世界の終わりとメメントモリ(怖)
「エンジン、本当に駄目なのか? 他の車は? 連絡は?」
立て続けに加賀美刑事の質問が飛ぶ。狭い車内でその声は乱反射して、息遣いまで両の鼓膜にまとわりついた。それらの質問にろくな答えが返ってこないことは、夢に片足をつっこんだままの緩慢な思考回路でも容易に予想がついた。
ガサゴソと衣服が擦れる音がして、
「駄目です。携帯も、で、電源が入りません」
「くそっ! いったい何が起きている……」
加賀美刑事の苛立ちの声が続いた。
ここはどの辺りだろうか。僕を眠らせてどこかへ移送する途中だったのだろう。
線路の下に入り込む直前の景色は見覚えがあった。いつもの通学路かもしれない。であれば学校からはそんなには離れていないはずだ。
「わ、私が一度、外を見てきます」
声と共に、カチ、と運転席のドアロックが外れる音がした。
「おい待て、待て、待て。ここに居ろ」
「いや、しかし……」
視界のフロントガラスを遮るように、助手席から横に腕が伸びていた。
「わかるだろ、私独りでお守は嫌だからな」
そう言って、加賀美刑事がこちらを振り返った。暗くて表情は良く見えない。
「おい、妙な考えを起こすんじゃないぞ」
妙な考え……。
僕はただ、コハルを守りたいと……。
その決意を思い出し、意識が徐々に覚醒していく。
そうだ。逃げるんだ。コハルを見つけなければ。
今が一番のチャンスなんじゃないのか。
前の席ではエンジンがどうとか、無線がどうとか、不毛な議論が続いている。互いにもっともらしいことを言ってはいるが、要は一人でここに残りたくないのだ。かといって二人して外に出て、僕だけを残すわけにもいかないのだろう。
まだ自由の利く足でそっと後部座席のドアをなぞった。開けられそうな感触はない。おそらくロックも、後部座席は内側からは外せないようになっているのだろう。窓も外から金網が張られ、とてもじゃないが破れそうな気がしない。
後ろはどうだ。身体を起こして振り返ると、座席の後ろは何も置かれてはいないものの、跳ね上げ式と思しきバックドアの四角い窓はやはり同様に金網で補強されていた。
拘束された両手の枷がもどかしい。
何か良い手はないものか、冷静さを取り戻そうと目を閉じたその時、
ベチャベチャ――
ペンキをこぼしたような湿った音をフロントガラスが発した。
思わずぎょっとして目を見開く。
前の二人も同じ心境だろう。議論を宙ぶらりんにしたまま、しんと押し黙って前を向いている。
雨の音はやはり遠く、先に赤く光る四角い出口が、今はチーズの穴のように欠けて見えた。
フロントガラスが汚れているのだ。
「おい……今のはいったいなんだ」
「わ、わかりません」
「くそ、暗いな。明かりが欲しい」
運転席の警官がガサゴソと身をまさぐる。
「懐中電灯も駄目みたいで……」
「いや待て、さっき被疑者から取り上げたろうそくがあるだろう」
その言葉で、僕は太もものあたりに意識を向けた。
……ない。カズハにもらったろうそくの最後の一本、それとマッチ箱が。
「でも、大事な証拠品じゃ……」
「ただのろうそくだ。そんなことを言っている場合か。……くそ、湿気って火がつきづらいな」
その間に加賀美刑事はすでに火を起こそうとマッチを擦り始めていた。
もう片方の警官も、ろうそくを片手にその様子を見つめている中で、
ベチャベチャベチャベチャ――
またフロントガラスから不気味な音がした。
「くそっ、なんなんだ、いったい……」
ジ――
震える声と同時にマッチに火がついて、ろうそくにも火が移る。
二人はそれぞれの火をフロントガラスに近づけて、
「ひ、あ、うわああああああああっ!!」
「ああああああああああっ!!」
ほぼ同時に叫んだ。あごが外れそうなほどに、大口を開けて。
そこにあったのは無数の血の手形だ。
まるで餌に群がる蟲のようにびっしりと、真っ赤な手の跡がフロントガラスを埋め尽くしている。
「あーっ、ああーっ、ああああああっ!!」
運転席の警官はたまらずドアを開け、叫びながら外へ飛び出していった。
「おいっ! 待て! 待てったら! 待ってくれええっ!!」
加賀美刑事も反対側から後を追う。
独り残された車内で、僕は「ハッ、ハッ」と荒れる息を整えて、揺れる思考の舵を取った。
今のはなんだ。何かが、この車の外にいる?
だとすると、車外に出るのはまずいんじゃないか。
だけど、それじゃあずっとこのまま?
僕はコハルを助けに行かなければ……。
そこで不意にツンと鼻腔が嫌な臭いを拾った。
何かが……燃えている……ろうそくだ!
金網越しに前の座席を見ると、放り出されたろうそくがクッションに残っていて、小さく火の手が上がっていた。それがメラメラと育っていき、次第に灰色の煙を放ち始める。
今はまだ小さなボヤに違いないが、金網で遮られて手も足も出せない。このままじゃ車の中で火事になる。
「冗談じゃないぞ」
ガンッ、ガンッ――
全力で金網を蹴破ろうと試みるも、わずかばかり凹んだだけでとても外れそうには思えない。
今度は顔をめいっぱい近づけて息を吹きかけてみたが、むしろ火の勢いが増しただけのような気がした。
いよいよ座席の革製のシートにまで火が広がっていく。薬品が混ざったような刺激臭が一層濃くなってきた。顔面がちりちりと熱を感じ、目が沁みて、涙がこぼれる。
ガンッ――
また金網を一蹴り。
すでに火はクッションを飲み込むように広がって、橙色の炎をまといだしていた。
「こんな訳の分からない死に方はごめんだ」
蹴り足に力がこもる。が、くらりと、意識が飛びかけて、慌ててそれをたぐり寄せた。
一酸化炭素。
恐ろしいのは熱や炎だけじゃないのだ。このままじゃまずい。
後部座席を芋虫のように乗り越えてバックドアへ。金網が映る窓ガラスを足裏で蹴った。ドン、ドン、と鈍い音が鳴る。繰り返し、繰り返し。
「誰か! 誰かいませんかああ!!」
大声をあげ、反動で深々と煙を吸ってしまい、ゴホゴホとせきこんだ。
誰でもいい。加賀美刑事でも、何でもいいから、誰か来てくれ。
再度その分厚いドアに蹴りを見舞った、その時だった。
ガキン――
金属が割れるような音がして、窓の外を素早く黒い影が横切ったような気がした。
ゾクリと心臓が縮みあがって後ずさる僕を、分厚いバックドアは気にも留めず、音もなくわずかに持ち上がる。足元に隙間ができているが見えた。開いたのだ。
ドクン、ドクン……。
さっきまであれだけ望んでいた外への脱出を今度は心臓が嫌がっていた。
しかしそれも一瞬で、首筋にチリチリと熱を感じ、視界がどんどん灰色の煙に塗りつぶされるのを目の当たりにして、転がるように車外へ躍り出る。
そのまま休む間もなく立ち上がり、すぅ、と胸いっぱいに空気を吸い込んだ。ようやく目が冴えて、右、左、そして上、あたりを素早く見回す。
何も……いない?
予想に反して、黒い身体の化け物も、触手の怪物も、何も見つけることができなかった。逃げていった加賀美刑事達の姿も見えない。
振り返ると、僕を乗せていたバンの内部はすっかり灰色の煙で満ちてしまっていた。もう、本当に逃げるしかない。
四角い出口を抜けると、赤い雨が強風に乗って襲い掛かってくる。
それを全身で受けながら、
同じだ。
そう思い浮かべて、走り続けた。
警察署から逃げる時も、何者かによって入り口が壊されていた。
何かの意図が働いているとしか思えない。僕を逃がしてどうしようというのだろう。
考えても考えても、先ほどまでの車内に閉じ込められていた時の圧迫感のような、収まりのつかない気持ち悪さしか生み出されてこなかった。
オオオオオオオオオオオオ――――――
不意に、地鳴りのような重低音が、空全体から覆いかぶさるように響いてきた。それは空が、あるいはこの世界が泣き叫んでいるようにも聞こえた。どこから発せられているのかはまるでわからず、ただ僕は逃げ惑って、公園にたどり着き、雨風をしのげそうな遊具のなかで小さくうずくまった。だけど、その音はどこまでも鼓膜を揺らし続けて、僕はただただじっと耐えるしかない。
手錠のせいで耳を塞げないことが、今はこの上なくもどかしかった。




