女神ヴィネア様
眠った。眠りに眠った結果、目を覚ましたらお医者様がいた。どうやら丸一日、ベッドの上の住人になっていたらしい。お陰で気怠さは霧散していたし、熱や喉の痛みといった体調不良を示す兆候も特になかった。お医者様にも健康の診断をもらえた。
それでも大事をとって一日安静にするように告げられた。
今の自分についてじっくり考えたかったし、ちょうど良かったと思う。
まず、私はオリアン男爵家の長女であるカロリーナ。今年、十歳を迎えたばかりだ。赤茶色の髪に緑の瞳はよくあるものだけど、目鼻立ちは悪くはない。成長すればもう少しすっきりとするだろうし、化粧もすればまぁまぁの美人になるんじゃないかな。
ヴェロニカとしての記憶が蘇ったからか、知識や教養は一気に増えた気がする。最近、基本的なマナーを習い始めた私では、ノブレス・オブリージュなんて言葉出てこなかっただろうし。でも、そのせいで寝込んだとも言えるのよね。脳が一時的に処理しきれなくなっちゃったみたいで……。今世で通用するものか確認する必要はあるけど、ヴェロニカの記憶はきっとアドバンテージになるはずだ。
そう、今一番気がかりなのは――。
トントンと気遣うようなノックの音がした。
「カロリーナ、入るよ?」
「はい、お父様」
思考を一旦中断して返事をする。控えていたマーヤがそっとドアを開くと、お父様に続いてお母様、更には弟のダニエルまでが入ってきた。
「無事に目が覚めて良かったよ」
「ご心配お掛けしましたわ」
これ以上気に病む必要はないと示すように笑顔を浮かべたのに、お父様は首を傾げた。
「やっぱりまだ本調子じゃないみたいだね」
「そんなことは……」
「いつもなら、安静と言われてもベッドから飛び出していただろう?」
言われてカロリーナの十年を思い返してみれば、だいぶお転婆だった。静かに本を読んでいるよりは、ダニエルと庭を駆け回ったり、木登りしたりするような令嬢だった。ヴェロニカの記憶が、淑女とは? と問いかけてくる。
「そうねぇ。けど、はしゃぎ過ぎてまた倒れても困るものねぇ」
お母様、溜息をつく前に娘の体調の心配をしてください。
「お姉様、早く元気になってね」
八歳のダニエルは、まだ少し舌足らずで、目がつぶらで、じっと見つめられるととっても健気に見えるわ。
「ええ、明日にはまた元気になるわ」
「でも、追いかけっこはまだ我慢してね」
「そうね……」
弟なのにお兄様みたいな気遣いをされてしまった。子供の成長は早いということにしておこう。
「ともかく今日一日はゆっくり休みなさい」
お父様が優しく髪を撫でてくれる。柔らかで温かい。
だけど、お父様のその顔に違和感を覚えてしまう。お父様だけじゃない、お母様もだ。
「マーヤ、カロリーナの世話を頼むよ」
「かしこまりました」
そうしてお父様は私の髪をもう一撫でし、お母様は柔く手を握り、ダニエルは振り返り振り返りして、部屋を後にした。みんな家族として気にかけてくれている。そう思えることに安堵する。
一方で、お父様はカスペルで、お母様はブレンダだという感覚もある。ヴェロニカの記憶にも二人の姿があるせいだ。まだ十代くらいの、今よりも若さを感じる容姿だけど、確かに存在している。
どういうこと?
これは夢なの?
私は生まれ変わったのではないのかしら?
女神ヴィネア様の聖典によれば、人も含めた全ての動植物は前世の業による裁定を受けて生まれ変わる。善行を積み重ねれば来世でも幸福になれるというものだ。だから、魂って本当に転生するんだなぁ、と思ったけど、よく考えたらヴェロニカの頃に前世の記憶はない。お父様、お母様、周囲の誰も前世がどうだったかなんて話しているのを聞いたことがない。
何故、私にはヴェロニカとしての記憶があるの? プラチナブロンドの神々しさを受けたせいか、はたまた王子様のかつらがぶっ飛ぶ衝撃のせいか……。
今一番気がかりなのは、やっぱり私の現状よね。
「ねぇ、マーヤ」
ドアの近くで控えていたマーヤに声を掛けると、ススッとベッドに近寄ってきた。足音がまったくしなかった。
「何か寝物語が必要ですか?」
一向に眠らずにいる私を心配したらしい。というか丸一日眠った後だから、眠気なんてまるでないんだけども。
「いえ、それより聞きたいことがあるの」
あなたって前世の記憶ある? なんて直球では聞けないわね。いかにスコーグラード王国において女神ヴィネア様が信仰されていようと、実際に前世を自覚している人は多くないはずだもの。今までの周囲の様子からするに。
「マーヤは女神ヴィネア様についてどう思う?」
「尊き主神たる女神様です」
「では、前世はあると思う?」
「はい。前世の善行のお陰でお嬢様のおそばにいられます」
……何だろう。信仰心がないわけじゃないんだろうけど、模範解答で煙に巻かれている気がする。もし転生している自覚があるなら、もっと実感のこもった言葉になるはず。やっぱり前世の記憶は誰もが持っている感じじゃないわよね。
では、何故私には前世の記憶が……って考えがループしちゃってる。
王子様のプラチナブロンドがきっかけだったとしても、一緒に目撃したはずのマーヤは前世を思い出した様子がない。となると前世を想起させるものに遭遇したから、と考えるのが無難な線かしらね。なんと言ってもヴェロニカは王太子妃だったのだから。しかも、そのせいで命を落としたようなものなのだ。
うん、前世の魂にとってトラウマものだわ。
「お嬢様、女神ヴィネア様の神話を寝物語にご希望ですか?」
「……お願いするわ」
全然眠くないけどね。マーヤもずっと突っ立っているだけじゃ退屈だろうからね。
この世界には、大陸には六柱の神が存在する。世界を生み出された創生の神々。女神ヴィネア様もそのお一人。愛と生命を司り、生きとし生けるもの全てを慈しまれる。人間にとっても根幹を支える神と言えるので、六柱の神の中でも特に信仰が篤い。
篤い、のだけれど、改めて女神ヴィネア様の話を聞くと、だいぶ豪快な方よね!
女神ヴィネア様は容貌も大変美しいとされているとあって、常に恋に追われている感じだわ。六柱の他の神々は勿論のこと、人間や動物からも愛を囁かれている。行く先々で常に新しい出会いがあるって、素晴らしいことかもしれないけど、現実的に考えると大変だわ……。だって、その全員に恋されるってねぇ……。しかも女神ヴィネア様は慈愛を盾にして誰とも結ばれることなく、ただただ周囲が大きくなっていく。もはや三角関係どころの騒ぎじゃない。それでも新しい出会いを破綻なく築いていかれるって、常人の神経ではとても無理だわ。
海を越えた南の地域では男性が多くの女性を囲うハレムなるものが存在すると聞いたことがあるけど、それの女性版では? なんて不敬なことを考えてしまう。だけど、南の地域では女神ヴィネア様の信仰はあまり篤くないと聞くし……。きっと多くの人も考えたはずだわ。
私だったら、複数の人より、たった一人の人に深く愛されたい。ヴェロニカの時は望むこともできなかったこと。
「――そうして千年の時を越えてなお、女神ヴィネア様の慈悲により世界は守られているのです」
眠気がくる前に話が終わってしまった。神話の締めの下りは今も昔も変わらないのね。少なくとも前世から千年後に転生したってことはなさそう。むしろ、もっと短期間に転生した可能性の方が高い……。
うん、現実から目をそらす訳にはいかないよね。
「マーヤ、今って何年だったかしら?」
現状を把握するにあたって、最も基本的な質問をした。マーヤは唐突な質問に一度まばたきをした後、寝物語の続きのように告げた。
「神聖歴一二二二年、スコーグ歴二二三年です」
神聖歴は六柱の神々が世界を創生された年を元年とする紀年法。スコーグ歴はスコーグラード王国ができた年を元年とする紀年法。神聖歴一〇〇〇年の年にできた国だから分かりやすいよね。
……って、今重要なのはそこじゃないわ! 思わず受け入れることを思考が拒否しかけたけど!
ヴェロニカが王家に嫁いだのがスコーグ歴二一〇年の秋。
ヴェロニカが毒殺されたのがスコーグ歴二一一年の春。
そして、私、カロリーナは今年で十歳だ。つまり、私、死んでからたった二年で転生しちゃっているわ! お母様が妊娠された時期を考慮したら、一年ちょっとでこの世に魂が戻ってきちゃっているよ!
女神ヴィネア様、仕事速過ぎ!