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異世界症候群

作者: quiet



「って何すか?」

「さあ」


 さあ、って何すか。

 

 東京。

 華やかなオフィス街。

 のさらに奥。

 の奥。


 太陽に見捨てられたようにじめじめと湿気の立ち上る、古臭いビルの一室に、金髪の青年と、波打つ長髪を一つ結びにした眼鏡の男がいた。

 眼鏡の男は薄暗い部屋の中、デスクに腰かけ、わずかに窓から差し込んでくる光を蛍雪のようにありがたがって、雑誌を片手にクロスワードパズルを埋めている。

 金髪の方は、A4サイズの紙ぺら一枚を片手に、デスクの前に立っている。困ったように眼鏡の男と紙の間に視線をさまよわせながら。


 その紙には、こんなことが書いてあった。


『業務命令


 <異世界症候群>を調査せよ!!』


「いっつも思うんすけど、社長はどこまでふざけてんすか?」

「人生なんておふざけもいいとこだよ」

「オレを巻き込まないでほしいんすけど」


 社長と呼ばれた男は、そんな抗議も気にせずに、鉛筆で雑誌に書きつける。縦のカギ17、だんし○○で気持ちもすっきり転換! だんしんぐ。


 金髪青年は髪をかきながら言う。


「いや、まあ給料貰えんなら何でもいいっちゃいいんすけどね。でもちょっとくらい内容教えてくださいよ。間違って全然別のこと調べちゃったらアホらしいじゃないっすか」

「ならば私が全然別のことを調べたとしても給料を払うと言ったなら……、君は、どうする?」

「大歓迎っす。早く言ってください」

「いやだね。そんな無駄金はここにはないよ」

「ひっぱたくっすよ、社長」


 青年はポケットからボールペンを取り出し、紙をデスクの上に置いた。それから腰を折って紙面へと向かう。


「ほら、さっさと言ってください。オレ、再来週から大学の試験期間入るんで、ちゃっちゃか片付けたいんすよ」

「ならば私が君の代わりに大学の試験を受けると言ったなら……、君は、どうする?」

「どうもしねーから。早く言えやおっさん」

「誰がおっさんかね」

「中年男性」

「……やっぱりおっさんの方にしてくれ」


 はあ、と溜息を吐いた社長は、たるみを気にするように顔を擦りながら、話し始めた。


「異世界症候群というのはだね、ここ最近流行りの都市伝説だよ」


 都市伝説、という言葉に青年はわかりきっていたように頷いた。


「どんな都市伝説なんすか?」

「何でもね、ある日突然人が入れ替わるらしいんだよ」

「入れ替わる?」

「ああ。目の前で話していた人間が、急にハッと夢から覚めるような顔をしたかと思うと、こう言い出すんだそうだ。


 『ここはどこだ?』


 ってね」

「ふうん、それだけ聞くと、ただの記憶喪失みたいっすけど……、いや、ただのって言い方もおかしいか」

「まあ聞け。それだけじゃないんだよ。それでね、貴戸(たかど)くんみたいに周りの人間も考えて、病院で聞き取りを受けさせたりするわけだよ。すると妙なことにみんな今度はこんなことを言い始めるんだ。


 『俺は誰だ?』

 『ここはどこなんだ?』

 『俺は違う世界から来た』


 で、噂はこう続くわけだよ。――異世界から来た精神体に、身体を乗っ取られたに違いない、ってね」

「ああ、なるほどそれで」


 貴戸は紙に『別世界の示唆』『記憶の混濁?』と書きつける。


「この話、出所はどこなんすか?」

「匿名掲示板だね。今ちょうどいいネタがなかったからさ。貴戸くんのいいように作ってくれよん」

「いつも通り真偽問わずっすね。りょーかいっす。あとでURLだけ送ってください。一応方針としては、デマだったらおどろおどろしく、マジだったら相手に配慮して軟着陸ってのを想定してるんすけど、どーすかね」

「オッケーオッケー。そのへんのバランスは任せるよ。君の方が私より社会性が高いだろう」

「採算怪しいオカルト雑誌の発行社長より社会性の低い人、この世にいるんすか?」

「君はまだ社会の闇を知らないな……」


 別に知りたくねえっす。


 素っ気ない返事だけ残して、貴戸は<インセイン雑誌社>と書かれた部屋を後にした。



*



「さてと」


 一時間後、貴戸は自分のアパートの部屋に戻って、PCを立ち上げている。

 メールボックスをチェックすると、すでに社長からURLは送られてきていた。アドレスを確認して、それが大手匿名掲示板のものであることを確認したのち、開く。


「あー、やっぱこの手のか……」


 貴戸は一人、呟きを残す。

 その掲示板内のスレッド名は、『異世界に行ったことあるやついる? part.3』。


 遡って流れを見てみると、初めはスレッドを立てた人物の体験談から始まり、やがてそれが一段落すると、別の掲示板参加者たちが自身の体験、伝聞と称して異世界にまつわる話を書き込んでいた。


 件の<異世界症候群>の話は、その三つ目のスレッドの途中から始まっている。


 確かに、おおよその筋書きは社長から聞いた通りだった。

 しかし貴戸が気になったのは、


「随分報告が多いな……?」


 一つの伝聞報告を皮切りに、次々に『俺も俺も』と情報が集まってくる。

 軽く三十を超える数だ。それゆえに、この一つの報告が<異世界症候群>というワードに結び付いたようであるが、


「んんー……?」


 デマかな、と貴戸は呟いた。


 あまりにも報告が多すぎる。

 この手の流れは、大抵の場合面白がった便乗が多い。オカルト話をする人間には二種類があり、真剣に信じ込んでいる者と、噂を作ったりするのが好きな者。大抵の場合は後者の方が多い、というのが貴戸の感触だった。


 今回もそのパターンだろう、と考えた。

 一つの体験談に、類似例を重ねることで信憑性を与える、というのはごくありふれた方法だ。


 たとえば、幽霊を見た、と誰かが言ったとする。

 そのとき、面白がって関係のない他人が『俺も見た』と言えば、それらしさは段違いになる。


「まあ、でもこんだけあると逆に怪しいかな……」


 さて、どうしたもんか、と貴戸は考える。


 匿名掲示板上がりの都市伝説はいまいち取材がしにくい。

 というか仮に場所がわかったとしても、そんなに取材費を出してくれるような社長が相手ではない。


 となると、いつも通り十点満点中七点くらいの文才を発揮して創作トンデモ怪談に落ち着けてしまうか。


「それが妥当なとこかな」


 うん、と頷く。

 決まりだ。


 後続はともかく、最初の報告が真偽不明である以上、あまり過激なのはよくない。

 と、するなら後続情報のうち、一つにフォーカスした体で書き出してみて……。


 文章ソフトを立ち上げて、貴戸はキーボードを打ち出した。


『<異世界症候群>――。


 巷を騒がせるこの都市伝説。

 無論、我らインセイン雑誌社が見逃すはずもない! 社は総力を挙げて事件の調査に乗り出した。匿名掲示板由来の噂に悪戦苦闘する中、一つの電話がデスクに鳴り響く――。』


「うさんくさ」


 貴戸は自分の書いた文章を半笑いで眺めながら言う。


「舞台は――、東京でいいか。やっぱりわかりやすいし。引っ付ける別ネタはとりあえず虚舟(うつろぶね)あたりかな……、ウケいいし。都内にどっか虚舟に関係する話があるとこは……、」


 かたかたと検索サイトを叩く。

 『虚舟』『虚舟 東京』『虚舟 江戸』――。


際上(さいじょう)市――、ってどこだっけ。……うーん、あ、ここだけ区じゃないんだな。いいか、ここで」


 それから自身の居所から際上市までのルートを検索し、


「片道三百円……」


 『際上市 ラーメン』で検索し、


「……行ってみるか」


 そういうわけで、駅へと向かって行った。



*



 際上市は、東京都内、海沿いでありながら特別区の指定を受けていない唯一の自治体である。

 その理由までは貴戸の知るところではないが、大学同期らの口ぶりから『ド田舎』『割と不便』『え? 都内だったの?』というような扱いを受けている土地である、ということは知っている。


「結構美味かったなー」


 が、実際に際上駅に降り立ってみた貴戸の印象は違った。

 自身の地元である地方都市とは、やはり比べ物にはならない。駅は広くて綺麗だし、駅前のラーメン屋は期待以上の味だった。


 街並みには確かに渋谷や新宿のような高層ビル群はないけれど、どこが歩道でどこが車道だかよくわからない雑然とした様子には、やはり都会の感を受ける。やや視界が開けている分、むしろ開放感を与えられる景色だった。


 貴戸は思う。

 さっきのラーメン屋美味かったし、いい感じに時間潰して、帰りも食べて行こうかな。


 しかし、取材のことも忘れたわけではない。

 駅前の案内板の前に立ちながら、貴戸は指でなぞるようにして道順を考えた。


「とりあえず海かな」


 歩き始める。

 一、二個の信号に引っかかりつつ、貴戸は地図に載っていた神社の隣を通り過ぎる。この分なら、二十分ほど歩けば着きそうだ――、


 と、そこで思い立ち、神社の中に貴戸は入っていく。

 虚舟の伝承がそこに残っていないか探すためだ。しかし残念ながらそこは関係のない場所だったようで、空振りに終わる。もう少し海側かな、と考えながら貴戸は進む。


 大きな下り坂の手前から、海が見えた。


「おお」


 と声が漏れたのは、その景色が綺麗だったからではない。このあたりでは海岸線が入り組んでいて、海の向こうにまたビルが見える、といったことも少なくないのだ。だから見た目には大きな水たまり、といった程度の印象しか受けなかったが、東京に水がある、ということが少なからず貴戸を不思議な気持ちにさせた。


 海辺まで下りると、そこが広場のような公園になっていることがわかった。

 通行人はちらほらと。スーツ姿もあれば、犬の散歩に訪れた近隣住民と思しき姿もある。


「とりあえず撮っとくか」


 人がいなくなったタイミングを見計らって、携帯で写真を撮った。そして画像を確認して、


「うーん……、弱いなあ」


 バイト柄、ちょくちょく写真を撮ってはいるが特別上手いわけではない。

 何の変哲もない景色を撮れば、そのまま何の変哲もない景色が写る。


「雑コラ用だな……」


 ポケットに携帯を仕舞いながら、一応あたりを見回してみる。しかしやはり変わったものはなく……、移動販売のコーヒーショップが目に付く程度だった。


 せっかくだから、と貴戸はそのコーヒーショップに立ち寄ってみる。


「いらっしゃいませえ」

「ホットコーヒーひとつ」


 東京の冬は不思議と寒くない、と貴戸は思う。

 すぐに建物の中に入れるから、というのもあるかもしれないが、こうして海沿いまで来ても特段震えを覚えることもない。陽射しがコートを焼くようで、むしろどこか暖かさを覚えるくらいだった。


 しかしそれでも冬のコーヒーの匂いは良いもので、自然、気分も穏やかになる。


 店員は三十代くらいの男性だった。縁の大きな眼鏡と、整えられた髭。

 いやあ、最近はまた寒くなってきたわね、とコーヒーを淹れる間に話しかけてくるのに応じながら、貴戸は訊く。


「ええ、まあ……。あの、このへんで最近、何か変わったことありませんでした?」

「変わったこと?」

「ライターのバイトやってまして、何か記事のネタを探してるんですよ」


 そう伝えると、店員は首を傾げながら、そうねえ、と考え込む。

 その途中で出来たコーヒーと、代金をやり取りしながら、あっちち、と貴戸が戸惑う間に、店員はこう言った。


「あれは? 夜中に謎の発光物体!ってやつ」

「発光?」

「ええ、何でもそんなのを見た人がいるんですって。あたしはどうせどこかのビルの光だと思うんだけどね。ほら、このあたりだと夜でも結構明るいじゃない?」

「ああ、そうですよね」


 貴戸は頷きながら、本心を口にする。

 UFOだの何だのの目撃談だとかそういうのは、大抵発光物の種がある。都会ならなおさらだ。この手の話に思うところはない。


 が、記事のネタにはなりそうかもしれない。

 『近隣住民の情報では、深夜、謎の発光物体を見たとの証言もあり、インセイン雑誌社は関係を調査中である――、待て、続報!』これで締めには困らなくなった。


 とぷ、とコーヒーを口にする。

 美味い。

 そして熱い。身体の芯から温まってきた。


「後は、そうねえ。最近公園のあたりにすっごいカワイイ女の子を見かけたとか? ごめんなさいね、あんまり力になれなくて」

「いやいやとんでもない。それはすばらしいニュースですよ。値千金です」

「あら、軟派ね」


 はは、と貴戸は笑う。

 これは記事には使えそうにもないな、と思いながら。


「どうもありがとうございました。コーヒー、美味しいですね。また寄らせてもらいます」


 言って、頭を下げて貴戸は公園を後にする。

 次の目的地は、図書館だ。



*



 おお、という声を、今度は飲み込んだ。

 図書館の中では大きな声を出してはいけない。


 明るい図書館だった。

 白くて、広い。新品の病院よりも清潔な印象を与えられる。


 図書館といえば、貴戸にとっては地元の寂れてじんわりと温かいそれと、大学のあの黴の香りの立ち上るようなそれのイメージが強い。何もそれ以外の図書館に来るのはこれが初めて、というわけではないが、それでも毎回、新鮮な気分になる。


 図書館に来た目当ては、今回の<異世界症候群>と貼り付ける<虚舟>という奇譚の詳細調べだ。

 民間伝承を接着すると、大抵のオカルト与太話は奥行きが出るようになっている。さらにこういう細かい地域のものは、インターネット上よりも、未だに紙媒体で残されているものの方が情報量が多かったりする。


 さて、とまずは貴戸は周囲を見渡してみる。案内板は思いのほか早くに見つかったが、館内の詳細な案内図はない。

 まあたぶん歴史の棚か、そこになければ館内の端のあたりにまとまっているだろう、と歩き始める。


 館内は素直なつくりになっていた。分類番号順に下から。二階構造になっている。歴史の棚は一階にあった。


 じっと棚に並ぶ本を眺めてみる。大体の並びは、日本史から始まって、それから世界史に切り替わっていく。一番最後には伝記や地理系統。


 あるとするなら。


 日本史のあたりかな、と貴戸は屈んだり背伸びしたり、隅から隅まで背表紙を確かめる。


「ないな……」


 ぼそり、と声が漏れる。

 見当たらない。


 少しばかり顎に手を当てて考える。

 ここにないならやっぱり別枠……、雑誌コーナーのあたりを探してみるか。

 いや待てよ、よく考えたら民俗学の棚に並べられてる可能性の方が高い。確か、社会科学の番号は歴史と隣接してるから――、


「わっ」


 思わず、声を上げてしまった。

 自分で自分の出した声に驚き、貴戸は手の甲で口を押えた。


 別の棚を見ようと、踵を返したときだ。

 自分のすぐ後ろに、少女がぴったりと立っていた。


 アッシュブロンドの髪。顔立ちから、自分の金髪と違って地毛なのかもしれない、と貴戸は思った。

 男性の平均身長をやや上回る貴戸と比べて、向こうは頭一つ分は小さい。かなり近くに立っていたこともあって、見下ろすような形になる。


「すみません」


 と、小声で貴戸は言う。それから大きく横に一歩踏み出して、避けようとした。

 が、向こうも同じ方向に足を踏み出してくる。


「…………?」

「これ」


 少女は手に持っていた厚い本を差し出してくる。


「探し物じゃないかしら?」


 その本には、<際上市の伝承>と題が振られている。


「あ、ああ」


 貴戸は驚きながら、


「そうです。すみません、読んでた途中なら急ぎじゃありませんので」


 おそらくは、何か目当ての本を探しているらしい自分のことを見て、もしかして今読んでいるのがその目当てなのでは、と棚に戻しに来てくれたのだろう、と推測した。

 確かに、まさにそれが求めていた本ではあるのだが、人の都合を遮ったのでは申し訳ない。貴戸は遠慮しつつ、そんなことを言ったが、


「いいの、もう読み飽きてるから」


 言って、少女は微笑すると、貴戸に本を手渡した。


 どうもすみません、と貴戸が頭を下げると、向こうも軽く礼をして、棚の向こうに歩き去って行った。


 貴戸は本を手に、閲覧机に座り、ページを開く。

 目的のページは、一発で開いた。



『<虚舟>


 江戸の時代。

 海岸に一つ、奇妙な物体が辿り着いた。真っ白で、鉄とも木ともつかない奇妙な材質の、丸く、長い筒状の、一見しては何だかよくわからない物が、流れ着いた。

 海妖の死体か、それとも外来船が落としていった、異国の見慣れぬ道具であるか。

 当時の市民たちは口々に推測を交わし合い、それを遠巻きに見守っていた。

 するとがたがたとその筒が揺れ出した。多くの者は恐れてその場から遠ざかったが、ただ一人、寺子屋で読み書きを教えていた先生だけが、ひょっとするとそれは、中に生き物が入っているのではないか、と言った。

 町奉行所から幾人か、腕の立つ者を集めて、皆はその奇妙な筒を取り囲んだ。

 そして際上で一番の剣の腕を持った大男が、その筒に一刀を入れると、中から異人風の女が出てきた。』


「ん……?」


 次のページをめくると、次の話に切り替わっていた。


 まあそんなもんか、と貴戸は思う。

 伝承は小説じゃない。綺麗なオチがついているものばかりではない、ということだ。


 収穫としてあったのは、虚舟の外観、それから剣士の話あたりだろう。

 外観の方はそのままストレートに話に組み込むとして、剣士の話は……、落ち武者伝説とでも混ぜるか? いや、それは流石にごちゃごちゃしすぎ……。待てよ、そもそもは<異世界症候群>という話なんだから、異世界から虚舟を斬るために剣士がやってきて……、というのは?


「ファンタジーか」


 貴戸は笑う。いくら与太でもやりすぎは……、いやむしろやりすぎくらいがちょうどいいかも、とか考えながら。


 一ページだけなら大した手間でもない。

 複写の申請をして持ち帰ってしまおう。貴戸は本を片手にカウンターに向かうことにした。


 にしても、と。


「読み飽きた、か」


 さっきの少女が言ったこと。

 嘘じゃなさそうだ、と思う。確かに表紙が柔らかくなっている。人の手の中で曲げられた証拠だ。


 しかしそれほど読み込まれて、一番最初に開くページ、つまりは折り癖がついていたのが<虚舟>のページだったのは、一体どんな奇遇か。


 案外、メジャーな伝承なのかもしれないな。

 仕事を終えたら社長に訊いてみるか。


「すみません、複写お願いしたいんですけど」


 貴戸はカウンターに座ていた司書に声をかけた。


「あ、はいはい。白黒一枚十円になりますけど、よろしいですか?」


 四十過ぎくらいの、痩せた女性だった。はい、と貴戸は頷いて、


「このページなんですけど」


 と差し出す。

 司書は受け取ると、カウンターの奥にあるコピー機に本を押し付け、操作を始めた。


 時計を見ながら考える。

 思ったよりもスムーズに事が運んでしまったために、夕食までにはまだしばらく時間があった。帰りにまたラーメンを、と考えると時間潰しが必要になってくる。このまま図書館で本を読んで過ごすか。あるいは喫茶店にでも入って、携帯で原稿を書き始めてしまうか。

 迷うところだ。


「はい、じゃあすみません、こちらコピーですね」


 司書が戻ってきた。

 本とコピーを手渡され、中身を確認する。うん、問題ない。


「あとすみません、こちらご記入いただいてよろしいですか?」


 と、付け加えて出されたのは『複写申請書』という一枚の紙だった。名前、住所、書籍名、ページ数等々、記入欄のある小さな用紙だ。


 まあ、そりゃそうか。

 思いながら、貴戸はそれに書き込んでいく。特にやましいことをしているわけでもない。淀みなく真実でそれを埋めていった。


「はい、じゃあお願いします」


 書き終えて、顔を上げる。そしてその小さな紙を司書に向けて手渡すけれど、


「……………?」

「………あの?」


 向こうが急に反応しなくなった。

 差し出された紙と、貴戸の間に視線を交互させている。


「……何か?」

「あなた、誰?」


 貴戸は困惑する。

 一体何の質問だ? 自分の恰好に何か変なところがあるだろうか。ひょい、と腕を上げて確認するが、大したものはない。コーヒーの染みがあるわけでも、海水に濡れているわけでもない。

 どうしたものか。状況が読めない。それでも貴戸は、話を進めるための言葉を探していたが、



「ここはどこ?」



 吹き飛んだ。

 は、と漏れた声が、単なる呼吸音だったのか、それとも驚きの声だったのか、それすらも自分ではわからなかった。


「あの、まさか」


 嫌な汗を抑えながら、震える手で貴戸は携帯を取り出す。

 立ち上げたのはカメラアプリ。モードはセルフ、つまりは内側のカメラ。


 それを、司書に向けて、


「この人に、見覚えは?」


 しばらく、その画面をじっと見ていた司書は、首を傾げて、こう言った。




「誰?」




*



「だっはー、つっかれた……」


 帰宅する頃にはすっかり日は落ちていた。

 真っ暗な部屋の中を、手探りで歩みながら、貴戸は電灯のスイッチを入れる。


 図書館では後が大変だった。

 明らかに記憶が混濁しているらしい司書を相手には埒が開かず、別の職員を呼んで、それでもダメだったので家族を呼んで……。様子がおかしくなったときに立ち会っていたのが自分だけだったから、根掘り葉掘りに状況を聞かれたけれど、伝えられることはそれほどない。まさか<異世界症候群>なんて話を持ち出すわけにもいかなかったのだし。


 結局、誰もが困惑する中でその場は解散となった。

 また何か困ったことがあったりしたら連絡を、と個人情報の載った複写申請書だけコピーして、司書の家族に渡しておいたが、連絡されても自分が手伝えることはないだろう、と貴戸は思う。


 とにかく、とんだ一日だった。結局帰りのラーメンも食べそびれて、コンビニでカップ麺を買ってくる羽目になってしまったし、やる気なんか出すんじゃなかったな、と思ったりもする。


 <異世界症候群>が――実態はどうであれ――存在すると割れたのは収穫と言えば収穫だが、


「金にはならないよなあ……」


 独り言ちりながら、貴戸はカップ麺に湯を注ぎ、それからPCを立ち上げた。

 インセイン雑誌社の発行物はいい加減なトンデモ雑誌ではあるが、ゲスな雑誌ではない。猟奇殺人事件と出来の悪いミステリーサークルの二つを記事の候補に挙げられたら迷いなく後者が選択されるような雑誌であるし、購買層もそのゆるいオカルトを望んでいる。


 今回のように、明確に被害者がいると割れてしまっては、記事にはしないだろう。

 少なくとも社長はそういう判断を下す。基本的に報酬は記事の完成報酬だし、今回の収入はなしと見ていい。交渉次第で出張代くらいは稼げるかもしれないが、果たしてあの会社にそんな余裕はあるのだろうか。


 麺が伸びる前にやることをやってしまおう。

 貴戸は文面を打ち始める。


『業務報告:<異世界症候群>の調査について


 インセイン雑誌社長 殿


 本日、社長より言い渡されました<異世界症候群>の件につきまして、早速噂の出所と思しき際上市に赴きまして、調査を実施しました。


 結果として、<異世界症候群>と呼ばれる現象は存在する模様です。

 現地にて実際に、社長より伝えられました反応を示す人物と接触をしました。


 しかしながら、この<異世界症候群>の詳細については不明。

 何らかの精神的錯乱の結果として、こうした症状が表れているのでは、という疑念を拭えません。


 インセイン雑誌社の方針に従って記事を作成することは困難かと推測する次第です。

 調査を続行するか否か、また、記事の作成を続行すべきか否か、ご指示をお願いいたします。


 貴戸』


「こんなもんでいいかー……」


 ビジネスメールの書き方、就活までには覚えなくちゃな、と貴戸は思う。

 社長からの業務命令がアレだからいつも適当に書いているし、それで文句を言われたこともないが、社会人の全員が全員こんなもんで誤魔化されるか、というと話は別だと思う。


 まあ、今はこれでいいや。


 送信ボタンをクリック。送信確認ボタンをクリック。

 送信ボックスを見て、確かにメールが送られているのを見ると、ちょうどタイマーが鳴った。


 ずぞ、と一口啜り、物足りなさを覚える。

 途端、携帯が鳴った。


 電話だ。

 呼び出し名には、『社長』と表示されている。


 んぐ、と麺を飲み込んで、水を飲んで、口の中を綺麗にした後、電話を取る。


「はいはい、貴戸っす」

「おお、貴戸くん! 調査おつかれだったね! いやあ君の迅速な調査にはいつも舌を巻くよ! 私がトカゲだったら巻きすぎて絡まっているところだな、はっはっは!」

「…………」


 貴戸は黙って携帯を耳から離した。


 うっさ。

 ものすごい大音声だった。午前中は割に抑えめの調子だったはずなのに、一日の間にどんなテンションの上がり方をしてるんだこの人、と不審な気持ちになる。


「どうもっす。つっても無駄打ちになっちゃったすけど……」

「いやいや構わんとも! 調査してもらった分の給料は払うよ、流石に記事にはできないから半値になるがね!」

「え」


 貴戸は驚く。


「そんな余裕あるんすか?」

「ある!」

「馬券すか?」

「君は私を何だと思っているのかね? いやなに、ちょっとした副収入があってね。最近そっちの調子がいいんだよ。……って、そうじゃない! そっちはどうでもいいんだよ!」


 どうでもよくはないっすけど。


「貴戸くん、君、今テレビは点けられるかね?」

「え、はい」


 言われて貴戸は、テレビに手を伸ばす。

 普段はゲーム用にしか使っていないものだ。点けた時点では真っ暗で、リモコンを探して入力を切り替える。


 社長が声高に言う局にチャンネルを合わせると。




『現在、報告されている集団パニックに関してですが、原因は究明中の模様です。


 警察からは、『現在報告されている事例からは肉体的な損傷を伴うものはない。もしも家族や周囲の人が同様の症状を見せた場合には、近隣の医療機関に相談をする等の処置を取るように』との発表です。


 いやあ、心配ですねえ』

『何ともねえ。原因がはっきりしないんじゃねえ』

『集団パニック、って話もありますからね。とにかく落ち着いて、事態を見守るしかないんじゃないでしょうか』

『ええ、視聴者のみなさん。十分に気を付けていただいて、それから症状が出てしまった場合にも、落ち着いて対応をお願いします。…………では、次のニュースです』




「……は、」

「お手柄だよ、貴戸くん!」


 呆然とする貴戸と対照的に、電話口の社長は大きく声を上げる。


「昼頃からじわじわとSNSあたりで原因不明の記憶混濁が話題にされていたんだがね……、どんどん広がっているらしいのさ! 私も記事には起こさないとはいえ、何しろこの職種だ、オカルトには目がない! テレビとインターネットに齧りつくようにしてニュースを追い、とうとう注意喚起が流されるようになって、すると君のあの素晴らしい報告が届いたじゃないか!」

「ちょ、ちょっと待ってください。まさか社長、」

「もちろんだとも! これは<異世界症候群>だ!」

「じょ、」


 貴戸は絶句する。


「冗談っしょ?」

「いやはや、これが冗談でも何でもないのだよ! いくら何でも悪ふざけで拡散される量じゃない。これは間違いなく、私たちが<異世界症候群>と呼ぶあの現象が、パンデミックを起こしつつあることを意味しているだけだとも」


 貴戸は呆然としながら、チャンネルを変える。

 頭に過ったのは、『宇宙戦争』のことだ。宇宙人が侵略してきたという筋書きのラジオドラマを、臨場感たっぷりに放送した結果、聴取者たちからの問い合わせが殺到したと伝えられるあの事件――。


 しかし、そんな期待も平然と裏切られる。

 チャンネルを変えた先でも、同じくこの集団パニックについての報道がなされている。


「パンデミック……?」


 そして今度は、社長の言葉に引っかかりを覚える。


 オカルトに関わる人間がこの言葉を耳にしたときにイメージするのはおおよそ一つに絞られると言ってもいい。


 バイオハザードだ。


「ちょっと、社長これどうなってんすか。大丈夫なんすかこれ」


 口にした瞬間、しかし貴戸の気持ちは冷めた。


 次に頭を過ったのは、二〇一二年のあの頃のことだったからだ。

 あの、結局何の終末も来ないままに過ぎ去ってしまった、もはや遠い約束のような時間のこと。


 杞憂だ、と貴戸は気付いた。

 どうせ大したことになるわけがない。ただ、自分の行動とたまたまタイミングが重なっただけでそこに過剰な意味を見出そうとしている――。そんな、昔からの自分が今、部屋にいたことに気が付いた。


 そして、今、気付かれて消えた。


「――さて、ここからが本題だ」


 だから、もったいぶった社長の言葉にも、何らの動揺もなかった。

 すでに貴戸は平静を取り戻していた――。どこにでもいる、普通の大学生。それから<インセイン雑誌社>なんていう、十割デタラメな雑誌のアルバイトライター。そんな自分を人形でも見つめるように、頭上から見下ろす自分自身。そんな我を、取り戻していた。


「貴戸くん。調査をしてみないかね?」

「――調査?」

「これほどの大事件は<インセイン>には似合わないから記事に起こすこともない。これはアルバイトとは関係のない、個人的な、私の嗜好に伴う依頼だ。

 金銭は弾む。しかし君の名前が売れることはない。

 そんな条件だが――、やってみないかね。この事件の調査を」


 貴戸は思案する。

 金銭報酬の見込み。これから一月先までの自分の予定。症候群やパンデミックという言葉から受け取る、自身の身に及ぶ危険の程度。そもそもの調査達成の可能性。


 そして、訊く。


「また、なんでそんなことを?」

「純然たる好奇心だよ。オカルトの語源が『隠されたもの』であるという話は以前にしたね? <インセイン>は読者をその隠された領域へと導く雑誌ではあるが……、著者も読者も人間である以上、そこには当然、幸と不幸のように表裏一体の感情を刺激する仕組みがある。

 真実を求める気持ちだ。

 これほど胸を騒がせる事件がある。ならその裏にある真実を知りたいと思うのは、当然の欲求だろう?」

「…………」


 貴戸はしばらく沈黙したのち、一言、「報酬は?」と訊いた。

 返ってきた数字を聞くと、テレビを消して、立ち上がる。返事は、


「いいっすよ。真相究明まで辿り着けなくても半値貰えるんなら、すけど」

「構わんよ。そうと決まれば善は急げだ。すぐさま社に来てもらえるかね?」

「りょーかいっす。とりあえず切るっすよ」


 はいはい、と貴戸は通話を切る。


 着替える前でよかった、と身支度を整えながら、ぼそり、と呟いた。


「そういう無邪気、時々羨ましくなるっすね……」


 携帯、財布。部屋の鍵。

 後はどうとでもなるだろう、と貴戸は一度部屋を見回し、


「げ、」


 食べかけのカップめんの存在を思い出して、慌ただしくかき込んでから、家を出た。


 雑誌社までは徒歩で三十分程度。

 一方電車では自宅付近と雑誌社付近に直通の路線がなく、二度ほど乗り換えて十五分程度。


 迷った末に貴戸は前者を選んだけれど、それが間違いではなかったらしい、ということがすれ違う人々の会話や、通りがかる駅前のタクシーの姿に、わかり始めて来た。


 電車は現在運行を見合わせているらしい。


 理由までは明らかにされてはいないが、電車というのは密閉空間だ。パニック症状が多発している状態では安全策を取るのもそんなにおかしいことじゃないだろう、と貴戸は思う。


 家から数えて二つ目の駅まで来ると、そこからゆるやかに、行く道は線路から外れ始める。


 人のいない道を、貴戸は歩いていく。何度か通った道で、迷いはない。初めの頃は、東京だからといってどこにでも人がいるわけではないのだ、と驚いたことを覚えている。


 冬だというのに、空に水を撒いたような湿気が、昼からずっと、ありありと残っている。

 口元から上り立つ白い吐息が、頬を濡らすように思えて、貴戸は少し居心地悪く、先を急いだ。


 公園の前。右に曲がれば大通りに出る十字路で、左に曲がる。

 立ち上る古いビルの中。看板すら出ていないが、そのうちの一つ、三階にあるのが<インセイン雑誌社>だ。


 念のために貴戸は、エレベーターではなく、奥の細い階段で上っていく。

 色気のないコンクリートのステップは、古い電灯に照らされて無機の香りを漂わせていた。


「……あ」

「……!? 、あっ!」


 上り切った先で、意外な顔を見つけた。

 特段意識するでもなく声を漏らすと、向こうはそれにびくり、と反応して素早く振り向く。


「た、貴戸さん! よかった!」

雪邦(ゆきぐに)くん。どうしたんすか」


 雪邦、と貴戸に呼ばれたのは、おかっぱ頭の、青年というよりも少年という言葉がしっくりくるような、白皙の美形だった。黒シャツに薄色のリボンタイをつけた姿はいかにも華奢に見えるが、棒状の黒い筒のようなものを背負っているのだけが、アンバランスに映る。


 <インセイン雑誌社>のアルバイトライターだ。

 業務性質上、ほかのライターとはほとんど顔を合わせない貴戸だが、それで何人かとは顔見知りで、雪邦もそのうちの一人だった。


「あ、雪邦くんも社長に呼ばれたんすか?」

「え?」

「あれ、」


 違ったか。貴戸は首を傾げる。

 てっきり調査の人手を社長が集めたのかと思ったけれど。


「い、いや。僕はその、テレビでやってるじゃないですか。集団パニック」

「ああ、うん」

「それでその……。とにかく雑誌社にと……」


 ああ、と貴戸は見当をつける。

 雪邦は怖がりなのだ。


 オカルト雑誌のライターをやりながらどんな寝言だ、と思うかもしれないが、事実である。

 本人は滅多には口にしないが、傍から見ていてその傾向は明らかであり、以前には一度、バイトの目的を精神修養だ、と漏らしたことがある。


「まあ、確かにこういう場面だと社長って頼りになりそうっすもんねえ」


 思わずそう、口にしてしまう。

 つまりは、頼ってきたのだ。

 この状況で不安に耐えきれず、それならオカルト狂いの社長のところに身を寄せてみようと。


 何はともあれ、積もる話は<インセイン雑誌社>の中に入ってから――、と貴戸がドアへと伸ばした手を、雪邦がつかんだ。


「……どうしたんすか? 雪邦くん」

「……いえ……、あの。これはその、他意のない行為なんですが、さっき、僕はどうも、致命的な幻覚を見たみたいでして」

「幻覚?」


 そのワードは聞き逃せない、と貴戸は雪邦を見た。

 パニック症状が横行している今なのだ。そうした兆候は無視できるものではない。


 雪邦の表情は、霜にでも当てられたかのように蒼白だった。貴戸の手を握りながら、どこか床のあたりに視線は彷徨い、長い睫毛が頬に影を落としている。


「ええ。幻覚を……。ええ、間違いなく。それはもう、本当に間違いなく幻覚だと思うのですが、しかしそれでもその、もう一度この扉を開くには躊躇いがあるといいますか。どうしたらわからない場面で貴戸さんが来てくれたことにほっとしつつ、再びあの光景を見るかと思えば膝が震えるといいますか……」


 貴戸は戸惑う。

 一体どんな幻覚を見たというのか。もしも<異世界症候群>と呼ぶ反応の発症者たちが皆、そんな幻覚を見ているとしたら――。


 しかしとにかく、前に進むことを今は優先することにした。


「雪邦くん、大丈夫っすよ。オレが先に入るっすから、ちょっと遠目で待機しててください。そんでオレが確認して、そんで何もなかったら雪邦くんを呼ぶっすから」

「あ、ええと……。いや、でも……」

「大丈夫っす。オレ、これでも恐怖耐性だけは人並以上って自負してるんすよ」

「そういう問題ではないというか……。あの、貴戸さん」


 雪邦は、ぎゅっと顔を上げて、潤んだ目で貴戸の瞳を見つめた。


「気を強く持ってくださいね……!」

「もちろんっす」


 そうして、雪邦を遠ざけて、貴戸は深呼吸する。


 降霊術や宗教セミナーなどにある集団催眠をイメージする。とにかくこういうときは、場の空気に呑まれないようにするのが第一だ。先入観が認知機能を誤魔化して、どんどん感情を加速させていく。


 その点で言えば、自分は問題ない。貴戸はそう思いながらドアに手をかける。


――なにせ、自分はオカルトなんて、微塵も信じていないのだから。


 そしてがちゃり、と扉を開ける。


 そこには。



「……ばぶー?」



 床に寝転んで、親指をしゃぶる長髪の中年男性――もとい、インセイン雑誌社長の姿――。


「な、なるほど……、これは確かに……」


 貴戸はそれを見て、


「強烈、っすね……」


 くらっとした。



*




 今日という日にいくつの救急車が呼ばれているのだろう――。 


 そんなことを思いながらかけた救急からは、「自宅で安静にさせてください」と申し訳なさそうな声が返ってきた。貴戸もそれに「すみません、ありがとうございました」と返して電話を切る。


「雪邦くん、社長の身内の連絡先とか知ってます?」

「…………」

「雪邦くーん」

「はわあっ! 何ですか、貴戸さん!」


 呆然とする雪邦。ばぶばぶ言ってる社長。必然、状況の主導権を握るのは貴戸になった。


 もう一度、連絡先を訊いても雪邦は申し訳なさそうに首を振るばかり。「っすよね」と短く応答して、デスクに置かれている固定電話を取る。


「短縮とか入ってないっすかね……。うわ、使い方わかんな」


 四苦八苦していると、雪邦が横からそれらしき機種の取扱説明書をネットから検索して出してくれた。その通りに動かして登録番号を見てみる。タカド、ユキグニ。その他いくつか見覚えのある名前がある中で、一つだけ、登録名のない番号があった。


「…………」

「えっ、」


 貴戸はそれをしばらく見つめた後、無言でその番号に発信した。横で雪邦が驚きの声を上げるのとほぼ同時。ワンコールもしないうちに電話が取られた。


「もしもし」

「あっ、私、インセイン雑誌社の――」

「今行きます」


 わたく、のあたりで一方的にそう告げられ、電話は切られた。

 つー、つー、と機械音を返す受話器を、貴戸と雪邦は見つめている。


「……ま、これで社長は心配なしってことで」

「ええ!? 大丈夫ですか今ので!」

「借金取りが来ちゃったら雪邦くんぶった斬っちゃってくださいっす」

「い、嫌ですよ! 正当防衛じゃなければ普通に犯罪者になっちゃうじゃないですか!」

「じゃあまあ、そのときはそのときで考えるってことで」


 言って、貴戸はテレビのリモコンを探し出し、勝手に電源を入れた。

 もう夜の七時も半ばだというのに、未だにニュース特番が組まれている。


「大事っすねー。雪邦くんもニュース結構見ました?」

「あ、うん。何だか訳がわからなくって……。これ、何なんでしょうか」

「んー、社長は<異世界症候群>とか呼んでたっすけどね」


 どこまで本当だか、と言いながら貴戸はチャンネルを変え続ける。どこも内容は同じようなものだった。原因不明のパニック症状の多発。自身に関する記憶の喪失。他人だという思い込み。幸い、これに起因する事故は今のところ報告されていない。


「<異世界症候群>?」


 雪邦の質問に、貴戸は頷き、今日にあったことを一通り話した。


 結果として、雪邦は、ぽかん、と口を開けることになる。


「なんですか、それ」


 そして、震えだす。


「ま、ま、ま、まさか……、知ってますよ! オカルト界隈で異世界が流行ってたってこと! もうおしまいです!」

「いや、そんな大げさな……」

「なんで貴戸さんはそんなに落ち着いてるんですか!? どう考えてもその<異世界症候群>とかいうやつの仕業ですよ! 人類は滅んでしまうんです! ど、どどどどうしましょう、僕、まだまだやりたいことがたくさんあったのに!!」

「まあまあ、本当に落ち着くっすよ、雪邦くん」


 <異世界症候群>とは別種のパニックを起こしかけている雪邦に対し、しかし貴戸は穏やかな声で言う。


「この世にオカルトなんてないっすから――、」

「そ、そんなわけないでしょう! 僕は毎日幽霊を見てるんですよ!」

「だから毎回枯れ尾花だって言ってるじゃないっすか。過敏すぎるんすよ。考えてみてもくださいよ、今の何でもかんでもパシャパシャ写真を撮ってSNSに上げるような時代に、どうして幽霊の存在証明がまだされてないんすか? いないからっすよ。オカルトなんてこの世にないんす。仮にそんなのがあっても、それは単にオレたちの理解の範疇を超えた科学の産物っすよ」

「どっちにしろ怖いじゃないですか! わかんないものは怖い! 何か違いがありますか!?」


 む、と貴戸は言葉に詰まる。

 説明可能であるが、現時点では分からない。そういうものすら怖いと言われては、雪邦に怖がるな、と言える道理がなくなってしまう。


「あ゛ああああ……、あれです、これはあれです。スワンプマンに似てるんですよ。貴戸さん知ってますか? あの外見が同じで中身だけ変わった存在がどうたらって話……、はっ!? もしかしてこの社長はドッペルゲンガー!? ううぅ……こわいぃ……」

「うーん、想像力豊かっすねえ」


 困ったように貴戸は笑う。

 テレビからは相も変わらずパニック情報。幾度も繰り返される言葉は、現在被害は報告されていません、落ち着いて対処してください――。


「――ん?」


 そのとき、貴戸の頭で何かが引っかかった。

 そして、その次の瞬間に、あ、わかった。と。

 そんなことを思い、口を開こうとしたところで。


 こんこん、と。


 扉がノックされた。


 雪邦の動きが止まる。

 貴戸の声も、喉を下がっていった。


 目配せで二人は意思を伝えあう。


 貴戸が足音を立てつつゆっくりと扉に近付き、一方雪邦は音を立てず、背負った黒い筒から、すらり、と竹刀を抜き出した。扉の死角に入るようにして雪邦が移動するのを見届けて、貴戸が声を出す。


「はい」

「先ほど電話を受けた者ですが」


 <インセイン雑誌社>の扉にドアスコープはない。

 ドアフォンとは言わないが、副収入が調子いいならそういうところから工夫してほしいものだ――、思いながら、貴戸は錠を回し、細く戸を開く。


「どうも、こんばんは」

「……こんばんは」


 立っていたのは、若い男性だった。

 黒髪が真ん中あたりで自然に分かれて額を出している。大学で見かけたらまず学生と疑わないだろうが、妙に着慣れた様子の細身のスーツと、愁いを帯びたたれ目、それから泣き黒子が年齢をぼやかしていた。


 彼は貴戸の金髪を一瞥すると、


「間違っていたら申し訳ありませんが、貴戸さんでいらっしゃいますか?」


 不意打ちに驚きつつ、しかし貴戸は顔色を変えないまま答える。


「ええ、そうです。あの、あなたは、」

「で、そちらが雪邦さん」


 ぎょっとした。

 こればかりは瞳の広がるのを貴戸は抑えられなかった。背中で雪邦も、わずかに身じろぎしたのを感じる。


 姿すら見えないはずだ。

 貴戸は考える。奇術には裏がある。さっきの短い電話の中で、部屋に居るのが三人であることを見抜いたのか。こういう小技が使える人間は油断ならない。普通に暮らしていたら身につかない注意深さだ。しかもこちらから入れた急な電話となれば――、録音でもしていたのか?


「あの、こちらから連絡しておいて大変失礼ですが、社長とはどういった関係でいらっしゃいますか?」


 警戒の意味を込めてそう尋ねると、しかし男はあっさりとして、


「弟です。似てるでしょう?」

「な、」

「ほら、このたれ目とか」


 男が微笑して指差すのを前に、貴戸は記憶を探る。社長の目元、目元……、ダメだ、眼鏡が邪魔してわからない。

 にしたって年が離れすぎ――、いや待てよ。そもそも社長の正確な年齢を聞いたことがない。あのナリで三十代だったりすればそこまで不思議でも――、


「では、失礼しますね」

「あっ」


 するり、と男は貴戸の横をすり抜けてしまった。百戦錬磨の訪問販売員だってこんなに巧みじゃないぞ、とそんな感想を抱く。


 中には、床に這いつくばってばぶばぶ言う社長。

 それからその横に、竹刀を握った雪邦がいる。さすがに構えてはいないが、警戒心は察せる程度の立ち姿だ。


 そんな雪邦を男は見て、


「……なるほど。やはり兄さんは巡りが良い」


 と、溜息でも吐くように呟いた。

 それからスーツの汚れもまるで気にせず、床に膝をついて、社長に語り掛ける。


「ほら、兄さん。家に帰りますよ」

「だー? うー」

「…………まったく、」


 パン、と。

 男は微笑しながら、真っ黒な手袋をした両手を、社長の前で鳴らし打った。


「しゃ、社長!?」


 それだけで、意識を失ったように社長の身体がばたり、と床に伏した。

 雪邦が焦る声を出す一方で、貴戸は驚きつつ、しかし納得したような顔でもいる。


 男はその細身に似合わず、社長の長身をひょい、と苦もなく抱え上げる。

 それから雪邦に、貴戸に笑顔を向けて言う。


「失礼。兄は私が責任を持って預からせていただきます。貴戸さん、雪邦さん、私のいない間に兄の面倒を見てくださりありがとうございました。お礼の方は、兄を通して後日何かお渡しさせていただきます」

「そ、そんなことより!」


 驚愕からようやく戻ってきた雪邦が叫ぶ。


「何ですか今の! 魔法!?」


 その質問に、男は底の読めない微笑を返し、


「ええ、まあ。そんなところです」


 雪邦がじりじりと後ずさる。

 それを面白そうに見て、男は部屋の出口へと向かっていく。


 そして、貴戸とすれ違いながら、



「――あなたの、心の向くままになさい」



 ぼそりと、そんなことを言った。


「……? どういう意味っすか?」

「いえ、何でも……。おじさんのちょっとした、お節介ですよ」


 振り向かず、足も止めず、男は去って行く。


「我慢も諦めも、その齢で覚えるものじゃあない、なんて思いましてね」

「――――!」


 貴戸はその言葉に、弾かれたように男を見た。

 しかし、見るだけ。その先に、一歩は踏み出さない。


 男の足音が遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなったころ、ぽつり、と雪邦が言った。


「ま……、魔法使いですよ、貴戸さん」

「…………あ、すんません。今聞いてなかったっす。なんすか?」

「魔法使いだって……、あの? 貴戸さん、なんか大丈夫ですか?」

「あ、いや。その……、なんつーか……」


 歯切れの悪い応答に、雪邦は不安を募らせる。

 しかし数秒後、その不安は吹き飛ぶことになる。


「雪邦くん」


 なぜかというと。



「この事件、二人で解決してみないっすか?」



 もっとひどい不安が、すべてを塗り潰してしまったからである。



*



 ここに、貴戸という男と、雪邦という男。同じ雑誌社に所属する大学生のライターがいる。

 この状況で肩を並べる奇縁を持ちながら、その性質はほとんど正反対と言ってもよかった。


 雪邦は北陸地方の、剣術道場の次男に生まれた。年の離れた兄と姉が、一人ずついる。

 幼いころより竹刀を握っていた彼は、儚げな容姿ながら運動能力に恵まれ、近隣の剣道大会では向かうところ敵なし。案外と長ずればその道で名を馳せることもあるやもしれない、と末子可愛さもあれ、期待されていた。


 そんな彼の人生の転機は思わぬところに転がっていたのである。

 ある日、空がたっぷり闇に沈んでから、雪邦が帰宅した。家の全員が普段から雪邦のことを甘やかしていたが、この日ばかりは、ときつく叱り飛ばすつもりで玄関で待ち受けていた。


 しかし、その思惑はあえなく宙に浮くことになる。

 あの何をこなすにも風雅を漂わす少年が、崖からでも転げ落ちたかのように全身ボロボロで、泣き顔をべしゃべしゃにして泥だらけで帰ってきたのだ。


 何があった、と問いただす家族に雪邦が言ったのは、この言葉だけだった。


 おばけがいた。

 おばけがいた。

 おばけがいた……。


 その日から、雪邦の完璧に綻びが生まれるようになった。

 暗闇を避け、僅かな物音に飛び上がる。霊やらなにやらと名の付くものに、異常な恐怖を示すようになった。


 何があったのやら。まさか本当に妖怪にでも襲われたわけではあるまいに。

 周囲が心配と、それから痛ましいものを見るような視線を投げかける中、しかし生来真面目一辺倒の気質を持つ雪邦は、思わぬ方向に向かう。


 ――弱点を、そのままにしておくわけにはいかない。


 よしておけばいいものを。

 自ら震えるような怪しげな話題ばかりを蒐集し、その恐怖を打ち払うように剣に没頭した。その結果が、高校時分においては全国でも五指に数えられた剣腕と、それから怪しげなオカルト雑誌のライターの肩書である。


 未だ恐怖は拭えない。

 つまるところ、雪邦は、オカルトを信じ、オカルトに恐怖する男だった。



 一方で、貴戸だ。

 彼の人生において、特筆すべきところはそれほどない。


 特筆すべきところが、ないような人生だったのだ。


 関東に生まれた貴戸は、何をするにしても人並以上には上手くできた。悠々と人生を跳び歩く彼は、その種の人間特有のあの感覚に、当然のように憑りつかれるようになる。


 虚無感。


 彼は人生において、血の滲むような努力を求められたことがない。

 届かない目標を前に、挫折したこともない。する余地もない。


 自然、こうした疑念が湧くようになる。


――オレは、何のために生まれたんだ?


 こうした心の空白を、思春期の子供たちは色々なもので埋めていく。

 友情、恋慕、団結、それがダメなら音楽、文学、絵画――。


 それをオカルトで埋めようとしたのは、間違いなく彼の人生で、一番の間違いだった。少なくとも、彼自身はそう思っている。


 あるいは、ここで他のものを手に取れれば、彼も変わったのかもしれない。タイミングが悪かったのは、ちょうどあの二〇一二年――終末予言が彼の身近にあったこと。


 彼はこう思った。


――きっと自分は。

――世界の終わりを見るために生まれたんだ。


 それはある種、誰にでもある考えだったのだろう。

 自己を世界と比べてちっぽけな存在である、と直視できない、自己に対する意識だけが肥大化した時代にありがちな、世界と自分を同一視するような思考。


 そして、その幻想は脆くも砕け散る。


 世界は滅びない。

 自分はいつか死ぬ。

 沈殿していく憂鬱と、失望。


 それでも惰性のように、彼は<インセイン>に所属することになる。

 もはやオカルトに希望など託していないのに。

 希望など託していないと、自分に言い聞かせているというのに。


 未だ心の底では、離れられない。

 つまるところ、貴戸は、オカルトに失望し、それでもオカルトを求めている男だった。



*



「か、帰りましょうよぅ、貴戸さぁん……。無理です、無理です無理無理無理……。こんなの天変地異です驚天動地です。僕ら普通の一般人にどうにかできる問題じゃありませんよぅ……」


 <インセイン雑誌社>の保有する社用車が、ガタガタと後部座席の窓を揺らしながら、どことも知れない細い道を行く。

 運転席には貴戸、助手席には雪邦。


 出発してから十分とちょっとが経つ。その間、雪邦はもぞもぞと落ち着かずに指を遊ばせながら、貴戸に泣き言を吐き続けていた。


「大丈夫っすよ。雪邦くん」

「何が大丈夫なんですかぁ……」


 答える貴戸は、しかし当然ながら車の進行方向から目線を逸らさずに言う。

 ゆえに、彼の言葉は雪邦には途方もなく空々しく響いたりするのだが。


「オレら二人が揃って解決できなかった事件が、これまであったっすか?」

「これまでも何も組むのなんて今回が初めてじゃないですか!!」


 街灯の薄明かりの中、ボロ臭い小型の自動車が、やかましく歩いていく。

 窓の外をひょいと見てみれば、雪邦は夜空の果てまでがビル灯に照らされて都市の色に染められているのを目にしただろうが、生憎そんな余裕はなかった。


――オレ、この事件の真相、わかっちゃったんすよ。

――一緒に犯人、捕まえに行きません?


 <インセイン雑誌社>で、貴戸はそう囁いた。


 雪邦は『犯人』という言葉に、人の形を見た。

 人なら勝てる、恐るるに足らず。今こそかの忌まわしき怪奇の因縁断ち切るべし。雪邦の思考回路はそうしたショートカットで以て返答に首肯を用いたが、大体車が発進したあたりで、こんな状況を作りだせる犯人というのは自分の知る人間の範疇には入らないぞ、と気付いてご覧の有様となった。


 今すぐ助手席の扉を開いて転げ落ちてでも逃走してやる――。

 そういう選択肢が雪邦の頭に浮かばないこともなかったが、それを取らないのは、ひとえにどうも、貴戸が本当に何もかもを知っているような雰囲気を見せていたからだ。


 社長のデスクの中から社用車の鍵を引っ張り出し、「社長との話はもうつけてあるんで」とあまりにも迷い無く運転を始めた姿。

 どうせ大通りは混んでるんで、と言って取った進路は、まず現時点ですら雪邦には覚えきれない小路を通っている。実際に、夜に木霊するサイレンの音が、それが正解だったのだろうと告げていた。


 元々、雪邦は社長を頼りに<インセイン雑誌社>まで足を運んだのだ。

 そこで社長が倒れていた以上、次に寄りかかる対象を見つけなければいけないわけで――。


「……本当に、大丈夫なんですよね?」


 ラジオからはひっきりなしに交通情報と、それからこの集団パニックについての報道が流れてくる。

 雪邦はこの時間にどんな番組が流れているか知らない。しかし、今この噛みまくりで原稿を棒読みしている人はまず間違いなく予定外の仕事を今こなしているのだろうということはわかった。


 繰り返される言葉。

 原因不明。

 現在目立った被害なし。

 落ち着いて行動してください。


 雪邦の声は自然、震えていた。


 しかし、


「え? 何がっすか?」


 貴戸の声は対照的で。


「な――、」


 雪邦は絶句を通り越して、


「ちょっと!!! 本当に頼みますよ!!!」


 絶叫。


 一瞬遅れて貴戸は、ああ、と頷き。


「大丈夫っすよー。ダイジョブダイジョブー」

「か、軽すぎる……! 死んだら枕元に立って一生呪いますからね!?」

「雪邦くんは幽霊になった自分すら怖がってそうっすよね――、っと」

「ちょっと貴戸さん! それは偏見です、いくら僕でも実際なってみればまたそのときによって話は――」

「すんません、雪邦くん。ここで車は終わりっす」

「――え?」

「降りるっすよ」


 すう、と車が止まる。

 慣れない道を行くばかりで周囲の状況もよくわからなくなっていた雪邦は、そこに至って今、駐車場に自分たちがいることに気付いた。


「あの、ちょっと、心の準備が」

「こっからちょっと歩くんで、その間に準備してくださいっす」


 シートベルトを外した貴戸が、バタン、と車を降りてしまう。


 二秒。

 逡巡のち。


「お、置いてかないでくださいよ」


 雪邦も竹刀袋を片手に、車を降りる。


 周囲を見回すと、とにかくやたらに明るいことが最初に引っかかった。


 月も星も、それほどでもない。二人を照らす駐車場の、少しくすんだ街灯も、それほどの光量はない。


 では何がこれほど周囲を明るくしているのだろう。雪邦がその原因を探すと、


 海が、

 見えた。


 水の向こうに聳え立つ眠らない建物たちの光を、水面が反射して、現と鏡の二重灯となって夢のようにあたりを照らしていた。水面が空気にゆうらり揺れるたびに、粒子が存在を不確かにするように、落ちる影が揺らいだ。


「……あの、貴戸さん。もしかして、ここって」

「うん、際上市っす。じゃ、目的地はたぶん向こうなんで、ちょっと歩くっすよ」


 そう言って、気負いなく貴戸が足を踏み出すのを。


 がしっ、と。

 雪邦が止めた。


「ちょっと待ってください、まさか宇宙人ですか?」

「え?」

「ここ、貴戸さんが昼間に来たっていう公園でしょう!? コーヒー屋さんにUFOの話を聞いたとか言ってたじゃないですか!」

「……ああ~、まあ……」

「無理ですよ、無理ですからね! いくら何でも僕、腕が六本でコンクリートしか食べないみたいな宇宙人に竹刀で真剣勝負はできませんよ!?」

「……んん……」


 雪邦がまくしたてるのに、貴戸は困ったな、とでも言うように瞼を閉じ、腕を組んだ。


「……たぶんそういうのじゃないから、大丈夫っすよ」

「本当ですか!? あ、僕、いざってとどめの一撃の時に相手の口から寄生生命体が飛んできて身体を乗っ取られるやつも無理ですよ!? 大丈夫ですか!?」

「いやほんと、雪邦くんの想像力には脱帽っす」


 んん、と貴戸は唸ると、


「まあ、不安ならいいっす。正直頼りにしてたんすけど……、まあ、オレ一人でも何とかならないわけじゃないと思うんで」

「え?」

「車の鍵、渡しとくんで。えーと……、三十分かな。経ってもオレが戻ってこなかったら、これで一人で事務所なりどこなり戻ってくださいっす」

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってください」

「すんません、雪邦くん。ちょっと急ぐんで、もう行くっす」

「わかりましたよ!!! 行けばいいんでしょう行けば!!!」


 雪邦の大声が明るい夜に響く。

 遠ざかる音はしかし、その水面は音を跳ね返えすことだけを忘れてしまったのか、小波に紛れ白く消えてしまった。


 一瞬、貴戸は目を大きく開くと、次には細めて笑って、


「サンキューっす」

「ていうか僕、まだ免許持ってないですし……」

「ありゃ、そうなんすか。悪いことしたっすね」


 ほんとです、という言葉を、なけなしのプライドで飲み込んで、雪邦は海の方へと向かう貴戸の半歩後ろを追いかけていった。


 際上市の海沿いは、広場のような公園になっている。

 自動車で通行できるのは、その入り口まで。ゆるやかな下り坂を降りていくと、すっかり海辺に出る。


 不気味なくらい静かだ、と雪邦は思う。


 音が、まったくないわけではない。

 海の向こうから聞こえてくる生活音は、それと認知しないまでも確かに大気を揺らしているし、今になっては 鳴りやまないサイレンは、むしろ<インセイン雑誌社>にいたときよりもずっと多く、やかましく耳に届く。


 にもかかわらず、この近辺にだけ音がさっぱりない。

 沿道を歩く人影は、ない。


 貴戸が昼に来たときに話を聞いた、移動販売の姿もない。

 打ち棄てられたように誰の気配もない広場は、しかし対岸に浮かぶビル街の明かりに及び、貴戸と雪邦の影を色濃く伸ばしている。


 どこかで、これを見たことがある、と記憶を探った雪邦は、すぐに一つの景色に思い当たる。


――映画館の、観客席みたいだ。


「で、貴戸さん。ここにいるんですか――?」



「あら、何がかしら」



 聴覚、脊髄、反応――。


 構えるまでに秒と待たない。

 雪邦は声のした方に向けて、竹刀の切先を向けていた。

 正確に、音源から推察した喉元にはっきりと狙いを定めて――。


「こんばんは。昼間はどうもっす」


 その声の正体は、少女だった。

 貴戸が話しかけた先、雪邦が竹刀を向ける先――。

 いくらか離れた場所に、そこには、アッシュブロンドの髪の、少女が立っている。


 肌の色は抜けるように白く、都市の光を跳ね返し、夜霧のように薄ぼんやりとした輪郭で佇んでいる。


――この子が、貴戸さんの言う犯人?

――いや、そうか。昼間に会ったって言った、あの。


 少女は貴戸の挨拶に微笑で応え、のち、雪邦を見て顔を曇らせた。


「折角いい夜なのに――、私、何かしたかしら?」


 その言葉に、居心地の悪いものを雪邦は感じる。


 華奢な少女だ。

 線が細く、硝子のように脆い印象を受ける。


 雪邦自身ももちろん華奢の部類に入るのだが、その彼から見ても、儚げな印象の強い姿だった。

 雪邦の予想では、もっと見るからに悪者が出てくるはずだった。全身黒ずくめのローブの集団や、全身に緑色の触手を移植した奇人や……、それほどわかりやすいものでないにしても、いかにもな外見の人物が。


 予想が外れた。

 剣先を向けていいものか――、動揺しながら、しかし今のところは目線も切らずに、雪邦は貴戸に尋ねる。


「貴戸さん、本当にこの人が?」

「そうっす」


 貴戸は頷き、それとは反対に少女は小首を傾げる。


「あら、何のはな――」

フーダニット(だれがやったか)はやめるっすよ」


 貴戸が相手の言葉を遮る。


「どう見たって明らかっす。そんなつまんないこと喋ってたら、時間がもったいないっすよ」

「明らか?」


 少女は目を丸くする。


「明らか? 一体何の話?」

「……面倒っすね。それ、続けるつもりっすか?」

「あの、貴戸さん」


 雪邦が口を挟む。


「すみませんが、簡単でも説明をお願いします。僕だって、確証がないまま女の子に剣を向けるのは無理です」

「え?」

「え?」


 しかし、その言葉に、貴戸は疑問の声で返した。その意味が分からず、雪邦もまた、疑問の声で返すが、貴戸は本当に、予想外、信じられない、という顔で雪邦を見ている。


 ひょっとすると、何かものすごく簡単な推理を自分は見逃しているのでは、と不安になった雪邦にかけられた貴戸の言葉は、



()()()()()()()()()()()()()()

 他に誰がいるんすか?」



「――――は」

「突然起こった集団パニック。繋がりのある都市伝説。調査先で見かけた、関連書籍を読み込んでいる人物。これだけ揃ってて、何を疑うことがあるんすか?」

「…………いや、いやいやいや!」

「しかもわざわざそれらしいところに向こうから現れてくれてる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 容疑者が一人だけのミステリでフーダニットなんか、時間の無駄っす」

「そ、」


 そんな無茶苦茶な、と雪邦は言おうとした。


 言えなかった。


「――運命、ね。ロマンチックな言葉だわ」


 少女は、微笑んでいた。


 貴戸のその、無茶苦茶な言い分を肯定するように、


「ええ、そうよ。この騒動の犯人は私」


 仄暗く。




「異界の魔女、シャローズ。


 ――端的に言って、この世界を侵略しに来たの」




「――魔女?」


 その言葉を、雪邦は上手く呑み込めない。

 ただ、かろうじて、こう思う。


――異世界オカルトには、不似合いな言葉だ。


 オカルトジャンルで言う異世界物とは、独自の宗教・科学・言語の発達したパラレルワールドであるとか、奇妙な怪物が闊歩する地であるとか、現実との理不尽なズレを恐怖する分野であると雪邦は認識している。


 だから、魔女という言葉は不釣り合いなのだ。


 今やそれは、あまりにも文化的に浸透し過ぎている――。

 魔術。それが始まりが疑いようもなくオカルトであったとしても、現代においてはそれはある程度整理されたファンタジー文化だ。想像可能なものは、折り合いがつくものは、怖くない。


 雪邦の、震えが止まった。


「単純な計画だわ。

 私の魔術で、異界からこの世界に移動する。その後、異世界からどんどん精神体をこの世界に呼び出すの……、あなたたちの、身体を憑代にね。

 召喚した直後は記憶の混濁が見られるけれど、何の問題もないわ。あなたたちは同族の身体を簡単に攻撃することはできないし、迷っている間にどんどんあなたたちの人格は、私たち異界の民によって塗り潰されていく。

 最後には、あなたたちは一人も残らず、私たちだけがこの世界で生きるようになる。そういう計画」


「――――貴戸さん」


 雪邦は、すう、と一足を音もなく踏み出す。

 透明な空気の流れの中、一つの色も残さないような、美しい動作で。


「よくわかりました。僕を連れて来た理由。

 斬ります――、と言えればいいんですが。今は竹刀ですので。取り押さえます」


 言いながら、片目だけで視線を送る。


 しかし、貴戸はそれに目線を返すことなく。


「――貴戸さん?」

「……それ、嘘っすよね?」

「え――」


 じっと、魔女を見つめて、言う。




「魔術とか、そんなのあるわけなくないすか?」





*



 雪邦がやる気になってくれてよかった、と貴戸は思う。

 相手のバックに何らかの団体がいた場合、さすがに自分ひとりだけで力づくの解決はできそうにもなかった。


 だけど、こうなったら多少の無茶は利く――、<インセイン>に掲載されているアクション小説のような記事は、大体が雪邦の実体験リポートであると、貴戸は知っている。


 後は、探偵役に徹するだけだ。


「――なんですって?」


 シャローズ、と名乗った女はすう、と目を細め、貴戸を正面から見つめる。

 貴戸はその視線をと食い違うように、瞳をぼやかした。ぶれた視界の中で、シャローズの形だけがぼんやり夜に浮かぶのを捉える。


「魔術なんてあるわけない。そう言ったんすよ」


 貴戸は平然と、シャローズに言い放つ。

 反応は、雪邦の口から放たれた。


「ちょ――、ちょっと待ってください。貴戸さん、あなた自分で犯人はあの魔女だって……」

「確かに、オレは犯人はこの子だっていったっす。でも、魔術師がどうたらなんて一言も言ってないっすよ」

「それって、」

「つまり、この子は魔女でも何でもなくて、単に集団パニックを引き起こしたはた迷惑な一般人だってことっす」

「一般人、ですって?」


 シャローズの声音から、怒気が漏れる。

 対峙する貴戸はあくまで冷然として、それを受け止める。


「そうっす。君は単なる一般人っすよ」

「――頭が悪いのかしら? こんな状況、魔術以外の何物でも起こせるわけがないでしょう?」

「そうっすか?」


 ぴん、と貴戸は人差し指を立てて、言う。


「もっと単純な答えがここにはあると思うんすけど。――たとえばそう、催眠術、とか」

「さいみんじゅつ?」


 驚きの声を上げたのは雪邦。


「ちょ、ちょっと無茶じゃないですか、それは」

「どこがっすか? 魔術よりもずっと説得力のある推理だと思うんすけどね」


 貴戸は言葉を紡ぐ。

 その間に、一度もシャローズと目を合わせることはない。

 つまりは、警戒だった。


「集団パニックと都市伝説は親しい関係にあるっす。というのも、噂の拡大には当然集団と恐怖が伴うからっすね。

 噂の初めは何でもいいんす。実際にあったことを誤解した形でも、純粋な嘘でもいい。ただそれが、怖がりの人間に伝わったとき、そのうちの誰かが幻覚を起こすことがある。これは別に、特殊なことじゃないっすよ。恐怖心の強い人間っていうのは、物事の背景に理由を探すんす。それが説得的かどうかについては深く考えたりせずに。……今の雪邦くんもそうっすね。どうしてそんなにすぐに、魔女なんて突拍子もない情報を信じたりしたんすか?」

「う」

「今回の<異世界症候群>の騒動も、このパターンなんすよ。

 自称魔女の君は、最初に一人の人格を、催眠術で塗り替えたんす」

「そんなことが――?」

「できるんすよ、雪邦くん。

 人の精神の摩訶不思議なるかな――、なんてしょうもない言葉に逃げるつもりこともできるっすけど、最初の一人だけなら、いくらでもやる術があるっす。例えばわかりやすい例として、薬物を使うとか」

「や――!?」


 言葉を失う雪邦に、貴戸は続ける。


「実際のところどうしたかは知らないっすけどね。

 だけど、雪邦くんだってオカルトに詳しければちょっとは伝聞したことあるんじゃないすか? 民俗宗教でシャーマンの役を背負った人物が扱っていた霊草が、実際には強力な幻覚作用を持っていたとか、そういう話を」


 あ、と思い当たったように雪邦は声を上げる。


「人間の精神ってのは柔いもんす。ちょっと変に外圧を加えてやるだけで曲がるもんなんすよ。……で、ここでは君を、便宜上催眠術師として扱わせてもらうっすよ」


 シャローズは、答えない。

 しかし、ふつふつと心中に湧き上がる怒りを抑え込んでいるように、眼光は強くなっていた。


「最初の一人の精神を催眠術で置き換えた君は、次にはインターネットを中心に<異世界症候群>の噂を広めたんす。もしかすると、追加で手ずから二、三人ほど……、昼間の司書さんなんかもそうかもしれないっすね。催眠術で架空の人格を置き換えた。

 そして後は、流れに任せるままだったんす」

「え――?」

「自分はここにいるべき人間じゃない、っていう気持ち、案外とありふれたものっすよ。集団パニックに発展したのは、この<異世界症候群>っていうのが、人々の願望に合致する形の都市伝説だったからっす」


 首を傾げる雪邦に、貴戸は説明を重ねる。


「根本的に、違う世界に行きたいっていう気持ちは多くの人が抱えてるものなんす。異世界に行く方法、なんてオカルト記事、雪邦くんだって腐るほど読んだっすよね? 何ならオレ、書いたこともあるっすよ」

「え、ええ」

「降霊会に訪れた怪奇主義者は必ず霊を見る――、それは奇術を暴く気がないからっす。今回の集団パニックは、そういうことなんすよ。

 どこか別の世界に行きたいと思っている人たち。その心の隙間につけこむ形で生まれた<異世界症候群>という噂が、この大騒動を引き起こしたんす。細かく見ていけば、たとえば体験者の実在、異世界からの来訪者との接触可能性等がパニックを助長したと言えるんすけど――、」


 そこで一度、貴戸は言葉を切る。そして、シャローズへ向け、


「ディテールの解説は、いらないっすかね。これがオレの提示するハウダニットどのようにしてやったかっす。何か君から、反論はあるっすか?」

「反論、ね。何もかもよ。的外れだわ」

「ふうん、」


 貴戸はシャローズのその、吐き棄てるような言葉にも動揺することなく、


「そっすか。認めないっつーんならそれでもいいっすよ。雪邦くん、お願いするっす」

「えっ?」

「……えっ、じゃないっすよ。さっき雪邦くんが自分で取り押さえるって言ってくれたじゃないっすか。でも、重ねて言うけどその子は魔女なんかじゃないっすからね。穏便にお願いするっすよ」

「え、ええ」


 雪邦は動揺しながら、竹刀を構え直そうとして――、


「――いや、」


 それを地面に置いた。

 いらない、と。そう判断した。貴戸の言うとおりであるなら、目の前にいるのは催眠術だか何だかを使うだけの、普通の少女。そしてこの手の技法は、種がわかっていては通用するものではない。


 獲物は要らない。

 できるだけ相手を傷つけないように、無力化しよう。


 そう決めた雪邦は、無手のまま少女へと歩みを進めるが――、


「――――するな」


 何事か、少女は俯いて口にした。


 その言葉を、次は拾おうと雪邦は耳を澄ましたが、その必要もないほどの大声で、少女は、


 叫んだ。



「――――馬鹿に、するなぁっ!」



 ぱんっ、と何か、火薬のようなものが弾ける音がして、雪邦の視界が潰れた。


 光。

 閃光。


 激しい光が、瞼越しに眼球を焼く。雪邦は腕で顔をカバーすると、聴覚だけを頼りに、周囲の状況を確認する。


 ずるり、

 ずるりずるりずるり。

 べた、

 べたべたべた。


「――――、貴戸さん!」


 粘性の何物かが、地面を這いずる音。

 雪邦は咄嗟にそれと距離を置くべくして、後ろ足に下がり走る。


 数秒も経たぬうちに、背中に肉の感触。

 振り向きざまに雪邦はそれを殴りつけようとして、


「雪邦くん!」


 すちゃり、と。

 貴戸の声とともに何かを顔に装着された。


 恐る恐るに瞳を開くと、視界が黒く染まっていることに気付く。

 サングラスをかけた貴戸が、目の前にいた。


「一応、発光物体の話があったんで持ってきたんすけど……、備えあればってやつっすね」


 二人分、用意周到だ。

 雪邦は身体を反転。自分が逃げて来た方、つまりはシャルローズのいた方を見た。


「――なんですか、あれ」

「さあて、幻覚じゃないっすか?」

「冗談でしょう?」

「冗談じゃないっすよね」


 空中に、巨大な光の玉が浮かんでいる。

 直径にして、目測四メートル程度。ビガビガと色彩を目まぐるしく変えて激しく発光する姿は、虹の美しさには程遠く、単にその波長の不安定さを露わにしているに過ぎなかった。


 その球形から、幾本もの触手が伸びている。

 爬虫類の尾のようにも、特殊な魚類のようにも、長大な蠕虫のようにも見える。表面に茶褐色の分泌液を滴らせ、地の上を這いずっている。


 それらは、シャルローズから、貴戸と雪邦へと向かい、迫り来ていた。


「どうします?」


 不思議と、落ち着いた声音になって、雪邦は言った。

 それに対して、どこか震えた声で貴戸が答える。


「いやあ、オレはあれ、やっぱり幻覚だと思うんすよ。催眠術で。突っ込んで確かめてきたいんすけど」

「それを見せられる方の気にもなってもらえませんか?」

「ま、実際問題あれが何らかの実体アリのトリックな可能性もあるっすからね。流石にしないっすよそんなこと」

「…………貴戸さん、この期に及んでまだあれが魔女だって認めない気ですか?」

「自分でもちょっと頭おかしいと思うんすよね」

「まあいいですけど。とにかく何か秘策をください。そういうの、貴戸さんの担当でしょう」

「そうっすね……、自動車まで逃げ帰ってそこからカーアクションとかどうっすか? 猛スピードであれに突っ込んで、屋根の上から飛んだ雪邦くんがあの光の玉をぶった斬るんす」

「非情に魅力的な提案なんですけど……、残念ながら僕は人間なのでそんなことはできそうにもありません」


 間抜けた会話をしている間にも、触手は侵食するように彼らに迫っている。

 その速度は段々と上がっていく。初めは歩くような速度で退いていた二人だが、今になってはとうとう背中を向けて走り出さなければいけないような状況に陥り始めている。


「じゃあ、一つだけ」

「ありますか」

「ちょっと試してみて、大丈夫そうだったら雪邦くん、突っ込んでくださいっす」

「え、」

「行くっすよ――!」


 方向転換。

 素早く駆け出した貴戸は、触手に今にも当たる距離まで接近すると――、


 ぱん、


 と。


 一つ、両手を合わせ打って、


「……ダメっすか」


 あえなく、何の効果もなく、触手に絡め取られた。


「ええ――!?」


 驚きの声を上げた雪邦は、しかし不運にも、不注意にも、貴戸に釣られて同じ方向に走り出してしまっていた。


 何なんだこの人は――、恨み言が脳裏を過ったのも一瞬。とにかく何とかしないと二の舞なる。今から反転しても逃走は間に合わない。ならば、前に――、


「うえぁっ!?」


 跳んだ。

 触手を飛び越し、しかし着地先に安全な場所はない。踏んだのはぬるりと滑る別の触手の表面。


 一瞬でも足を止めれば絡め取られる。しかし走り抜けようにも足場がひどい。

 結果として取ったのは、少ない回数で距離を稼ぐという手段で――、


「う、おおっ」


 八艘飛び。

 触手を跳んで、飛んで、凄まじい距離を、夜を、雪邦は越していく。


 自身の土壇場の身体能力に驚きながら、しかしこれにも終わりが来ることは理解できる。一度でもミスをすればそれで終わり――。考えろ、この場を切り抜ける方法を。


 この魔術を打ち破る方法を。


 ヒントは――、ヒントは、見当たらない。

 財布の中に入れたお守りが突然光りだして自分を助けてくれるなんてこともない。


 貴戸の行動を思い出す。

 あのとき、彼は何をしようとしていた? 何の効果もなく終わってしまったが、そこには確かに意図があったはずだ。流石に幻覚だと思って突っ込んだなんてことは考えたくはない。


 彼がしたのは、拍手。

 たったそれだけで何を――、


「――――あ」


 思い出した。

 <インセイン雑誌社>での一幕。


 社長の弟。

 彼が社長を気絶させた方法。


 両手を、鳴らし打っただけ。


 ――柏手。

 ――一か、八か。

 ――先駆者は博奕に失敗しているとしたって。


「今は、それ以外には――!」


 苦し紛れ、文字通りの一手。


 しかし、それだけで。


「――――!」

「――――!?」


 道が。


 消えたわけではない。

 ただ、動きが止まった。光球も、紫と緑を混ぜ合わせたような奇妙な色で停止する。


 ここしかない。

 今や地に満ちたその触手の隙間を縫うようにして、雪邦は走る。


 その手に得物はない。

 しかし接敵さえすれば、徒手であれ負ける自分ではない。


 頬切る冬の風に、奇妙な熱を感じる。

 あの怪なる球体が熱を持っているのか。しかし今の問題はそこではない。ただ、あの、球体の下に照らされた魔女を打ち倒すべくして――、



 目が合った。

 泣きそうな、瞳と。



 これまでにないスパークが雪邦の頭を巡る。


 魔女の危険性。

 非現実的な光景。

 貴戸の言葉。

 泣いている少女。

 幼少の記憶。


 泣いてる子供を、殴るべきか、否か。


「ん、お、お――!」


 漏れ出たのは、気合の声ではなく、ただ悩ましげな一人の青年の苦しみの声であり。

 結局、



 ぱん、



 と。


 握りしめた拳は、目の前に開き。

 子供だまし、というより猫だまし。


 格下に使う技じゃない。後悔が襲い来るもすでに遅く。技自体は上手く決まり、ぎゅっと目を瞑った無防備な少女を前に、しかし雪邦が何か危害を加えられるわけもなく。


 正直な話、叫び声でも上げて何もかもめちゃくちゃになってくれ、と思ってしまうような状況の中で。


「――――え?」


 少女が、ふらり、と。


 目を瞑ったまま、倒れた。


「え、ちょ――」


 雪邦は驚き、その肩をつかむ。

 しかしその全身からは力が一切感じられない。へなへなと、崩れ落ちていく身体を、雪邦は薄く力を入れて支えるが、結局そのまま地に倒れ伏してしまう。


「……うん?」


 一体何が。

 周囲の様子を見渡しても、何かが起こる様子はない。

 というより、少しずつ球体が縮まり、光を弱めている。


 状況が呑み込めない。


「終わった……、のか?」

「ええ、まったくお見事な解決です」

「――!?」


 唐突。

 背後から声。


 雪邦が俊敏に振り向くと、そこにはつい先ほど、見た顔がいる。

 たれ目に、泣き黒子。


「社長の……」

「ええ、失礼ですが後をつけさせてもらいました」

「な、」

「一度お二方に改めて挨拶を、と思いましたら面白い話が聞こえたものですから、つい」

「つい、って」

「私もこう見えて、あの兄の弟なのです。わかるでしょう?」


 一瞬、その言葉はものすごい説得力を伴って雪邦に響く。


「はあ……」

「いやなに、実際に現場に来たら怖くてまるで立ち入れなかったんですがね。随分おつかれのようですから、後始末くらいは私が担当しようかと」

「あ、いや。そんなご迷惑は――、」


 言葉の先を、雪邦は紡げない。


 ぐらり、と視界が揺れたと思った。違う。地面が近い。揺らいだのは身体だった。

 意識に靄がかかり始める。安心して、疲労が急に出たのか。それにしてもこれは以上なんじゃないか。何とか起き上がろうとしても、腕に力が入らない。瞼が重力に従いゆっくりと閉じられていく。


 声だけが、聞こえるようになる。


「ええ。随分()()()()()()()()()()()――。

 後のことは私に任せておきなさい。二人の若き、怪奇探偵たちよ」


 その言葉の意味を考えているのか、考えていないのか。

 自分でもわからないまま、雪邦は意識を手放した。



*



――結局、あれは何だったんですかね。


――幻覚っす。


――マジですか。……マジで言ってるんですか。


――逆にそれ以外何だと思うんすか?


――そりゃもう……魔術?


――自分で言ってておかしいと思わないっすか?


――そういうあなたこそ。


――まあ、正直。

――でもまあ、ここまで来ると病気っすよね。

――自分でもどうしようもないっす。信じられないんすよ、オカルトって。


――はあ、まあ。

――それならちょっとした思考実験として聞きたいんですが。

――仮に魔術が存在する世界でこの事件が起こったとして、真相は何だと思います。


――お。

――上手い攻め方っすね。


――でしょう。


――そうっすねえ……。じゃあまあ、一番収まりのいい話を。


――おお。


――まずもって、<集団パニック>の方は、本当にただのパニックっす。


――いや、あの。


――魔術があるとしても、っすよ。


――え?


――ずっと引っかかってたんすよね。だからオレも、催眠術と睨んだんすけど。

――被害なし、って。


――それが?


――ありえないっすよ。

――仮にあの子の言うとおり異世界からの精神体を上塗りしたとして。

――侵略者がそんなに大人しくしてるっすか?


――いや、でも。

――記憶が混濁してるとか、何とか。


――それならなおさらっすよ。

――何をどうしたら、自己すら曖昧な人間たちが全員大人しくしてるんすか。


――う。


――だからあれは、一人が統率してたんす。

――催眠術か、それともそういう、架空の人格を生み出す魔術だかは知らないっすけど。


――ううん。

――じゃああの、光る球は?


――あれは魔術っすよ。


――あ、そこは認めるんですね。


――そりゃそうっす。あんなん魔術以外のなんだっつーんすか。

――予算いくらの映画っすか?


――まったく僕も同感です。

――現実に関しては、同感じゃない人がいるみたいですけど。


――だから、筋書きはこうっす。

――虚舟の伝承のとおり、際上市は異界に繋がる土地だった。

――そこに一人の、魔女が現れる。

――彼女は催眠術か、それとも別の人格を人に植え付ける魔術か、そういうのを使って<異世界症候群>を流行らせた。

――異世界から精神体が、なんていうのはハッタリっす。

――異世界から来たのは、あの魔女一人なんすよ。


――動機は?

――そんなことをした、動機は何なんです?


――その子、泣いてたんすよね?


――え?

――ええ、はい。


――なら簡単っす。

――帰りたかったんすよ、その子。


――…………。


――際上市に残る虚舟の伝承には、異界から来た人間が帰る描写がないんす。

――東京に流れ着いた、異界の魔女。

――彼女は、自分の元いた世界に、帰れなかったんすよ。


――それが、どうして。


――寂しい子供の、お人形遊びっすよ。

――元来た世界には帰れない。

――なら、自分の手で、この世界を故郷に作り変えてしまおう。

――そういうホワイダニット(なぜおこなったか)だったんじゃないっすか。


――そんな。

――僕は、なんてことを。


――言っとくっすけど。

――これは想像っすよ。君が気に病むことはないっす。

――ていうかこれが正解だったとしても、邪魔されて文句は言えない迷惑ぶりだったと思うっすけど。


――それでも。

――僕は、泣いている子供を。


――泣かしときゃいいんすよ。

――ちゃんと誰かに止めてもらえるのも、子供の特権なんすから。


――……ん、


――ま、オレもちょっと言いすぎたかなー、って後悔してるんすけど。


――ちょっと。

――話が違うじゃないですか。


――金髪心は複雑なんす。


――なんですかそれ。

――黒髪心は単純とでも言いたいんですか。


――いや、そんなことは言ってないっすけど……、

――おっと、そろそろ消灯時間っすよ。


――あ、もうそんな時間ですか。


――そうっす。

――架空推理はここまでにして、今日はゆっくり寝るっすよ。

――なんだかんだ言うまでもなく、昨日は密度の濃い一日だったすからね。


――そうしましょうか。

――…………ところで、一個だけ。

――さっきの思考実験を横に置いてみて。

――あなたは、現実のこの事件のホワイダニットは、どうだったと思います?


――さあ、さっぱりっす。

――でも幻覚っす。


――なるほど。

――明日、退院前に頭を診てもらうのをおすすめします。


――ご心配なく。

――その予定っす。



*



「あれ、雪邦くん」

「あ、貴戸さん」


 後日。


 <インセイン雑誌社>最寄りの駅で、二人は偶然顔を合わせた。


「雪邦くんも<インセイン>っすか?」

「はい」


 二人は並び歩いて、駅を出ていく。

 冬晴れの空はビルに切り取られて薄白く霞んでいる。


 あれから、一週間が経っていた。


「いやー、参ったすよ。あんだけの大騒動だったのに、大学はスケジュール通りに試験やるとか言うんすから……。雪邦くんとこもそうっすか?」

「いや、うちは別にそんな……。というか貴戸さんのところってこの時期が試験期間なんですか?」

「そうっすよー。あーもう、厄介な時期に当たっちゃったっす」


 貴戸と雪邦は、あの夜の後、病院の二人部屋で目を覚ました。

 慌ただしく動く病院で、簡単な検査だけを終えると、一日だけの入院期間も終わり、放り出された。


 誰がこの手続きをしたのか、貴戸はそれを聞き出そうとしていたけれど、どうも担当者がはっきりせず、結局まだ<異世界症候群>の後始末を行っている病院側に遠慮する形で、何もわからないまま二人は生活に復帰することになった。


 そして、復帰したのは二人だけではない。


 冷気の中、首をすくめたコート姿のサラリーマンが、次々にすれ違っていく。

 コンビニはおでんのノボリを掲げて、ひっきりなしに自動ドアを開閉させているし、通りから見上げるほとんどのオフィスビルの中には、人影を認めることができる。


 つまりは、元通りだった。


 東京に雪の予報が出て一週間後にはいつも通りの生活が戻っているように、すでに<異世界症候群>の起こした集団パニックは、ニュース番組の中にしか存在しない過去の出来事になっていた。


「寒いですねえ」

「っすねえ」

「今週が今年一番の冷え込みらしいですよ」

「げっ、オレ、今週末徹夜続きになりそうなんすけど」

「ご愁傷さまです」


 コンビニを通り過ぎて一本先の道を右に曲がる。それでもやや太い道路を歩いていくと、右手に公園の見える十字路に差し掛かる。さらに細っていく路地をまっすぐに入ると、古いビル群の前を歩くようになる。


 その中の一つに<インセイン雑誌社>の入るビルがある。


 三階まで上るのに、今度はエレベーターを使うことにした。

 しかしそれを待っている間に、あ、と雪邦が声を上げる。


「僕、トイレ寄っていきます」

「ういっす。じゃあ先行ってるっすね」


 三階のトイレよりも一階のトイレの方が綺麗だ。

 今のうちに済ませてしまおうと、雪邦は貴戸に背を向けた。


 洗面台で手を洗う。ハンカチで手を拭く。鏡の中の自分と目が合って、考える。


――あの子は、どうなったのだろう。


 そればかりがこの一週間気になって、今日はそれを訊きに来たのだ。


 社長の弟が、後始末をすると言った。となれば、社長は彼女がどうなったのか知っているだろう。メールや電話で訊くことも考えたが、事が事だ。直接、面と向かって答えを訊きたかった。


 トイレを後にして、三階に止まったままのエレベーターを一階に呼び戻す。

 ぽん、と音がして扉が開いて、乗り込む。


 三階までのわずかな時間。

 相変わらず妙に薄暗いというか薄汚れているというか、気味の悪いエレベーターだな、と雪邦は思う。普通に怖い。


 もう一度、ぽん、と音がして、エレベーターを降り、廊下に出る。


「あれ?」


 するとそこに、貴戸が佇んでいる。


「どうしたんです、貴戸さん? 社長いないんですか?」

「いやあ……、雪邦くん」


 貴戸は手で口を押えながら、言う。


「どうもオレ、さっき致命的な幻覚を見たみたいなんすけど」

「出た~、貴戸さんお得意の幻覚。現実ですよ」

「いや、間違いなく幻覚だと思うんすけど、この扉を開けたらもう一度幻覚を見そうで超躊躇してるんす」

「現実ですよ」


 もう一度、重ねて雪邦は言ったが、同時にものすごく嫌な予感が走った。


 この流れには覚えがある。ろくなことにならない気がする。ただでさえ雪邦は、この金髪の同僚の幻覚という言葉に反射的恐怖を覚えるようになってしまっている。


「ちょっと雪邦くん、開けてもらっていいっすか? オレ遠くで見てるんで」

「嫌です。貴戸さん開けてください」

「いやほら、順番どおりに行くっすよ。この間は雪邦くんの次にオレだったじゃないっすか。だから今度はオレの次に雪邦くんっす。それが平等ってもんっすよ、ほら」

「嫌ですよ僕は離れてますからもう一回貴戸さん開けてくださいいやちょっとなんでつかんでるんですか離してくださいよちょっといやほんとおねがいします」

「いやなんで逃げられると思ったんすか? 百歩譲っても同時入室じゃないっすか?」

「もうやだこの人ー! 一緒にいるとろくなことがないよー!」


 そしてがちゃり、と扉を開ける。


 そこには。


「ようこそ、<インセイン雑誌社>へ!」


 雪邦は、言葉を失った。


 そこには、少女がいた。


 アッシュブロンドの髪の。


「げ、」


 幻覚ですよね、と貴戸の顔を見ようとして、


「おや、貴戸くんに雪邦くんじゃあないか! ちょうどよかった、紹介しよう!」


 上機嫌な声がその機先を制する。

 その主は、この部屋の主。波打つ長髪を一つ結びにした眼鏡の男。


 にこにこ笑う社長。


「当社もそろそろ事業拡大に乗り出そうと思ってね――、このたび弟から、ああそうあいつ、なんだか君たちによろしくって言ってたぜ、っと、弟から紹介されたこちらの女性を受付兼事務員秘書とし雇うことにしたんだよ! 紹介しよう、こちらは――」


 ぺこり、と少女は頭を下げて、


 言う。


「先日よりこちらでお世話になっております、シャルローズと申します。貴戸さんに、雪邦さんですね。今後ともよろしくお願いいたします」


 にっこり笑った顔に、何の感情も読み取れなかったので、雪邦は泣き出しそうになった。そしてそれを嗚咽に出すまいとして、口を閉ざしていたため、一瞬、部屋に奇妙な沈黙が訪れたが、


「雪邦くん、」


 貴戸が、


「幻覚っすよね」


 雪邦は思った。

 やはりこの同僚、ものすごく頼りになるのでは――?と。


 そして、同調して、雪邦は思いっきり頷いた。


「ええ、間違いなく幻覚です」


 そして、シャルローズが首を振る。


「いいえ」


 横に。


「現実ですよ」


 東京。

 華やかなオフィス街。

 のさらに奥。

 の奥。


 太陽に見捨てられたようにじめじめと湿気の立ち上る、古臭いビルの一室に<インセイン雑誌社>という、怪しげなオカルト雑誌を発行している会社がある。




 そして、どうも、変なやつらばかりが集っているらしい。




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― 新着の感想 ―
[一言] ほんとうに面白かったです。読ませていただいて、ありがとうございました。
2018/01/22 02:31 退会済み
管理
[良い点] 異世界という題材にたいして切り込みを入れ た作りが私は楽しかった。 (作者様の思惑がどんなものであるのかは  わからないですが) 言葉は刃とよく言ったものです 否定も肯定も。 …
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