は置いていかれたように感じられたのかと。お互いに切磋琢磨できるのであれば、と旦那様もある程度目をつぶっておられたのですが……」
この、数ヶ月の、成長。
……って、それはヴェロニカの記憶のお陰よ! ある日突然、経験が増えたようなものだ。それも妃教育を終えた知識付きで。
つい最近まで一緒に追いかけっこしていたような姉が、突然小難しいことも理解したように話し出す。八歳のダニエルからしたら、なかなかの衝撃だったのかもしれない。どうして気付かなかったのだろう。ダニエルは妃教育並みの勉学をしているのかしら、なんて呑気に思っている場合じゃなかった。何故そんな教育になっているのか、もっと気にかけてあげるべきだったのだ。
「ごめんね……」
力の入っていないダニエルの右手を両手でそっと握りこむ。体温を感じる。
「お姉様?」
指先に反応したのか、ダニエルがゆっくりと目を開ける。
「ダニエル、ごめんね」
「どうしてお姉様が……?」
謝るのか、と言いたかったのか。でも、まだ苦しさがあるようで、上手く言葉になっていなかった。
「私、ダニエルの気持ちに全然気づいていなかったわ」
「お姉様のせいじゃないよ」
こんな時でも笑みを見せられるダニエルは、強い子だ。
「ダニエル、あなたはとても素敵な男の子よ。自慢の弟だわ。ダニエルがどんどん成長していくのも嬉しい。だけど、臥せって苦しむ姿を見るのは悲しいわ」
「お姉様……」
「私は笑顔のダニエルが好きよ」
「……うん」
まだ熱のあるダニエルに、どこまで伝わったか分からない。それでも今語りかけずにはいられなかった。
こんな姉の言葉だけど、少しでもダニエルの自信になってくれたら。そして無理することなく自分のペースで進んでくれたら嬉しい。
私の両手の中で、ダニエルの右手に力がこもるのを感じる。
結局、ダニエルは丸一日眠ることになった。でも、翌日にはすっかり熱も落ち着いて、穏やかな表情を見せてくれて、安心した。
一方で、ヴェロニカの記憶に頼るのは慎重にしなくては、と実感した。この数ヶ月ですっかりカロリーナの一部になってしまった感もあるので、判断が難しいところもあるのだけど……。
その内、取り返しのつかないことになってしまいそうで。
ちらりと王宮から届いた手紙に目を落とす。次回のバリエンフェルト家のお茶会にて、第一王子からのエスコートの打診。お誘い合わせの上、と言われたら、そうなるのかしら。
すでに色々と手遅れになっている感を、ひしひしと感じるけど、気のせいよね。