符牒
薬草の匂いは混ざり合っても、不思議と不快感がない。自然の中にいるのと変わらないからかしら。エドヴァルドの店の調合室は、棚だけに収まらずに壁や天井にも薬草が吊るされているので、実際緑に囲まれている。作業しているテーブルの周りが唯一の陸地みたいに見える。
「カロリーナ、退屈してない?」
手元を注視されるのは気が散るのか、ラッセはすり鉢から顔を上げて尋ねてくる。
「全然退屈していませんわ」
「本当?」
「ええ、薬草が薬になるのは初めて見るので、むしろ興味深いです」
妃教育の中にも薬作りは存在しなかった。信頼できる侍医がいるから不要と考えられていた。その結果、毒殺されちゃったんだから、ある程度の知識は必要だったと思う。
「私も作るのは初めてだから成功するか分からないけどね?」
薬草はもちろん単体でも使用できる。でも複数の薬草を混ぜ合わせることで、より高い効能を引き出すことができる。ただ配合がきちんとできていないと相殺されて、かえって効能が下がってしまうこともあるらしい。見た目にも違いが出るらしいけど、素人目にはさっぱり分からない。
「成功するよう祈っていますわ」
「ありがとう」
微笑む姿は茶髪であっても王族らしい気品がある。相変わらず手足は痩せているし、二歳年上と考えると背も低いように見える。バリエンフェルト様を見た後だと、余計にそう感じる。
「薬が作れるようになったら、ラッセの報酬も上がるのでしょう?」
自由にできるお金が増えれば、もう少し健康的になれるだろう。
「え? どうかな? 聞いてないけど……」
「何ですって?」
思わず低い声を出してしまった。扉の傍でマーヤと一緒に控えるアードルフを見遣るけど、首を静かに横に振られる。アードルフも何も把握していないようだ。
「あ、いや、薬も作れるようになりたいって言い出したのは自分からだから……」
「ラッセに怒っているわけではありませんわ」
「うん、分かっているよ」
儚げで庇護欲を誘うような笑みは、どこか学生時代のアンナさんに通じるものがあって、血筋を感じてしまう。だけど、その笑みに忌避感を覚えないのは、ラッセの表情は作られたものではないからだろう。
素直なのは美徳だ。だけど、それだけでは社交界は元より普段の生活でも生きてはいけない。
「ラッセは報酬の契約について、エドヴァルドと一度きちんと話し合うべきです」
「おや、何だか悪者になっているようだね?」
声がした方を向けば、にこやかな笑みを浮かべるエドヴァルドがいた。童顔だからか、白い襟付きシャツにブラウンのスラックスという学園の夏の制服のような恰好だからか、ヴェロニカの記憶を刺激される感覚があった。
「まぁ、気のせいではなくって?」
「それなら良いのですが、もしお嬢様の心を痛めることがございましたら、是非遠慮なく申しつけくださいませ」
十歳の小娘とはいえ、貴族を前にしても全く気後れした様子がない。学生時代も今も王族を相手にしているのだから、当然と言えば当然かもしれない。
「大丈夫ですわ」
とはいえ平民であることに変わりはないし、何より本当に信頼できる相手かも判断しきれていない。
「そうですか? ハーティロニーのことなど、お教えできるかと思いますよ?」
思わずエドヴァルドの顔を凝視してしまっていた。対してエドヴァルドは余裕の笑みだ。
「どこでそのことを?」
バリエンフェルト家でのお茶会からまだ三日だ。貴族の間ならまだしも、裏通りに住む平民の元まで届くには早すぎる。
「商人にとって情報は命ですからね」
マーヤを見遣るけど、情報の経路に心当たりがある様子はない。
この十二年、国内での商業活動が表立ってできなくなったブローロース商会。だけど、今も存在しているのだ。別名義の商会も含めれば、実は国内でも今も変わらぬ勢いがあるのではないか……。エドヴァルドの余裕のある態度、情報網を見ると、考えてしまう。
「ハーティロニーって何?」
薬作りの手を止めたラッセが、首を傾げている。本来なら真っ先に情報が入っていなければならない王族の一人なのに。
「アールクヴィスト公爵領でのみ栽培されている紅茶ですよ。それも商業ルートに乗ることのない大変貴重なものです」
「へぇ。エドヴァルドは飲んだことあるの?」
「いいえ。飲むことができたのはヴェロニカ前王太子妃殿下と親交のあった者だけでしたから」
「ヴェロニカ、前王太子妃殿下……」
ラッセが思いつめたような顔をしてしまっている。エドヴァルドをにらみつけるけど、気にした風もなく、話を続ける。
「ところが十二年の時を経て、先日、とあるお茶会でその紅茶が出されたのですよ」
「え、そうなんだ? すごいね。どんな味なのかな」
少しぎこちなさはあるけど、ラッセは思考の渦に落ちることなく浮上したようだ。
「どんな味だったかはオリアン嬢がご存じですよ?」
「カロリーナが?」
二人の視線が私に向けられる。
エドヴァルドの持つ情報は正確なようだ。私だけでなく、他の参加者も全て把握しているのだろう。ここで適当に誤魔化す意味はない。
「ええ、先日バリエンフェルト伯爵家のお茶会に参加した際に出されましたの。柑橘系の香りがしながらも甘ったるくはなく、すっきりとしたのど越しの紅茶でしたわ」
「でも、それは本当にハーティロニーだと確信を持てるのかい?」
エドヴァルドの口調が変わる。探るような目つきは、商売人の目だ。
確かに参加者は全員十歳だった。誰もが初めて飲んだ。私も今世では初めてだ。別の紅茶をハーティロニーと偽ってもバレないだろう。だけど、それはその場に限ってのことだ。エドヴァルドだって分かっているだろうに。
「もしハーティロニーが騙りなら、バリエンフェルト伯爵家はただでは済みません。でも、現時点でもアールクヴィスト公爵家から抗議があったとは聞いていませんわ」
勝手に勢力拡大に利用されたとあれば、ヨハンネスお兄様は怒り心頭に発するだろう。
「なるほどね。ただアールクヴィスト公爵家とバリエンフェルト伯爵家が繋がりを持つとは、にわかに信じがたいことだ」
娘の毒殺と関わった家と手を組む。確かにピンとこない部分があるけれど……。
「もう十二年も経つのですもの。何か利害の一致することがあったのかもしれませんわ」
「利害の一致?」
「具体的には分かりませんわ。政治的なものか、共闘するに足る理由ができたのか……」
前王太子妃の家と元騎士団長の家。繋がりがありそうで、繋がらない。今は必要な鍵が足りていない気がする。ヴェロニカの死に、わたくし自身が知らない事実がある可能性だってあるのだから……。
エドヴァルドから返事がない。どうしたのか、と視線で問えば、エドヴァルドは戸惑いを含んだ声を漏らした。
「君は本当に十歳なのかい? 何だか成人した令嬢と話しているようだ」
どうやらヴェロニカの感覚に引きずられ過ぎたみたいだ。
「気のせいでしょう? 私は正真正銘の十歳ですわ」
きっぱりと言い切ったのに、どうも疑われたままの感じがする。そして、マーヤの方を振り向けない。教養の教育進度について、疑惑が深まった感があるから。
「カロリーナはすごいね。私は知らないことばかりだ」
ぽつりとこぼされたラッセの言葉は、どこか恥じ入るものだった。
考えてみたら、第一王子殿下主催のお茶会が開かれたと聞いたことは、この二年の間、一度もない。ヴェロニカの記憶が戻るまで意識したことがなかったから気にも留めていなかったけど、思い返せばラッセの誕生祭が開かれたことさえもないのだ。
ラッセは社交界から隔離されている。
「知りたいと思ったなら、今から学んでいけば良いのですわ」
勢いのまま言葉にすれば。ラッセの瞳が私を映しこむ。
「馬にだって、もう乗れるようになったのでしょう?」
「まだ早駆けはできないけどね」
「それでも成長していますわ。社交界に興味をお持ちでしたら、貴族年鑑を読むと面白いですわよ」
やっぱり十歳に見えない、とつぶやいたエドヴァルドの声が聞こえたけど、無視した。ラッセは、読んでみる、と言ってくれたからそれで良いのだ。
そして、話がだいぶ逸れていることに気付く。
「それで、エドヴァルド、あなたはハーティロニーについて何を知っているんですの?」
エドヴァルドはにっこりと笑みを見せる。
「ハーティロニーは符牒であり、狼煙なんですよ」
符牒。狼煙。あまり穏やかな気分になる言葉ではなかった。ヨハンネスお兄様に、やはり一度会う必要があるように思えた。