履歴と口伝
ラッセとの二回目のお出掛けは、気まずさを残して終わってしまった。王城に限らず、王都だってラッセが過ごしやすい場所ではないのだ。一国の王子であるにも関わらず。国のために義務を果たそうとするラッセの想いは、一方通行なのかもしれない。
ラッセを取り巻く状況が良くないことは、分かっているつもりだった。けれど、実感が伴っていなかった。
あの花屋の店主は、ラッセと以前にも交流があったそうだ。奥さんは元々体が弱く、ラッセもよく格安で薬を売っていたのだ。しかし、昨年の冬に風邪をこじらせて亡くなってしまった。お医者様に診せられたら、また違った結果になったのかもしれないけど、平民の稼ぎでは門前払いも珍しいことじゃない。結局、薬に頼ることになる。だけど、万能薬なんてありはしない。症状が重くなれば、助からないことだってある。花屋の店主だって、仕方のないことだと納得していたらしい。
だけど、見てしまったのだ。約二ヶ月前、ラッセのかつらが飛んでしまうところを。
つまり、あの時、花屋の店主も近くにいたのだ。ラッセのプラチナブロンドだけでなく、私やマーヤの顔も見たはずだ。そんな三人が揃って自分の店先にやって来た。貴族と自然と接するラッセ。もうただの平民には見えなかったことだろう。
茶髪だけど、茶髪に見えない。それでも、まだ見間違いの可能性もある。そうでなければ、ラッセは第一王子殿下。呪い子だ。
花屋の店主にとっては、ラッセの薬は毒薬になってしまったのだろう。それを否定するためか、肯定するためか、彼の手は動いてしまった。王族の可能性に思い至りながらも。平民の恰好をしたラッセは、花屋の店主を不敬に問うことはなかったけど……。
呪い子。
十二年経過してなお、平民の間でも深く根差しているのだと思い知らされた。
――仕方ないことだよ。
花屋の店主の想いを察して諦めたように笑ったラッセは、年齢に似合わない諦観で痛々しかった。溜め息がこぼれ出てしまう。
「お嬢様、お疲れですか?」
「大丈夫よ」
マーヤの心配に即答したものの、あまり納得してもらえてはいないみたい。マーヤの視線が、じっとりとして離れない。
実際問題、大丈夫とは言い難い状況だ。オリアン家の狭い図書室のテーブルに、本が山と積み上げられ、肝心の私は難しい顔をしているだろうから。
今のラッセの置かれている状況は、ヴェロニカの記憶がある私からすると、どうしても奇異に映る。だってヴェロニカ自身は、ラッセに対して嫌悪の感情は持っていないのだ。レオナルド様とアンナさんの子供ではあるけど、ヴェロニカ自身は関わったことがないのだから当然と言えば当然かもしれない。子供の世代にまで悪感情を持ち越せるほど、二人に興味がなかったとも言える。直接二人に会うことがあれば、また違う感情が芽生えるのかもしれないけど……。
それに何よりラッセは悪い子じゃない。花屋の店主だって知っていたはずだ。なのに呪い子の可能性に思い至った時点で、感情が反転してしまったのは何故か。
私の把握しきれていない背景が何かしらあるのかもしれない。そう考えて宗教や歴史の本を読み漁っているのだけど、成果は芳しくない。呪いの類は出てこないことはないけど、どこか空想めいている。呪い子なんて、もちろんいない。
「少し休憩してくださいませ」
再び考え込んでいた私の前に、紅茶が差し出される。
「ありがとう」
返事をすれば笑みを返してくれる。一口飲むと、体の奥が潤う気がした。
ただ、もう一つの気がかりが頭を掠めてしまう。私には、こうして気遣ってくれる侍女であり護衛でもあるマーヤがいてくれる。花屋の店主が出てきた時にも、すぐに守れる位置に立ってくれた。とても心強い存在だ。だけど、ラッセにはいない。
当然、あの日だってアードルフが影から護衛についていた。でも、実際にラッセの守りに動いたのは、パン屋のおかみさんだった。影からの護衛では、瞬時に動くのは難しいということだ。いかにもな相手ならまだしも、一般の平民では判断に狂いが出ることだってある。何しろラッセは平民として過ごすことを望んでいる。そんなラッセの傍に騎士然としたアードルフがいては、髪色を確かめるまでもなく正体がバレるだろう。
やはり専属の護衛が必要なのだと思う。同い年か、兄と呼べるくらいの年齢差の護衛兼従僕がそばにいれば、ラッセの環境もぐっと良くなるはずなのに。アードルフが専属の護衛の隊長に就いたら、湖で隠密に護衛していたという三人が、その役割を担うことになるのかしら……。王族のお忍びを知る人は限られている方が良いはずだから。あるいは別途、年の近い武家の貴族の子息から選ばれるのか……。
なんて、私が考えてもどうにもならないわね。また溜め息をついてしまった。
マーヤが再度口を開こうとした瞬間、ガチャリと図書室のドアが開いた。お父様かしら、と思ったら天使がいた。
「お姉様?」
「ダニエル!」
呼び合えば、疲れもどこへやら。満面の笑顔になることが、自分でも分かる。ダニエルは癒しの魔法を使えるに違いない。
「勉強は終わったの?」
「うん、次の授業までの休憩なんだ」
「まぁ、お疲れ様。何か読みたい本でもあった?」
「ううん、お姉様に会いたかったんだ!」
何て可愛いことを言ってくれるのかしら! 思わず席から立って、ぎゅっと抱きしめていた。ふわふわの髪の毛が頬に触れて、心地いい。ん? 頬に?
「あら、ダニエル、少し背が伸びた?」
「うん、服のサイズ、少し大きくなったよ」
子供の成長は早いのね。なんて二歳しか違わないのに、ついヴェロニカの感覚で考えてしまった。
「ところで、私に何か用事があったのかしら?」
会いたかった、ということは、何か用事があるのかと思ったけど、ダニエルは首を横に振る。
「話したかっただけ!」
何という天使! 私はもう一度ダニエルを優しく包み込んでいた。いや、そんなに身長が変わらないので、傍から見たらくっついているだけだろうけども。
それにしても、ダニエルはすっかりお姉ちゃん子ね。将来、反抗期になったらどうなるのかしら。うるせぇブスとか言うの? それも可愛いわ。
「お姉様は勉強の途中?」
机の上に広げられた大量の本に気付いたダニエルが、少し心配そうな顔をする。
「ちょっと気になることを調べていただけよ」
「気になること?」
呪いや呪い子なんて話したら、ダニエルを怖がらせてしまうかもしれない。
「人の考えや見方に、歴史や宗教はどれくらい影響するのか、みたいなことよ」
「……むずかしい」
そうね。本当に難しいわ。人の心を把握するなんて、本当はできないことかもしれない。
「あ、でもね、歴史は勝利者たちの履歴だから、本当の歴史を知るには噂や口伝も含めて色んな所から見ないとダメだよって、今日先生が言っていたよ」
履歴? 口伝? ダニエルは八歳よね? そんな単語をつっかえることなく言えちゃうの? 男爵家の後継者教育って、もしかして妃教育並みにスパルタ? そして、先生、王家に睨まれてない? 大丈夫?
一瞬、目が点になったけど、ダニエルは、ちゃんと勉強してるよ、褒めて褒めて、って全身で表していて可愛い。思わずにっこりして、頭を優しく撫でちゃう。
そして、考える。確かに歴史や宗教の本に書かれるのは、一方の視点からだ。きちんと調べるなら別の視点が必要だろう。歴史は王族という最高位の視点から見たものだ。その逆となれば、民衆の視点。ざっくりと室内を見渡すけど、それに該当しそうなものは見当たらない。
一度、王都の図書館に行ってみようか。うん、次の指針が決まった。図らずもアドバイスをくれたダニエルの頭を、もう一度撫でた。