惨劇の始まり(二)
僕らが入った途端、さっきまで喧噪が行き交っていた教室内が一気に静まり返ったのがわかった。教室にいる生徒は二十かそこらで、四十の瞳が一斉に僕の方を向いた。まさに針の筵、強烈な居心地の悪さを感じて、思わず生唾をごくりと飲み込む。
カズハだけが気にする様子もなく自席に向かって歩いていった。足音が教室内に響いて、それに促されるように僕も窓際の自席へと歩き出す。
教室中が僕を意識している。カズハには誰も目を向けない。
一歩ごとに緊張が増していく。握りこぶしに汗がにじんだ。
ちょうど席に着こうかというタイミングに合わせて、馴染みの顔が一つ前の席に逆向きに座って、こっちに声をかけてきた。
「よお」
知る限り最も簡素な部類の挨拶に、
「おはよう、ダイチ」
僕も挨拶を返す。少し声が上ずったかもしれない。
伊東大地、天を突くような短髪に彫像を思わせる端正な顔立ち、後は運動神経が抜群で、この前もいきなり陸上短距離の大会で入賞のトロフィーを校舎に持ち帰っていたりする。そんな奴が入学以来どうしてか、僕をよく気にかけてくれるのだ。
周りをチラリとうかがうと、まだ皆が僕をじっと見ていた。カズハの方にも何人か女子が集まっていたけど、カズハはあまり相手にしていないようだ。
「昨日休んでたみたいだが、大丈夫か? その、例の連続殺人に巻き込まれたって聞いたけど……」
ああ、そういうことか。もうその噂が学校にも広がってしまったのだ。それでよく話しているダイチが聞き役を買って出ている、と。
「うん、僕は大丈夫。ただ、死体を見ちゃって……それで気を失ったらしくてね、病院に運ばれたんだ。怪我はないから心配いらないよ」
僕がそう答えると教室内が少しだけざわついた。
「そっか、大変だったな。……ちなみに死体って、五十嵐のか?」
「うん……。見た時はわからなかったけど、どうもそうらしい」
そこまで言ったところで、もう一人の男子が我慢できないといった様子で足早に近寄ってきた。銀縁メガネの委員長、金久保学だった。金久保はダイチの肩に乗っかるようにして質問をぶつけてくる。
「五十嵐はどんなだったんだ!?」
「あ、えっと、どんなって……?」
戸惑う僕を見て、金久保は自分の質問が悪かったと思ったのか、少し居住まいを正して言い直した。
「その、五十嵐は……どんな風に殺されてたんだ?」
なんでそんなことを気にするんだろうか。少し気味が悪い。
だけど、金久保だけじゃなくて、目の前のダイチも、他の男子も女子も、固唾を飲んで僕の答えに注目している。なんだろう、この空気……。
「五十嵐は……頭がなかった」
やっぱり、マジかよ、信じられない、怖い……。僕の答えが再び喧噪を巻き起こす。みんなが思い思いの台詞で騒ぎ立て始めた、そんな中、
――アヤコノノロイ。
誰かがぼそりと呟いた。
騒がしくなりかけた教室で、不思議とその声は水面に広がる波紋のように行き渡って、誰もが示し合わせたかのようにぴたりとしゃべるのを止めた。
教室は再び静寂に落ちる。僕には何が何だかよくわからない。ただ、今の言葉が間違いなく教室中を恐怖に陥れている。金久保の顔は歪んだように引き攣り、ダイチは苦虫を噛み潰したような表情で僕から目をそらした。
「はっ、おもしれえ……。来てみろよ。返り討ちでボコボコにしてやるぜ。俺はもう十年は空手をやってんだ」
沈黙を破ったのはクラスで一番気性の荒い油屋勝巳だった。誰を相手に見立てているのか、教室の真ん中で袖をまくった腕で正拳突きを空気に見舞っている。
「アブッチそれマジでお願い。二人も殺したヤツならどうせ死刑でしょ。早く犯人みつけてやっちゃってよ」
その隣では制服を着崩した名取美香が気だるそうに煽りを入れていた。明るい色の毛先を少し長めの爪で弄りまわしている。
「くだらない」
僕の隣の席では、いつも冷淡な瀧川澄玲が吐き捨てていた。
「あ? 瀧川てめえ、今なんつった!?」
「あら、聞こえなかったの? くだらないって言ったのよ」
すごむ油屋に怯む様子もなく瀧川がふんと鼻で笑う。自慢のロングヘアーをかき上げるおまけつきだ。
油屋はますます頭に血が上った様子で瀧川に詰め寄ろうとしたが、慌ててダイチが「アブ、よせよ」と間に入る。
「タキも挑発すんな」
ダイチがたしなめると、瀧川も少しばつが悪そうにしてそっぽを向いた。
目まぐるしくアップダウンする教室のテンションに付いていけず、誰もが不安そうな顔を並べている。男子はポケットに手をつっこんだり、女子は胸のあたりを手で押さえたりして、近場の誰かと自分の冷静さを確かめ合っていた。
油屋はまだ収まりがつかない様子で何か言いたげだったけれど、タイミング良くそこで始業のチャイムが鳴って、担任の瀬尾先生が入ってきた。
油屋は不満気に「チッ」と舌打ちして、他の面々と同じように自分の席につく。
「全員出席ね、結構」
恒例の台詞といつものメンバーでホームルームが始まったのだけれど、教室の中の雰囲気はいつも通りとは程遠いものだった。間違いなくクラス中が例の事件のせいでピリピリしていて、何かがゆっくりと狂いだしていて、もう取り返しのつかないところまで来ているような気がした。
瀬尾先生からは、なるべく複数人で下校するように指示が出た。あとはマスコミに対しても取り合わないように、と。
さっき立てた予定には支障はないだろう。横目でちらりとカズハの方を見ると、カズハは前を見るでもなく左手でペンをくるくる回して、また一人で考え事にふけっているようだった。
「へえ、そんなことがあったの」
空き教室で弁当をついばみながら三人で話す。いつもの僕、カズハ、コハルの組合せだ。今朝のホームルーム前の出来事をコハルが興味深げに聞いている。
多くの生徒は自分の教室で食べるのだけど、クラスの違う僕らが集まるのは自然と空き教室に落ち着いた。春先のうちは他の人も混じっていたけど、ここ一ヶ月くらいは僕らだけになっていた。……ま、静かに食事ができるのはありがたい。
「でも、うちのクラスも同じかも。なんかぎこちないっていうか……」
コハルが独り言のようにこぼす。他のクラスが同じというのは、なんとなく想像ができた。
ただ、朝の出来事で一つだけよくわからないことがあった。その疑問を口にしてみる。
「あと、誰かが変なこと言ってたんだけど、ノロイがどうのって……。あれ、なんなのかな?」
「呪い?」
「うん。ナントカの呪いって聞こえた。あれは――」
「藤崎綾子」
カズハが鋭く言葉を差し込んできた。
「へ?」
聞き慣れない言葉に気の抜けた声が漏れた。
一人黙々と食べていたカズハは、もう綺麗になった弁当箱の蓋を閉じようとしている。
「クラスの子から色々と聞けたわ。刻中の女子生徒のことみたい」
「その子がどうしたっていうのさ」
「去年、自殺しているの」
カズハはさらりと言ってのけた。
僕とコハルの箸が止まる。自殺、そのどぎつい響きに一瞬のどが詰まりそうになった。
「命日が一年前の六月十五日……ちょうど一昨日よ」
それって、中学の先生が殺されたのと同じ日か?
「これ見て」
カズハがスマホで地図を見せてくる。真ん中に赤いポインタがついていた。
「線路の踏切のあたり。私達の通学路からも近いかも……。ここで望月先生は殺害されたらしいんだけど、ちょうどすぐそばでその藤崎って子が自殺してる。……もう一つ、当時その子は中三で、担任が今回殺された望月先生だった。五十嵐も同じクラスだったそうよ」
絵柄すらイメージ出来ていなかったパズルのピースが、二つ三つまとめてはまったような気がした。
アヤコノノロイ……そういうことか。同じ日付、同じ場所で起きた少女の自殺と殺人事件。そりゃ結び付けたくもなる。特に刻中あがりの生徒は気が気じゃなくなるだろう。ダイチ、油屋、名取、瀧川……確かあのあたりは軒並み刻中からの進学組だったはずだ。
「何より重要なのは、二人の殺され方よ」
珍しくカズハの説明も熱を帯びてきた。
「頭がなかったってやつか?」
「ええ、その子の最期と一緒なの。藤崎綾子はその日、線路に入り込んで寝そべった。頭をレールの上に置いた状態でね」
そこまで言って、いきなりカズハの手刀が勢いよく机の上を横切った。何を意味しているかは口で言うより明らかだった。
「うえ……」
隣でコハルが短くえづいた。
僕の箸先にはカズハが作ったミートボールが一つ残っている。残したくはないんだけど、どれだけ料理の腕があったとしても、今これは絶対に美味しくないという自信があった。
カズハが気付いて、その肉塊と僕の目をしばらく交互に見た。やがて少し気まずそうにして、ぼそりと言った。
「……ごめん」