ルチア
左胸に刺青を彫った。赤い薔薇の刺青だ。
お姉様はこの場所を刺されて殺された。同じ傷を得る事はできないけれど、その代わりになればいいと思って。
胸に咲いた偽物の花は毒々しく色づいた。むせかえるような甘い匂いの錯覚を感じながら、私はこの薔薇とともに夜の世界で花を咲かせた。
* * * * *
「貴方がルクレツィア・フィオーレ様でいらっしゃいますね?」
「……ッ!」
その日やってきた客は、とうの昔に奪われた名前で私を呼んだ。服の上からでもわかるほどたくましい事以外にはこれと言って特徴のない男だ。彼は私を憐れむように見下ろし、小さく息を吐いた。
「貴族の姫君が、よもやこのような下賤なところに流れ着くほど落ちぶれるとは……」
「あら。その下賤なところに快楽を求めてきたのはだぁれ?」
「……私は違います。私は主人の命を受け、貴方を探していただけなのですから」
「主人?」
「高貴なお方ゆえ、このような場所でお名前を口にするのははばかられます。どうぞご自分の目でお確かめください」
男はそれ以上答えなかった。一晩一緒にいたものの、彼は私とは一定の距離を保って過ごしていた。それは娼婦という穢れに近寄りたくないからのようにも思えたし、その主人とやらに遠慮して自制しているからのようにも思えた。
近々主人が来るでしょう、男はそう言い残して朝日とともに帰っていった。……一体何だったのかしら。
その男の主人らしき客がやってきたのはその日の夜だった。
年は私と同じくらいか、少し上だろう。フードを目深にかぶり、白い仮面をつけた彼は道化師と名乗った。別の場所で見たらかなり怪しい風貌なのだろうが、娼館にお忍びでくる貴族の格好としてはそこまでおかしなものではない。それより私は、この男が従者を使ってまで私を探していた事のほうを怪しんでいた。この男は一体何者なの?
「久しぶりですね、ルクレツィア」
「え……? そんな、なんで……!?」
アルレッキーノは仮面を外して微笑んだ。空色の瞳が、優しげな笑みが、幼いころの面影と重なる。
「アルフレード、様?」
「今の僕はただのアルレッキーノです。どうかアルと呼んでください」
アルの手が私へ伸びる。けれど彼の指先が私の頬を掠めようとした刹那、アルは手を止めてしまった。悲しげに私を見下ろし、手を下ろしてしまう。
「ごめんなさい、ルチア。もっと早く君を見つけられたらよかったのですが……」
「やめてくださる? 貴方がただのアルレッキーノであるように、私もただの娼婦ルチアよ。ルクレツィアは一度死んだの。貴方がルクレツィアに対して何を言おうとも、ルチアには届かないわ」
「……そうですか。なら言葉を変えましょう。ルチア、僕はずっと君のような女性を探していました。……どうかこの愚かな道化師に、君と夜を過ごす栄光を与えてくれませんか?」
*
それからアルは毎日のようにやってきた。だが、彼は一度も私を抱こうとしない。私は決して安くはないのに、同じ時間を過ごすためだけにアルは大金を払っているのだ。
娼館に来たアルがする事といえば、私の絵を描く事だけだった。彼は私の絵を描きながら、六年の間にあった事を語った。ダヴィデがテオバルドと名を変えて神殿に行った事。ダヴィデは公には死んだものとして扱われている事。テオバルドが姫巫女の側近になり、アルが姫巫女の取り巻きになった事。テオバルドは神殿で悪の限りを尽くし、いずれ神殿を裁きの場に引きずり出そうとしている事。そしてアルはこの国の王位を望み、王権の回復のために神殿を潰そうとしている事。どれもが復讐のためだった。
私も仲間にいれて。私も復讐がしたいの。その言葉は自然と口からこぼれていた。アルは何も言わず、優しく笑って頷いた。
それから一年かけて、アルは私を身請けした。アルが所有する、森の奥の小さな屋敷。それが私の新しい城だ。数名の使用人と口のきけない護衛の男、そしてアル。私は彼らに迎えられ、屋敷の住人となった。
テオバルドとも再会し、アルとともに三人で復讐計画を煮詰めていった。三人そろっていた時にカテリーナ様が屋敷に来た時は驚いたが、アルがなんとかとりなしてくれたので大丈夫だろう。……というか、大丈夫でなければ困る。アルレッキーノが私とテオバルドと繋がっていた事が知られてしまえば、計画は破綻してしまうのだから。
「ねえアル、どうして貴方は私を抱いてくれないの?」
ある日の夜更け、いつものように筆を走らせていたアルに向けて私はいつも抱いていた疑問をぶつけた。
彼は私がルクレツィアだった時と同じように優しくしてくれるが、ルチアになってからのこの身体が彼の手に触れた事はない。この身がすっかり穢れてしまった以上それも当然だと思ってはいるけれど、少し寂しかった。
「やっぱり娼婦は嫌かしら?」
「……君は無自覚なんですね。その状態の君に無理強いするような事はできませんよ」
「?」
アルは小さなため息とともに筆を置いた。真剣な空色の瞳が私を見据える。
「君がどれほど変わっても、僕は君を愛しましょう。……ですが僕には、震える女性を手籠めにするような趣味はありません」
お気に入りの甘い香水の匂いが、何故だかその日は無性に鼻についた。
*
「ルチア様、気を落とさないでくださいまし!」
「え、ええ。そうね」
ある日屋敷にやってきたカテリーナ様は、力強くそう言った。なんでも、アルが姫巫女にうつつを抜かしているのは深い事情があるからで、決して姫巫女に鞍替えしたというわけではないんだとか。……そんな事、嫌というほど知っているのに。
カテリーナ様は私がルクレツィアだという事に気づいているのだろうか。そうでなければ、王太子である兄が娼婦を秘密の恋人として扱っている事を受け入れるどころか応援している事の説明がつかない。だが、さすがにそれを直接確認する事ははばかられた。
アルが姫巫女に侍っているのは、姫巫女を殺す理由作りのためであると同時にすべてが終わった後に姫巫女の正当性を主張するためだ。元婚約者の姉にうつつを抜かしている、という悪評を立てられる事を承知でアルはあの女の取り巻きをしている。カテリーナ様に説明されるまでもなく私はそれを受け入れているし、一番つらいのはアルのほうだろう。
カテリーナ様からしてみれば、私という恋人がいながら姫巫女にもいい顔をする兄の姿は堪え難いものなのかもしれない。それを見た私が傷つくかもしれない、と彼女が心配するのも仕方ないだろう。アルもカテリーナ様に事情を打ち明けるわけにはいかないだろうから、認識のすれ違いが起きるのは無理もない事だった。彼女がすべてを知るのは、すべてが終わってからで十分だ。
* * *
私はテオバルドの情婦で、テオバルドの野望のために姫巫女を殺す。けれどその計画を突き止めたアルがテオバルドと私を捕らえ、私達を姫巫女暗殺の罪人として裁くのだ。神殿の闇の一角を担っていたテオバルドが捕まった事で神殿が今まで犯してきた罪も白日の下に晒され、アルは神殿をも断罪して神権を衰退させ、王権の回復を図る――――それが私達の考えた復讐劇の筋書きだった。
「最後の確認です。……復讐なんてやめて、一生をここで過ごす気はありませんか?」
月明かりが眩しい夜、私の部屋に来たアルは珍しく絵筆を手に取ろうとしなかった。
「君を表舞台に出す事はできませんが、不自由はさせないと約束できますよ。後の事は僕とテオバルドに任せて――ッ!?」
アルの口を唇で塞ぐ。彼との初めての口づけは鉄の味がした。アルは目を丸くしたまま微動だにしない。唇についたアルの血をなめとりながら、私は彼を睨みつけた。
「今さらそんな事を訊かないで。私は復讐するために生きてきたのよ?」
いずれ神殿の人間に復讐すると誓って、復讐の日が訪れるまで生き延びると心に決めて。そのためならなんでもやった。生きるために心を殺して、多くの男に身を任せて。後悔なんてもう遅い。ここでアルの甘い誘いに乗ったら、今までの苦労が無駄になる。
「……すみません。つまらない事を言ってしまいましたね」
――――決行は一週間後だ。その日、私はすべてを終わらせる。




