獣の要塞
バリエンフェルト伯爵家のタウンハウスは、当然のようにオリアン男爵家のものより大きい。まず邸宅を囲う塀が違う。一貴族の邸宅のものじゃない。
要塞だ。
大人でも見上げるほど高く重厚な壁は、大砲の一撃や二撃くらいは受けても平然としていそうだ。代々騎士の家系であり、騎士団長を任ぜられることも多かったバリエンフェルト伯爵家は、貴族街における防壁であり司令塔でもあった。爵位こそ伯爵ではあったけど、国境を守護する辺境伯と同等の力があった。
それも騎士団長の子息が王太子妃殺害に関与したことで、脆くも崩れたわけだけど……。本当にそうなのかな?
このタウンハウスを見れば、王都の守りは今もバリエンフェルト伯爵家が要なのだと分かる。当人が廃嫡されたことで家門に累が及ばなかったのは、所業に対して罰が軽いとする向きもあるらしいけど、下手なことをすれば王都の陥落に繋がるだろう。守りは一代で作れるものじゃない。現騎士団長の家が王都守護の要になるのに、後何年かかるのか……。
お父様とお母様は、このことを把握されていたからバリエンフェルト伯爵家と関わることを避ける指示は出されていないのだと思う。
ただ、そうなると、バリエンフェルト伯爵家が子爵家だけならまだしも男爵家とも積極的に関わる意図が分からない。まだ見えていない所で権力の基盤固めを必要とする理由があるのかな。
「何だか物々しい雰囲気ね……」
邸宅内も貴族のタウンハウスというより兵舎のような印象があって、思わずつぶやいてしまったエステルの気持ちも分かる。屋敷の雰囲気を作るのは、美しい絵画や洗練された装飾品ではなく、人間なのだ。私もヴェロニカの記憶がなければ、萎縮してしまっていたと思う。
「お嬢様方、お茶会の会場はこちらでございます」
子供たちの緊張にも屋敷の者たちは慣れているようで、エステルのつぶやきを咎めることなく笑顔で案内してくれる。
そこは、大樹が日陰をつくる中庭だった。枝葉の緑が瑞々しく、夏の暑さを不思議と感じない。四方は壁に囲まれていて圧迫感があるはずなのに、広々とした敷地のお陰で開放感の方が勝っている。
長テーブルには、すでに他家の子供たちが集まっている。今の所、十人。開始の時間には余裕があるので、まだ増えるとしても長テーブルの席からして、参加者はそう多くなさそう。ただ初めて見る子たちばかりだ。
「クロンヘイム子爵が娘、エステルにございます」
エステルが挨拶したのに続いて、私もカーテシーをする。
「オリアン男爵が娘、カロリーナにございます」
先に着いていた子供たちも、にこやかに挨拶を返してくれた。記憶にある貴族年鑑と照らし合わせてみると、エステルの前情報通りみんな十歳だ。だけど、子爵家か伯爵家ばかりで私の他に男爵家はいない。これから来るのかしら? なんて思ったのに、その後に来た二人も子爵家だった。
先日の図書館のことが、バリエンフェルト様の琴線に何か触れたってことなの?
ちらりと背後に控えるマーヤに視線を送るけど、ヒントが返ってくることはない。それとなく他家の侍女や従僕も確認するけど、男爵家に不快感を見せている様子はない。格下と蔑む目もない。
とりあえず、男爵家が私一人なら座る場所に迷う必要はないわね。前向きに考えて、主催から一番遠い長テーブルの端に座る。隣にはエステルが座った。顔を見合わせると、にっこりと微笑まれる。まぁ、他に男爵家がいないなら間違いではないから、いいのかな。
やがて、お茶会の開始時刻になる頃、規則正しく響く足音がした。バリエンフェルト様だ。
「アルフォンス・バリエンフェルトにございます。当家の茶会に参加頂き感謝致します。本日が皆さまにとってより良い日となることを願っております」
バリエンフェルト様の礼には、一切の隙がない。次期伯爵としての覚悟を内に秘めているようだ。そして、バリエンフェルト様が席に着くなり、カップにお茶が注がれる。バリエンフェルト伯爵家の使用人たちは、訓練された隊のように一糸乱れぬ動きをする。その使用人たちの働きにもちろん感謝を示されることはない。お茶会の席だからというのがあるにしても、バリエンフェルト様の瞳に、彼らは全く映っていないと分かるから。
バリエンフェルト様が、紅茶に口をつける。
「皆様もどうぞ召し上がりください」
ふんわりとした笑みは、軍隊に囲まれたような環境の中で、一際柔らかく映った。強制されたわけでもないのに、自然と手がカップに伸びた。
一口飲んで、思わず私の動きが止まった。
「まぁ、口当たりがとても涼やかですわ」
エステルが感嘆の声を漏らせば、周囲にも同様の感想が聞こえてくる。柑橘系の香りがしながらも、甘ったるくなく涼やかさがあって夏にぴったりの紅茶。
「初めて口に致しますわ。何という紅茶なのでしょう?」
ローセンダール伯爵家の令嬢だと挨拶したベアトリス様が、みんなの疑問を代表するように尋ねる。バリエンフェルト様と同じ家格なので、一番角が立たない。そういった空気を読んでいる辺り、伯爵家の教育が行き届いていると感じられる。みんなの視線がバリエンフェルト様に集まる。
私もバリエンフェルト様を見る。ただし、みんなの好奇に溢れた視線とは違っていただろう。
「ハーティロニーですよ」
秘密を打ち明けるような声音は貴族の子息らしく、図書館での態度とはまるで違う。
「初めて聞きますわ」
「新種の茶葉なのかな」
「原産地はどこのものなのかしら」
貴族は新しいものが好きだ。それは十歳の子供でも変わらない。好奇心という意味では大人よりも強いかもしれない。
だけど、私は知っている。これは新しいものじゃない。だって、この茶葉は――。
「アールクヴィスト公爵領でのみ栽培されている茶葉ですよ」
そう、この茶葉は私が、わたくしが十歳の誕生日を迎えた時にアールクヴィスト公爵領で作られた茶葉だった。
――ロニー、誕生日おめでとう。
わたくしの愛称を呼ぶお父様の声は、とても温かで。
――お茶会デビューの記念にロニーの茶葉を作ったのよ?
お母様の声は愛情を込めながらも、どこか誇らしげで。
――いいなぁ、僕も僕専用の紅茶が欲しい!
羨むヨハンネスお兄様の声は、まだ幼さがあって。
お茶会は女の戦場でもあるのよ、そのための武器なのよ、と言い聞かせるお母様の声は公爵夫人のもので、わたくしの身の内に火が灯るのを感じていた。
ハーティロニーは他領との商売取引に使われることはなかった。あくまでもヴェロニカのための紅茶。だからヴェロニカの死後、世に出回ることはなかっただろうし、実際カロリーナの記憶にハーティロニーは存在していなかった。
なのに、何故バリエンフェルト伯爵家に?
バリエンフェルト様を見てみれば、穏やかな顔をされているけど、その瞳は鋭く獣のように見えた。
ハーティロニーの事情を知らない周りは、アールクヴィスト公爵領原産の茶葉があることに素直に驚いているようだった。
「公爵領は、紅茶の栽培が盛んなのかしら?」
エステルも首を傾げている。アールクヴィスト公爵領はとても裕福な土地だ。紅茶に限らず、様々なものが揃っていた。下手すれば王都よりも。けれど、ヴェロニカの死後、ヨハンネスお兄様が爵位を継いでからは他領と積極的に関わってはいないようだった。まだ十歳の彼らがハーティロニーのことを知らなくても当然だった。
だからこそ、このお茶会に登場したことが、目の前にあるのに信じられない。
「この紅茶のことが気に入られた方は、是非今後も多くの席で語らいましょう」
にこやかな笑顔で、言葉で、バリエンフェルト様は新しい派閥の形成を宣言されていた。アールクヴィスト公爵家を後ろ盾として。
それに対して抗うことなどできないような空気が出来上がっていた。このお茶会の後で親から注意される子息子女は何人いるだろう。それともバリエンフェルト伯爵家の動きを把握していて、実質了承のもと参加していたのだろうか。エステルをはじめ、戸惑いを覗かせている令嬢もいる。だけど、後ろに控える侍女と従僕は微動だにしていない。お父様とお母様はどうなのだろう。
じっとバリエンフェルト様を見つめると、にっこりと笑みで射抜かれた。
「オリアン嬢も是非」
何だか捕食されてしまった気分だった。