俺との出会い
平成三十年十月二十六日――。金曜日のことだ。
今日も残業を終え電車に揺られ、特に変化のない毎日の繰り返しに飽きることもなく自分のアパートへ帰りついた。
安アパートはその名の通り、値段に納得ができるほどボロイ。……いまどき木造建築で瓦屋根のアパートなんてあるのだろうか。そんなことを考えながらギシギシとしなる階段を上がり、二階一番奥の自分の部屋へと入った。
薄い扉の中からは、当然だが誰も迎えてなどくれない。トイレも風呂も無く、ただ寝起きするためだけの狭い部屋。しかし俺は、この空間に親しみを感じ始めていた。
部屋中央の座卓にコンビニで買ってきた弁当を置き、スーツから部屋着に着替え、洗面台で顔を洗った。
今日一日の仕事疲れが顔全体を油膜と化して覆っているようで嫌になる。タオルで顔を拭くと、そのタオルからは生乾きの水臭さを感じた。
タオルを洗濯かごへと放り込むと、小さなテレビをつけて座った。
弁当を食べて缶ビールを飲んでいる最中に……誰かが来た。
もう9時をまわっている。
この時間帯に気の利いた客など来た試しがない。薄いベニア板のような扉をドンドン叩いている。
返事もせずにそっと扉に近づいた。扉は開けない。扉にある小さな穴から客人の顔を確かめた。
マンションなどにあるような広角レンズではなく、ただの穴だ。俺が勝手に穴を開けて作ったのだが、管理人が知ればあまり良い顔はしないだろう。
「どちら様ですか。あまり大きな音を立てないで下さい。響きますから」
その穴から見えるのは髪を金に染めた若い男。年は二十前後だろう。シャツをだらしなく着てその金髪ですらボサボサである。
断言できる。
知人ではない。
しかし、その男は俺を知っているようだ。堂々とこう言ったのだ――。
「やったぞ、喜べよ! 脳と肉体の完全支配に成功したんだ。とりあえず中に入れてくれ」
……意味が分からない。
俺はそんな男を中に入れる理由を持たない。変な奴をどうやって追い返そうか考え始めていた。
「まあ、驚くのは当然かもしれないが、俺だってどうしていいか困ってるんだ。とりあえず信じて入れてくれよ」
なにをどう信じろというのか……。
「そうはいかない。君は部屋を間違ってるんじゃないか?」
そう答えても、その男は表札を確認すらしない。
「馬鹿なこと言うなよ。俺は東条一。二十二歳独身。去年の四月から株式会社E―フィルムに入社して営業二課で毎日クレーム対応に追われている。入社して半月は会社の寮に入っていたが、不具合があってこのアパートを借りた。その不具合とは……」
そこまで話した時、少し扉を開いた。
「――なぜ俺のことをそこまで知っているんだ。いったいどうやって調べた!」
男は話を止めて少し笑って答えた。
「だ~か~ら、俺はこの体を乗っ取るのに成功したんだって。当然、お前と同じ記憶があるに決まってるじゃないか」
なんなんだこいつは?
新しい詐欺の手口か?
怪しい物でも持っていないかその男を見ていると、その男は自分の後ろに置いていた大きめの旅行鞄を持って部屋の中に強引に入ろうとした――。
「ちょっと待て、誰が入っていいと言った!」
扉のノブをしっかり握ってそう警告する。男は一つため息をついた。
「……じゃあさあ、なんでもいいから一つ質問を出してくれ。絶対に自分しか知らないやつを。もし俺がその答えを解答できたら、とりあえず入れてくれ。もし答えられなかったら帰ってやる」
少し考えたが、……いいだろう。誰に何を聞いてここにやってきたのか知らないが、こいつが絶対に知らないことを聞いてやる。
少し不敵な笑みを浮かべて言ってやった。
「では問題です。俺が一歳の時にした火傷の痕が今もあります。さあ何処でしょう?」
いくらなんでも……一歳のことまで調べようがないだろう。
なんせ……問題を出している俺ですらその時の記憶はないのだ。
――しかし、その男は懐かしむように天井を見上げながら呟くように言った。
「そうそう、火傷したんだよなあ。しかもカップラーメンを全身に浴びて。すぐに風呂場へ連れて行かれて、冷たい水をかけられてから病院で処置してもらったが、右腕にカニみたいな火傷の痕が残ってしまったんだよなあ。……しかし、それは俺の記憶じゃないだろう。親から聞いたものだ」
俺は……空いた口が塞がらなかった。そこまで知っているのは俺の家族だけだ! いや家族ですらもう忘れているかもしれない。
男は立ち尽くす俺の横をすり抜けるように狭い部屋へと入った。