永井、手を洗う。
――人類は、科学技術、とりわけ医療技術の進歩により長寿化を果たした。
それでもなお不死を渇望した一部の研究者は研究を積み重ね、死を克服する技術を開発してしまう。
倫理的な抵抗が展開されるも虚しく鎮圧された。技術は多方面に応用され、遂に人々は先天的な不死を手に入れた。彼らは産まれ、生きて、そして生きなければならなかった。
これは、そのような世界の様々な場面を覗いたものである。
永井(30才・男)はオフィスを出て、昼食を買いにコンビニへ向かった。午前中のタスクはあらかた済ませたから、休憩をとる余裕があった。
永井はコンビニで調理済みの牛とライスを買った。未調理のものの方が大きく安価だったものの、永井は比較的裕福だったため、ここではいつも火の通ったものを買うのであった。
永井の両親は珍しいことに学校の教師であったのだ。一方、祖父母や曾祖父母は一般的で、みな精神科医として病院に勤めている。
永井は大学の古典の授業で習ったことがある。かつては教師より医師の方が重宝され、地位も高かったのだ。 人間がまだ死んでいた頃、彼らはあの手この手を使い生命をつなぎ止めていたのである。そのためには、特別な資格を有する専門家の助けが必要だったらしい。
今では健康や生命を維持するために薬剤を投与することなど、イメージすらできない。医師など産科と整形外科と精神科だけで十分であった。
永井にとっても、不健康とは、どこかの何かの痛みがいつもより長く続くことでしかなかった。 オフィスに戻った永井は、昼食を食べる前に手を洗った。すると部下であり大学の後輩である長宗我部がからかった。
「永井さん、まだ食べる前に手なんか洗うんですか。僕は子どもの頃父親によく言われましたよ。そんなのは古代人の儀式だって」
当然永井も手を洗う必要など感じない。しかし、教師である両親は「古代人の儀式」の専門家であった。
自分でも恥ずかしかったし、馬鹿にされるのも目に見えていたから、長宗我部はもちろん他の誰にも話したことはないが、永井は、トイレでも一々手を洗うのだった。