暗澹のアザーサイド(二)
一葉と大地の時が止まった。
その言葉は完全に二人の予想の範疇を越えていたのだ。
二階からは何の返答もない。
当然だ。……いや、それは本当に当然なのか。
「あらあら、あの子、何やってるのかしら……」
藤崎茜は、口元に手をあてて二人に向き直る。
「それにしても酷い雨ね。大変だったでしょう。タオルを出すわ。さ、上がって」
促されて、一葉がゆっくりと玄関に向かい、傘をたたむ。
大地もそこでようやく呼吸を思い出して、後に続いた。
茜は「お茶を用意するわね」と台所へ向い、玄関に残された二人は濡れた脚と通学カバンをタオルで拭きながら小声で話し始める。
「……ねえ、どういうこと?」
「俺だってわっかんねえよ。アヤコは間違いなく死んでる。葬式だって出たんだ」
二人はどちらからともなく階段の先を見上げて、大地を先頭に慎重に登り始めた。
喉奥がひりつきそうな程に無言のままで、階段の小窓が風でカタカタと揺れる。
「奥の部屋だ。左側……」
大地が指さした部屋の木製のドアには白い楕円のネームプレートが掛かっていて、踊るような桃色の『綾子』の二文字が並んでいる。
コンコン――
「アヤコ、俺だ。大地だ」
返事はない。
二人の間で軽い目配せが起こり、
「入るぞ」
ガチャ、と控えめな音に続いて、恐る恐る大地が顔を覗き入れる。
奥行のある細長い部屋は、足元は赤白の可愛らしい花柄のラグが敷かれ、左の壁には桃色のシーツのベッド、右の壁には本棚と檜の勉強机が置かれており、それらの至る所にウサギやクマなどのぬいぐるみが仲良く座っていた。
奥の大きな窓からはベランダに出られるようで、レースのカーテン越しに雨が横殴りに降る様子が確認できる。
「誰も……いない?」
大地の言葉の通りだった。暖色で彩られたその部屋は埃一つない清潔さで、今まさに誰かが暮らしているような生活臭を漂わせながら、それでいてその主の痕跡を何一つ残していなかった。
「そうみたいね。……ほら、見て」
一葉が勉強机に歩み寄り、置かれている教科書を指さす。
「中三の内容よ。時間が去年で止まってるみたい」
「そういう……ことか。茜おばさん、アヤコが死んで、相当落ち込んでたから……。いや、そうだよな、大切な人の死って、それぐらいの……」
再び重い沈黙が二人の間に忍び寄る。
大地が何かを噛みしめるように俯いた。それは同じく幼馴染を亡くした無念だったのかもしれない。
「……アヤコって、久々に呼びかけたな」
その言葉に一葉は何も応えられず、瞳も微かに左右に揺れていた。
そこへ、
「はーい、お茶、持ってきたわよ」
藤崎茜がいつの間にか音もなく二人の後ろに立っていた。運ばれてきたトレイにはしっかり三人分の麦茶のグラスが乗っている。
「……あれ、アヤちゃんは?」
振り向いた二人の顔が緊張でこわばった。
眼前で、茜の顔が邪悪に変異していく。にこやかだった表情が、一瞬にして水を吸い出された糸瓜のように無数の皺が眉間に集まり、しかしそれでいて両目は刃物の切っ先の鋭さで二人を睨みつけ始めた。
「アヤチャンハ……ドコ?」
毒々しい、どす黒い声だった。
「と――」
一葉が咄嗟に、
「トイレに……」
と、かろうじて震えを抑えた声でドアの先を指さすと、
「………………」
数秒の沈黙の後、茜はお面を取り換えたがごとく元の温和な表情に戻り、
「なあんだ。もうアヤちゃんったら、お友達が来る前に済ませておきなさいよねえ」
そう言いながらトレイを机の上に置いて、陽気に階下へと戻っていった。
「茜おばさん、ほんとに大丈夫かよ……。寒気がしたぞ」
大地が二の腕をさする横で、一葉も額の汗を拭っている。
だが、すぐに気を入れ替えた彼女は部屋のドアを閉めると、学習机の一番長い引き出しを何のためらいもなく開けた。
中は薄紅色の学習ノートが敷き詰められていた。所々黄ばんでささくれ立っている。
幾つか手に取ってパラパラとめくると、綺麗な字で書かれた数式や英文の添削が定規で引かれたように乱れなく並んでいた。
「お、おい、そんな乱暴な……。やばくないか? 見たろ、さっきの」
「あの様子なら、きっとこの部屋は一年前の状況のまま。むしろ、調べるには都合がいい」
「調べる?」
「自殺の時の、心理状態とか」
「……マジかよ」
大地のしかめっ面を背中で受け流しながら、一葉は足元の一番大きな引き出しに手をかける。
ガラリと開いたそこには、ボビンや裁ちバサミなどが行儀よく置かれていた。色彩豊かな刺繍糸も濃淡の順に並べられている。
「裁縫用具……」
「ああ……あいつ、ぬいぐるみ作るのが好きでさ。そこのウサギとか、全部アヤコの自作だよ。うまいもんだろ」
机の上の白ウサギと一葉がじっと目を合わせる。赤い、つぶらな瞳と丸っこい頭や耳はきちんと縫い目が隠されていて、売り物だと言われても遜色ない代物だ。
振り返って訊いた。
「違和感……ない?」
「え?」
一葉は別の引き出しを開けながら尋ねる。
「他に、その子が習慣にしていたこととかない? 趣味とか……」
「そうだな……」
大地はあごに手をやって、やがて、
「そういえば、あいつ、日記……つけてたはずだ」
「日記? SNSで?」
「いや、それが自分の中にだけ留めておくとかで、紙で。俺も今まで一度も見たことないけど」
ガッ……
袖机の一番上の引き出しが拒絶の音を発した。鍵がかかっている。
一葉が大地を見上げた。即座に大地は首を振る。鍵のありかなど知りようがない。
大地の話が本当であれば、そこに何があるかは明らかだった。一葉にとっては喉から手が出るほどの情報に違いない。
決意とも諦めともつかない溜息とともに、彼女はその下の引き出しを全開にして取り外しにかかる。
ぽかんと口をあけた大地に、
「談笑でもしてて」
そんな無茶な要求を短く言い切って、バッグの中から何かを取り出した。ピン、と弾かれた五センチほどの刃が無機質な光を放つ。十徳ナイフだ。
できた空洞から、鍵付きの引き出しの薄い底板へと刃を突き立てる。
ギッ、という音と共に大地の顔が青ざめた。実際、心臓が縮んだような音だった。
「ちょ、おい、マジか」
慌てる大地を気にする様子もなく、ナイフは繰り返し丁寧に突き刺さされ、一葉の非力をもってしてもあっさりと底に小さな傷口が開いた。そして一葉は躊躇なくノコギリの刃に取り替える。
ギギッ、ギギッ、ギギッ……
外の雨音にはどうしても混ざりようのない、異質な音が室内に響き始めた。
流石にこれはまずい。
「あっはっはっはっはっ!! あーっはっはっはっはっ!!」
他に方法が思いつかなかったのか、大地が大笑いを始めた。その音に覆い被せるように。
始めは、ここが劇場であれば大根役者だと蹴り出されそうな、乾いたハリボテの笑いであった。だが、
「ほんと、アヤコとこうやって話すのも久々だよなあ! 最近はなんとか授業にもついていけてるよ! 前はノートを見せてもらってばっかりだったよな! 俺、ずっと頼りきりでさ! ろくにお礼も言えないままでさ、ほんと……俺……バカだなって……」
そこで大地はグスリと鼻をすすった。
一葉は構わず、今度は九十度角度を変えて削っていく。
「あ……あと、ずっと、謝りたかったんだ! 一年前……あれ以来、口をきけていないんだけどさ! 一年前のあの時、お前を見て、俺が周りに相談しちまったんだ! 警察に言ったのも俺だ! 気付いたら噂が一気に広まってて、それで俺、怖くなって……。ちゃんと話を聞けばよかったんだ! 橘がさっき言った通りだよ! こんなぬいぐるみ作るようなやつがさ、そんなことするわけがねえのに! だけど、ビビっちまって……全部、俺が悪いんだ」
ほとんど涙声でしゃがれていた懺悔は、
「本当に……ごめん……」
という最も素朴な謝罪の言葉で終わった。
それと同時に引き出しの底がベキリとへし折られ、ボトボトと中身が落ちてくる。
二人共しばらく動けなかった。
雨がベランダをバラバラとひたすら無機質に叩き続けている。
その中で一葉は、階段の様子に耳をそばだてているようだった。登ってくる足音はない。
「わりい……。変なこと、聞かせた」
大地がそう切り出すと、
「……ううん。ありがとう」
一葉は伏し目がちにそれだけ言って、落ちてきた一つをゆっくりと拾い上げた。
先程の学習ノートよりも一回り小さい、白い和紙の表紙に挟まれたリングノートだ。幾つかの小さなハートの切り紙が糊付けされている。
パラパラと捲られたその中身は、日付ごとに数行程度の体験談が綺麗な字で纏められているようだった。
一葉の眼差しが、鋭さを増した。




