安心できる場所
陽が高くなると、湖の温度も上がるからか、体感気温もぐっと暑くなった気がする。マーヤが差し出してくれた日傘のお陰で、私は幾分マシではあるけど……。
「ラッセ、大丈夫ですの?」
ラッセにとって通い慣れている場所でも、気温変化に耐性があるわけじゃない。額に汗が滲んでいる。
「昼時はさすがに暑いね」
「かつらを取ったら、少しマシになるんじゃないかしら」
王都内で合流したから、ラッセはかつらをつけたままだ。今は事情を知る人物しかいないし、万が一、第三者が来ても護衛が教えてくれるはずだ。
「そうだね、取っちゃおうかな」
茶髪が取り払われると、プラチナブロンドが陽の光を受けて、まぶしく輝く。ただ、蒸れていたのか、ちょっとぺったりしている。
「汗、拭きます?」
「え、いいの?」
ハンカチを差し出すと、何故か戸惑われた顔をされる。今のままだとラッセも気持ち悪いだろうし、陽が落ちて気温が下がった後も濡れたままだと風邪をひいてしまうかもしれない。ラッセの身体は、どうしても丈夫そうには見えないもの。
「ええ、体調を崩されたら大変でしょう?」
「その、ありがとう」
受け取ったものの、どこか遠慮する気持ちがあるのか、額の汗を軽く抑える程度に留めている。
「それでは拭ききれませんわ。貸してくださいな」
半ば無理矢理ハンカチをラッセの手から取ると、私はラッセの髪を整えながら汗を拭いていく。
「あの、その、汚いから……」
ラッセの頬が赤い。やっぱり、暑いのに遠慮しているのね。
「ハンカチは役目を果たしているだけですから、気にする必要ありませんわ」
「う、うん、ありがとう……」
消え入りそうな声。すでに体調が悪かったのかしら。薬草の説明をしている時は、そんな様子はなかったけど……。
「カロリーナは、誰かの世話をするのに慣れているの?」
ラッセは少し俯いたので、表情がよく見えない。どういった意味で聞いているのか……。まぁ、貴族令嬢が他人の汗を拭いたり、髪を整えたりはしないか。
「慣れてはいませんが、普段、マーヤの仕事ぶりをよく見ていますし……。あとダニエルのことなら、あれこれ世話したくなりますわね」
「ダニエル?」
「弟のことですわ」
「……弟」
何だか気落ちした声だ。今まさにお世話しているような状態で弟発言は、王族に対して不敬だったろうか。
「あの、ラッセのことを弟だと思ったことはありませんわ」
「え?」
「私たちは友人なのでしょう?」
「そうだね」
気持ちが浮上したような、そうでもないような。ダニエルの天使のような笑顔をラッセにも期待しては、それこそ弟扱いよね。気をつけなくては。
「拭き終わりましたわ。いかがですか?」
プラチナブロンドの髪が、ふわふわと風に揺れている。
「うん、すっきりしたよ。ありがとう」
お礼を伝えてくれたラッセの目は、私の手にあるハンカチをじっと見ている。何か気になることでもあるのかな?
「その、ハンカチを洗って返すと言えれば良いのだけど……」
申し訳なさそうな声に、はっとする。紳士とすれば、確かにそうするのかもしれない。あまつさえ新しいハンカチをプレゼントしたりもする。だけど、アードルフが一緒とはいえ、今はお忍び状態なのだ。そんなラッセが女物のハンカチの洗濯を頼んだり、買い求めたりすれば、あらぬ噂が出てしまう。一人で行動しているつもりだったとおっしゃっていたから、侍女やメイドの中にもお忍びの協力者はいないのだろうし。というかラッセの不在に本当に気付いていないのかな。離宮がどういう状態になっているのか、あまり考えたくないわね……。
アードルフやエドヴァルドに頼むにしても、どこでお忍びが露見するか分からないから、微妙なところよね。
とにもかくにも、ここは笑顔の一択だ。
「大丈夫ですわ。薬草のことを教えて頂いたお礼と思ってくださいな」
「うん、ありがとう」
この話題を続けても、あまり明るくなりそうにない。別の話題、と考えた時に、ラッセの手元にあるかつらが目に入る。ハンカチを洗うのは難しいとして、このかつらはどうしているのかしら?
「かつらが気になる?」
私の視線に気付いたらしいラッセが、首を傾げて尋ねてくる。あまり話題を変更できていないけど、確かに気になる。
「ええ。普段、かつらはどう保管されているのかしら、と思って」
「このかつらは、元々エドヴァルドが用意してくれたものなんだ。だから、普段はエドヴァルドの店にあるよ。汗で汚れるから手洗いはしているんだけど……あ、そっか、ハンカチも自分で洗えば良いのか」
え? ラッセが手洗いする? ラッセが、第一王子殿下が、私のハンカチを?
とんでもない選択肢を見つけてしまったラッセを思いとどまらせるために、慌てて口を開く。
「そこまでお気遣い頂く必要はありませんわ。先ほど申し上げた通り、お礼と思ってください」
是非とも! と目力を込めると、私の意思が伝わったのか、ラッセは素直に頷いてくれた。良かった。
「殿下、お嬢様、昼食の準備が整いました」
一息ついたタイミングで、マーヤが声をかけてくれる。
「ありがとう。ラッセ、お昼にしましょう」
「昼食?」
ラッセが何故か戸惑った顔をしている。何か気にかかることでもあっただろうか。
「ラッセ?」
「いや、何でもない」
笑みを浮かべるけど、どこか無理をしている気がする。
水辺の近くに広げられた布の上に、サンドウィッチを始めとした、外でも簡単につまめるものが入ったバスケットが並べられている。デザートとしてイチゴまでついている。今の時期にしか採れない貴重なものだ。色々と気を配ってくれたのだな、と料理長に感謝する。
「では、早速頂きましょう」
女神ヴィネア様に祈りを捧げてから、サンドウィッチを一つ手に取る。オリアン家で用意したものだ。まずは私が一口食べて安全性を示す必要があるだろう。
うん、卵とパンの組み合わせも美味しいわね。
一つ、食べきったものの、もちろん体調に異常を感じることはない。かえって空腹が刺激されたくらい。もう一つ、と手を伸ばしかけて、ラッセが布の上に座ってから微動だにしていないことに気付く。
「ラッセ? 美味しいですわよ?」
声をかけてみるけど、ラッセの手は動かない。さっき拭いたばかりなのに、ラッセの額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「ごめん。その、大丈夫だとは分かっているんだけど……」
絞り出されるような声。指先が小刻みに震えている。
どうしたの、と声をかけるより前に、ヴェロニカの記憶が私を納得させる。ラッセは食事が毒に見えるのだ。先日の教会では紅茶を普通に飲んでいたから、食事をとること自体は平気なのだと思ってしまっていた。教会には何度も通われていて、神父様の人柄も把握されているから、警戒を解くことができたのだろう。一方、オリアン家の食事は、ラッセにとって未知なる料理長が用意したものだ。どうしても拒否反応を起こしてしまうなら、無理に食べさせない方が良いのかもしれない。
だけど、その震える手は、とても痩せている。ラッセにとって安心して食事できる場所が、一つでも多くあってほしい。
私は、サンドウィッチを一つ手に取る。そして、半分に割る。
「ラッセ、私を信じてください」
まっすぐに見つめて告げてから、サンドウィッチの片割れを口に入れる。キュウリの歯ごたえが、冷静さを刻んでくれる。食べきったのが分かるように、ゆっくり嚥下する。
「大丈夫ですわ」
にっこりと笑みを向ければ、ラッセの震える手が、私の持つサンドウィッチの片割れへとゆっくりと伸ばされる。その手に、私はしっかりとサンドウィッチを持たせる。
ラッセは深呼吸をして、ごくりと喉を鳴らしてから、もう一度深呼吸をして、ようやくサンドウィッチを口に運ぶ。咀嚼する様子を見守る。
「……美味しい」
飲み込んだ後、ラッセがぽつりと言葉をこぼす。もちろん、毒に苦しむようなことはない。
「お口に合ったようで、良かったですわ」
微笑めば、周囲にも安堵の空気が広がるのを感じる。私はもう一つサンドウィッチを手に取ると、同じように半分に割って、ラッセと一緒に食べる。一つ、もう一つと分け合えば、ラッセの震えも収まっていく。
そうして、食べる合間に他愛無い話を紡いでいけば、ラッセが笑顔を浮かべてくれる。
食事は苦しいものではなく楽しいものだと、少しでも刻まれてくれたなら、日常に彩りを感じられるだろう。その瞬間が一刻でも多くあることを願う。