内に秘めた情熱
湖には昼前に着いた。アードルフとパウルは三頭の馬を水辺で休ませ、マーヤは木陰に布を広げて休憩場所を作っている。それらの動きに迷いはなく、子供である私とラッセの手伝うような隙はない。むしろ私たちが手を貸したら失格といった雰囲気だ。
「少し湖の周りを歩きますか?」
「そうだね」
護衛の三人の目が届く範囲を意識しながら、水辺に寄る。
ふんわりと柔らかな風が吹き、心地いい。湖の冷気のお陰か、木々が作る日陰のお陰か、道中に比べて涼しく感じられる。
「この湖にはよく来られるんですの?」
「よくって程ではないかな。歩いてくるには遠いからね」
「そうですわよね」
ちょっとだけ、ほっとしている自分がいる。ラッセの細い手足で、王都からここまで毎日のように来ていたとしたら、やっぱり心配になる。王都と近隣の街を繋ぐ道は、ある程度整備されていると言っても、安全を確保するものでもない。湖は道から少し外れているし……。
馬車を用意できないにしても、歩き以外にも選択肢はあるんじゃないだろうか。水辺でくつろぐ馬をちらりと見る。
「アードルフは馬に乗せてくれなかったんですの?」
ラッセは困ったように、気恥ずかしさを滲ませた笑みを落とす。
「その、恥ずかしながら、護衛されていることにずっと気付いてなかったんだ」
「どういうことでしょう?」
意味が分からず、首を傾げてしまう。
「実は、あの膝を怪我した日まで、一人で行動しているとずっと思っていたんだ。こっそりと抜け出しているつもりだったから」
絶句した。アードルフは協力者ではなかったのね。一人で抜け出すのは、一国の王子としてはだいぶ危機感がない。ヴェロニカの記憶が、護衛とは、と語り出しそうになるけど、ぐっと踏み止まる。ラッセにお忍びを相談できるような身近な相手が、そもそもいるのだろうか。
ラッセが膝を怪我した日、私とマーヤが声をかけるまで、誰も近づく人はいなかった。護衛であるはずのアードルフも躊躇っていた。本来、ラッセの前に顔を出すことを許可されていなかったのなら。陛下はどういった意図で、ラッセに護衛をつけていたのだろう。現状では何とも言えないわね……。
仮にアードルフ以外にも護衛がついていたとして、果たしてそれは良いことなのだろうか。隠密についているであろうオリアン家の私兵団が、護衛たちに遭遇しなければ良いな、と願ってしまった。
それにしても、アードルフもこの十二年ほどの間に、随分と思い切った性格になったものだと思う。ラッセの話の通りなら、初対面で王子の叔父だと言い切ったのだから。ラッセにアードルフを疑う様子はなかったし、城内で顔を合わせたことくらいはあったと思いたい。
「今は護衛がいると分かったことですし、次からは馬に乗って来られると良いですね」
もやっとする気持ちを振り切って、明るい声を出す。
アードルフの馬は、問題なく連れ出せることが今回のことで分かっている。一緒に乗るくらいはしてくれるだろう。できれば、もう一頭、ラッセの馬も連れ出せたら護衛の面でも助かるだろうけど……。アードルフ以外の護衛がいないなら、一緒に乗っている方が安全かしら?
ラッセは湖の美しい青が反射した瞳のまま、私の懸念を越える言葉を口にした。
「そうだね、乗馬を習えると良いんだけど……」
再び絶句しそうになる。ラッセは十二歳。それにも関わらず、未だに乗馬を習っていないなんてあり得るだろうか。王族としては、かなり偏った教育を受けていそうだ。
ちらりとアードルフを見遣ると、視線を逸らされてしまった。近衛隊と言っても護衛の一人でしかないのだし、王族の教育に口出しはできないか……。最近までまともに会話もしたことがなかった訳だし。
「乗馬は貴族男子のたしなみですし、教育係に言えばきっと教えてもらえるはずですわ」
第一王子が馬にも乗れないなんて、国の沽券にも関わるだろう。レオナルド様たちもそれぐらいは理解していて欲しい。
「そう、だね。今度聞いてみるよ」
しかし、ラッセの顔はあまり晴れやかにはならない。再度、アードルフに視線を送る。若干、睨んだ風になったかもしれない。
「お話し中失礼致します」
私の訴えが届いたのか、アードルフがラッセの前に跪く。
「殿下、乗馬は教養の一つと言えましょう。教育係に口添え頂ければ、私からお教えさせて頂きます」
「……ありがとう」
驚きを滲ませつつも、ラッセの声には嬉しさが込められていた。
うん、近衛の職務外のことにはなるだろうけど、護衛対象の心を守ることになると思えば、きっと許容範囲内のことだ。
微笑ましい気持ちでいたけど、一つだけ言葉を加える。
「でも、あまり遠くまで一人で行こうと思わないでくださいね」
護衛の心労もほどほどに抑えておきたい。そんな軽い牽制の言葉だったのに、ラッセはとても嬉しそうな笑みを浮かべる。
「うん、遠くまで行くならカロリーナも一緒がいいな」
突然、飛んできたストレートな言葉に、二の句が継げなくなる。そばに控えたままのアードルフは護衛に徹したようで、何も言わない。ラッセはニコニコ笑顔から崩れない。私は、頬がゆっくりと熱を帯びていくのを感じる。
「と、ところで! ラッセはこの辺りでどういった薬草を採っていますの?」
気恥ずかしさを紛らわすように、強引に話題転換していた。それでもラッセは気を悪くした様子はなく、辺りを見回す。
「そうだなぁ、今の時期だと……」
ラッセの足は、言葉と裏腹に迷いなく進んでいく。そうして葉が生い茂る場所へと近づいていく。薬草という言葉からイメージするよりも、だいぶ大きい。私のお腹くらいまで茎が伸びている。
「このハンゲショウはよく採取していくかな」
「薬草、というか花?」
白い小さな花が総状に咲いている。そして、その花の周りの葉が半分白くなっていた。
「薬草でも植物だからね。花もちゃんと咲くんだよ」
言われてみれば、その通りである。
「何だか不思議な植物ですわね。庭では見かけないものです」
半分白くなっている葉に触れてみたけど、指先に色がつくようなことはない。そんな私の行動が子供っぽかったのか、ラッセが小さく笑う。
「不思議だよね。その見た目からハンゲショウって呼ばれているんだ。解毒と解熱の薬になるんだよ」
「効能を聞くと、途端にお薬に見えてしまいますわ」
それからもラッセは湖の付近を歩きながら、一つ一つ草花を見ては効能を教えてくれる。身近な所に薬草は溢れているのだと思い知る。同時にラッセの薬草に対する知識量も。
ラッセに触れるほどに、話すほどに歪な生活環境を垣間見てしまう。そこから掬い上げることは容易なことじゃない。私の手は、とても小さい。
だけど、だからこそ、私は友人でいることを選んだのかもしれない。