眠りについた。
結果から言えば、婚約は破棄されなかった。
むしろ結婚時期が早まってしまった。
本来なら今年の晩秋に学園を卒業し、一年の結婚式の準備期間を設けた後、社交シーズンの終わりを迎える前の秋に式を挙げる予定だった。豊穣祭の時期に合わせることで国がより豊かになることを願うのが、王族の婚姻の習わしの一つなのだ。
しかし、それでは間に合わない事態が起きた。
アンナさんの妊娠。王太子の子と思しき赤子を身ごもった。複数の子息と親しくし、かつ初夜を迎える前の妊娠。疑惑の目は向けられたが、争いの火種になるやも知れぬなら近くで監視した方が良いと判断されたらしい。
だからと言ってアンナさんが正妃になることはあり得なかった。生まれてくる子が本当に王太子の子だとしても、良くて側妃、場合によっては愛妾止まりだ。男爵家の庶子では後ろ盾が足りなさすぎた。
そして、わたくしは優秀すぎた。
すでに妃教育を終えてしまっていた。学園の最終学年に進学した時点で。なので本来なら婚姻後に教えるべきであろうことも教わっていた。具体的に言えば、王城内の隠し通路や、歴代王族の秘密のあれこれだ。
だって、誰も夢にも思わなかったのだ。男爵令嬢にどんなに現を抜かしたとしても、王太子の最大の支持者であるアールクヴィスト公爵家の令嬢に婚約破棄を突き付けるなんて!
とにもかくにも、わたくしは今更王家以外に嫁ぐことなんてあり得ない知識を持ってしまった。正妃を挿げ替えるなんて、とてもできない。だけど、すでに子供もできている側妃候補の後に正妃が嫁ぐのも外聞が悪い。できるなら子供が生まれる前に婚姻を挙げてしまいたい。
そんな事情や思惑が絡み合ったことで、結婚式は一年前倒しになった。
ちなみに学園はわたくしもレオナルド様も早期卒業扱いだ。学園では人脈作りが主で、学問は妃教育で充分だったので問題ない。
むしろレオナルド様が斜め上の人脈作りをした結果、こんな事態になってしまったので、学園に通ったのは問題しかなかった。学園としても、レオナルド様やわたくしが通い続けては胃が痛かったと思われるので、早期卒業は満場一致の選択だったろう。
慌ただしく始まった結婚生活は、上手くいくはずもなかった。
唐突に決まった結婚式は王太子の正妃のものとしては地味だった。同盟国の参席も近隣諸国に限られたし、それさえも二番手、三番手が多くを占めた。遠方国からは祝辞や贈り物が届いたが、結婚式に無理やり間に合わせたが故に、何とも言えないものも多かった。
国内の貴族は揃ってはいたが、事の経緯を知っているだけに空元気な空気があり、それが他国の貴族に伝播したのも悪かった。今後、陛下は、同盟国に侮られぬよう難しい舵取りをすることになっただろう。
レオナルド様は、そんな結婚式を経ても純粋で無頓着だったのだ。
結婚式での口づけはかろうじてしたものの初夜の訪れはなかったし、労りや気遣いなど無縁だった。王太子妃の部屋を訪れることはなかったし、食事を共にすることさえなかった。
間を置かずして、城に上がったアンナさんの所へは毎日通っているというのに。自身の子を宿した彼女を大層慈しんでいるそうだ。
そんな振る舞いが何を生み出すか、レオナルド様はまるで理解されていなかった。
わたくしの毒見役の侍女は、一ヶ月で四人変わった。
馬車に乗るには、二重、三重のチェックが必要だった。
わたくしに仕える侍女や護衛は、気の休まることがなかっただろう。常に緊張を強いられ、日に日に空気は重くなった。
どんなに妃教育を優秀に終えたとしても、一人では対処できることも限られてくる。周囲と連携し動かしていく要となる王太子妃は、信頼できる者たちがいなければ上手く機能しないのだ。王太子妃と言っても、所詮十八歳の小娘。経験が足りなかった。
休まることのない日々は、判断力を落とした。
気付くとわたくしは、ベッドの上から起き上がれなくなっていた。最初は疲労からくるものかと思った。医者もそう言っていた。
だけど、三ヶ月続いた毒見役が臥せったと聞いた時、そして新しい毒見役が用意された時、わたくしは覚悟した。
あぁ、遅効性の毒を盛られたのか、と。
あの婚約破棄騒動からまだ一年も経っていないのに。人生とはあっけないものだ。
こんなことなら、もっと、もっと……。
「自由に……生きた、かった……」
掠れた声は、ざらついて、わたくし自身の耳にも上手く聞き取れなかった。周囲がざわついた気もしたけど、視界ももう狭くてよく分からない。五感が遠ざかっていくのを感じる。
意識を手放す瞬間、遠くで赤子の泣き声が聞こえた気がした。