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第三話

 僕が部屋を訪れると、案の定、先輩は窓枠に腰掛けていた。

 しかし珍しい事に、本を持ってはいるものの、その視線は上を向き、夜空を見上げるようにしていた。

「星でも見てるんですか?」

「その通りだよ」

「珍しいですね」

 そう言うと、ようやく読子先輩は僕に視線を向けた。

「何が珍しいものか。私だって星ぐらい見るさ。それとも君は、私が本にしか興味の無い変人だとでも思ってたのかい」

 違うんですか? とは流石に言えず、

「いや。そういった趣味もお持ちなんだな──と。意外でした」

「趣味って程でも無いのだけどね」

 と言って、先輩は再び上空を見上げた。

「ふむ……。やっぱり、たいして星は見えないな。大気が霞んでいるからか。それとも視力が落ちたかな」

「そりゃ、毎日あんだけ本読んでりゃ視力も落ちますよ。ああ、でも先輩、眼鏡とか掛けてませんよね。目は良い方なんですか?」

「どうだろうな。普通だとは思うけど、子供の頃から視力検査で正解を外した事は無いな」

「て事は、余裕で二・〇は有るって事ですね……」

 無駄に凄え。くれよ。その無駄視力。

「ふむ。今日は月が良く見えるぞ。満月だ。ところで君は、どうして月が大きく見えたり小さく見えたりするか知ってるかい」

 えらく唐突な質問だな。でも確かに不思議だ。今まで考えた事も無かった。

 ええと……。

「それは……月が地球の周りを楕円軌道で廻ってるからじゃないんですか? 地球に近付いた時に大きく見えるっていう」

「確かに月の軌道は真円では無いから、それも不正解ではない」

「じゃあ、正解は何なんですか」

「それはもう少し自分で考えてみたまえ」

 そう言って先輩は持っていた本に視線を落とした。

「それより君は、この部屋の様子を見て何か気付かないか」

「え?」

 僕は部屋を見回す。特にいつもと変わらない、本に浸食された異常な部屋だった。異常ゆえに正常だ。

「特に変わった点は見つかりませんけど……」

 先輩は、やれやれという風に首を振った。

「相変わらず君は鈍いな。美少女に囲まれて暮らすハーレム少年漫画の主人公並に鈍い」

 どんな例えだ。

「そうだな……」

 先輩は顎に手をやる。

「君の部屋に本棚は有るかい」

「そりゃ有りますよ。先輩程じゃありませんけど、僕も本は読みますからね」

「では、その本棚から百冊の本が無くなっていたら、君は気付くかい?」

「そんなに無くなってりゃ当然……あ」

「気付くのが遅い」

 先輩は文字を目で追いながら言う。僕は改めて部屋を見回した。

「本が減ってる──んですか?」

「そうだよ。細野君に借りていた漫画を返却したのと、あとはガサツな女に借金のカタとして持って行かれた」

 ガサツな女──とは、先日この部屋に踏み込んできた女性の事であろう。

「ああ、あの人ですか。誰なんです? 細野の奴とも知り合いみたでしたけど」

「私の同期生だよ。全くあの女ときたら、借りた時は『返すのは、いつでも良いから』とか言っておいて、自分が金欠になるとあのような暴挙に出る。全く、度し難い無神経ぶりだ」

 詳しい事情は知らないにしても──、

「それは、借りた金を返さない先輩が悪いんじゃないですか?」

 すると先輩は本から視線を上げ、顎の下に軽く握った手を添えて上目遣いに僕を見た。漫画だったら顔の横に『うるうる』というオノマトペが丸っこいフォントで書かれているだろう。

「君までそんな事を言うのか? 私は悲しいぞ。私にとって本がどれほど大事なのか君なら知っているだろう。嗚呼。あの本達が何処の誰とも知らぬ人間の手に渡って弄ばれているかと思うと、私の胸は張り裂けそうに痛むよ」

 言いながら先輩は己の胸を鷲掴みにした。健全な大学生男子には、いささか扇情的な絵面だ。

 やがて先輩は煙草に火を点け、ふう、と外に向かって煙を吐きながら窓の外側に張り出した手摺に凭れかかり、あーもう最悪だよ信じられないお腹空いた──と、ぶつぶつ漏らし始めた。

 ブリっ子モードから一変、完全なる、やさぐれモードである。

 人格の切り替えが早すぎて、付いていくのに苦労してしまう。

「そんなに貴重な本だったんですか?」

「ん?」

「いや。先輩がそこまで言うくらいだし、それに借金のカタに取るくらいだから、貴重な本なのかなって」

「貴重って事は無いぞ。ひと山いくらの中古本だしな」

 再び人格を切り替えた先輩は、煙草を咥えたまま読書に戻る。

「そう──なんですか?」

「うん。そもそも、この部屋にそんな高額な希少本は無い。当然だろ。一冊何万円もするような本なんか買えるか。稀に初版だというだけでとんでもない値段が付く本が有ったりするが、あれは私に言わせればナンセンスだね。大事なのは内容だ。内容さえ同じなら、私は何刷だろうが復刻版だろうが中古本だろうが関係ない」

「なら先輩。電子書籍に切り替えたら如何です。あれならデータだから部屋がこんな風に占領されることも無いでしょう。それ以前に危険ですよ。地震が起きたらマジで先輩、生き埋めになります。てか、圧死します」

 実際、僕はつい最近この部屋において、崩れてきた本によって昏倒するという目に遭っている。

 人生初の気絶体験がゲームの攻略本による頭部殴打など、悲惨を通り越して滑稽でしか無い。

それでも。

 被害に遭ったのが先輩じゃなくて僕で良かった──等と思うのは、ヒロイズムに酔った若者の妄言だろうか。

 でも──。

「ああ。君なりに私の身を案じてくれているのだね」

 ありがとう、と微笑む先輩は、やっぱり危なっかしくて放っておけない。

「しかし、だ。矢張り電子書籍にする気は無いよ。まあ、世間的にはいずれそちらが主流になっていくのだろうが」

「だって、問題なのは内容なのであって、スタイルは関係無いんでしょう?」

「あれはまだ、現状ではハードもソフトも未熟だ。過渡期なのだから仕方ないのだろうけどね。そしてそれ以前に、私は本という物が好きなんだ。匂いや重みやページを捲る時の指先の感触がね。結局の所、読書は趣味なのだから、あまり利便性や合理性は関係無いのだよ」

「流石はビブリオマニアって感じですね」

「ビブリオマニア、ねえ」

 先輩は煙草を咥えながら、ふんっと鼻を鳴らした。

「あのガサツ女も私の事をそう呼ぶがね、私ごときがビブリオマニアなんてキャラを冠しては、移動図書館と呼ばれる図書委員長や、九十万と六百六十六の幻書を抱く読姫や、古本屋を兼業する憑物落としの神主に叱られてしまうよ」

「何処の誰と比較してんのかは分かりませんが、僕なんかと比較すれば充分にビブリオマニアですよ」

「比較、ね。そう。単純に比較の問題だ」

「紙の本と電子書籍なら紙の方が好きって事ですか? その人なりのコダワリってやつですか。まあ、気持ちは分かりますけどね」

「人間というのは、あやふやで矛盾しててブレて揺らいでるものなのさ。だから個性があって、だから面白い。さて──」

 先輩は本をぱたんと閉じる。

「答も出たところで今日の本題に移ろうか」

「そうですよ。どうして僕を呼び寄せて……ていうか、答って言えば、月が大きく見える理由の答を教えてもらってません」

「だから、それはさっき言っただろう」

「さっき言ったって……え?」

「鈍いなあ。君は本当に鈍い。登場人物が殺され尽くしてから犯人を言い当てる推理小説の探偵並に鈍い」

「流石にそんな推理小説はねえだろ! ……じゃなくて、答は言ったってどういう──」

 ああ……。

「……そういう事か」

 流石に気付いた。我ながら鈍い。先輩に揶揄されても仕方が無いだろう。

「気付くのが遅い」

 先輩はニヤリと微笑みながら言った。

「比較の問題──ですか」

「そうだ。月が大きく見えたり小さく見えたりするのは、単に比較の問題。月が低い位置にあると、周囲の建物や景色との比較で大きく見える。逆に高い位置にあると、空には瞬く星々以外に比較する物が無いから小さく見える。ようは目の錯覚。ひいては脳の認識が起こす錯覚だ」

「錯覚……」

「子供の頃、理科で習わなかったかい? 嘘だと思うなら、定規でも持って月の大きさを測ってみたまえ。たいして大きさは変わって無いのが分かる筈だ。それぐらい人間の認識なんてのは、あやふやで矛盾しててブレて揺らいでるものなのさ。例えば、二百冊しか本の入っていない本棚から百冊減ったららすぐに気付くが、一万冊の中から百冊減っても、なかなか気付かないようなもの。分子の数は同じでも、分母の数によって人の受ける印象は大きく変わるのさ。そもそも、大きい小さい。多い少ない。重い軽い。長い短い。優れる劣る──そういった概念は、あまねく比較対象が在ってこそ成り立つものだからね」

 やれやれ。会話の中にヒントは有った訳だ。親切なんだか意地悪なんだか分かりゃしない。

 それこそ、他と比較しなければ。

 そして、するつもりも無いけれど。

「先輩の高説は至極ごもっともですよ。どうぞ僕を愚鈍だと詰って下さい。それで、今日呼び出した理由は何なんですか?」

 僕が肩を竦めて言うと、読子先輩は煙草の煙を上空に向かって細く長く吐き出して、灰皿に煙草を押し付けた。


「ほら。今日はこんなにお月さまが大きく綺麗に見えるから、風流に月見酒でも一緒にどうかなって思って」


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