ダヴィデ・ベッラヴィスタ
昔から綺麗なものが好きだった。特に風景。愛する人と美しい景色を眺めている時間が一番幸せに決まっている。隣にいてほしい女はもう決まっていた。ずっと俺は彼女の、彼女だけの最愛の人になりたかった。
花はそこまで好きでもなかった。だけど彼女の影響で好きになった。いつか素敵な花畑を作りたいと笑った彼女の夢を叶えたいと思った。それが俺の夢だった。色とりどりに咲いた満開の花畑を彼女とともに眺める。最高じゃないか。
そんな俺達に、フィオーレ公爵夫人は庭園の一角を俺達に任せてくれていた。娘と婿殿のためならお安い御用だと笑って。公爵はまだ気が早いと苦い顔をしていたが、俺達が真剣に庭いじりをしているのを見て次第に何も言わなくなっていった。
彼女とともに植物を育てる勉強をして、フィオーレ家の庭園に少しばかり手を入れて。ロマンチストな彼女に合わせて花言葉だってたくさん覚えた。人に贈ってはいけない花言葉を持つ花、うかつに贈るのは控えておくべき花言葉を持つ花。俺より詳しい彼女を不用意に傷つけないために、贈る花は花言葉の事も考えて選んでいた。花が大好きな彼女のために、自分で育てた花で作った花束も贈った。店で買うよりもだいぶ不格好な代物ではあったが、彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。
「ダヴィデ様。これがわたくしの気持ちです。受け取って、くださいますか?」
一緒に育てた、黄色とピンクのスターチス。その花畑を前にして彼女は赤い顔をしてそう言った。
スターチスは彼女が一番好きな花だ。その花の色が示す意味を知らないわけがなかった。永遠に変わらない、愛の喜び。知っていて育てていたのだ。そんな事、確認するだけ野暮だろう。
大好きなジュリエッタと眺める美しい花畑。その時間だけ切り取る事ができたなら、俺は死んでもよかった。あのころは本気でそう思えていた。
――――俺が自分の名前を捨てる事にしたのは、それからほどなくしてからの事だった。もうこの世界に誰より愛した女はいないし、何を見ても美しいと思えなかったからだ。
ジュリエッタ・フィオーレ。これから美しく咲き誇るはずだった彼女の時間は、小さく幼いつぼみのまま止まった。がくだけ残して枯れ朽ちた。知らない女によって彼女の花は開いたが、俺が見たかったのはそんなものじゃなかったのに。
* * *
「神官になりたいだと? 本気で言っているのか、ダヴィデ! お前までジュリエッタの後を追う事はないんだぞ!?」
「たとえジルが私の事を覚えていなくても、私は彼女を傍で支えていたいんです。絆も思い出も、また新しく作ればいいだけでしょう?」
「そういう事ではない!」
「何故認めてくださらないのですか、父上。フィオーレ家がもう没落してしまったからですか? フィオーレ家と縁づくまでもなく、我がベッラヴィスタ家は繁栄していけるからですか? ……私と彼女を縁づかせる意味はもうないからですか?」
「ああそうだ! お前の存在はいまだ公になっていないから、今ならまだ取り繕える! フィオーレ公爵家の令嬢と勝るとも劣らない婚約者を探し出してやるから、神殿にだけは行くな!」
この時はまだ、何も知らなかったから。名前を捨てる事もなく、ただ神官になろうと思えていた。
恋に酔った息子に対する父上の憤りはもっともだ。だが、一つ父上は勘違いをしていた――――父上がついた嘘を見抜けないほど、俺は愚かではない。
「父上。貴方は私に隠し事をなさっていませんか?」
「なっ……」
「今のジルは、確かに名門公爵家の令嬢ではありません。フィオーレ家はすでに没落してしまいましたから。ですが、奇跡の姫巫女となったジュリエッタと縁づく事で得られる益は、ただの貴族令嬢と縁づくよりも多いはずです。それに、奇跡の姫巫女は生家とは切り離されて考えられるのですから、フィオーレ家が没落していようがいまいが関係ないでしょう。……そもそも、神官になるという事は忌避すべき事ではありません。爵位を継がない貴族の次男や三男が神官になる例も多いはずです」
「……」
「もう一度伺います。父上、何故私がジルとともに神殿に向かう事をお許しくださらないのですか?」
父上は諦めたようにため息をついた。そして滔々と語り出す。“奇跡の姫巫女”、その真実を。
「え……?」
殺人、密売、窃盗、恐喝、誘拐。神の家にあるまじき行為の数々を、神殿はずっと昔から繰り返していた。そんな神殿が抱える一番の闇が“奇跡の姫巫女”だった。
父上は言った。神殿は人の欲望が渦巻く伏魔殿である事。フィオーレ公爵とともに神殿の闇を暴こうとしていた事。フィオーレ公爵がまとめた報告書が王に献上されたが、それこそジュリエッタの“奇跡の姫巫女”化を促したものである事。そして“奇跡の姫巫女”が体現する『奇跡』――――この世の穢れを浄化するというのは、人々の悪意や絶望、憎悪や憤怒などのどろどろとした感情を背負って死ぬという意味である事。どれもが信じられなかった。
「ジルは……もう、死んでいる……?」
「そうだ。ジュリエッタの死体を動かしているのは、ジュリエッタとはまったく関係ない魂だ。その魂の本来の持ち主がどういった人物であるかは知らないが、その魂が栓となって奇跡の姫巫女が吸い取った負の感情をその体内に抑え込んでいるのだ」
死んでしまったジュリエッタには、栓となるべき魂がないから。穢れしか残っていない彼女の身体に別人の魂を詰め込むなんて。
狂ってる。そんな事が何百年も前から繰り返されていたなんて。今までの奇跡の姫巫女達も同じように、死んでからも利用されていたのか?
そんな事が許されていいはずがない。そんな、そんな死者の覚悟と遺された者の想いを踏みにじるような行為がまかり通っていい理由なんてあるわけがない。
「これがお前の神殿入りを認めない理由だ。……これでわかっただろう? 仮に神官として神殿に行ったところで、あそこにいるジュリエッタはお前の知っているジュリエッタではない」
奇跡の姫巫女になった何人もの少女達。彼女達が奇跡の姫巫女になる以前の記憶を持たないのは、大規模な浄化を行った副作用ではない。最初から別人だからだ。
別人なのだから、仕草や表情に以前の面影は見られない。別人なのだから、趣味や考え方もまったく違う。出逢う前の関係に戻った、なんて生易しいものではない。そんな言葉では片づけられない。彼女達とどんな関係を築こうと、それは決して以前の絆の復元にはなりえないのだ。俺の愛したジルはもうどこにも存在しない――――俺はジルを、ジュリエッタを守れなかったのか?
「……父上。私が貴方の息子として受け入れられたのは、ジルがいたからでしょう?」
「それは……」
本当はベッラヴィスタ公爵に息子は一人しかいない。その一人息子とは俺の事ではなく、俺の従兄ミケーレの事だ。けれど多くの人々はそれを知らず、めったに表舞台に出ない病弱な“次男”ダヴィデは田舎で静養中だと思い込んでいる。本当は王都にいて、アルやジル、そしてルチアと日がな一日遊びまわっている事も知るものはほとんどいない。
国で一位、二位を争う名門公爵家、ベッラヴィスタ家とフィオーレ家は長年の好敵手だった。同じ家格、同じだけ続く歴史、隣り合った同じぐらいの広さの領土、同じぐらいの税収。競い合う相手としては十分すぎた。だが、父上の代でようやくその長年の小競り合いに終止符を打とうと、フィオーレ家と姻戚になる事を決めたのだ。
フィオーレ家には姉妹がいる。姉のジュリエッタはフィオーレ家を継ぐから、妹のルクレツィアをミケーレの嫁としてベッラヴィスタ家に迎えよう。父上はそう考えた。しかしそれが正式に王家とフィオーレ家へ打診される前に、ルクレツィアの嫁入り先が決まってしまった。
ミケーレはベッラヴィスタ公爵家を継ぐ身だ。フィオーレ家の婿になってジュリエッタと結婚する事はできないし、フィオーレ家を継いで女公になるジルがベッラヴィスタ家に嫁いでくる事もありえない。夫婦でそれぞれ公爵位を持つのも混乱を招くし、領地併合までするのは急すぎる。
そこで白羽の矢が立ったのが、先代当主の次男でありながら下女と駆け落ちした男の子供である俺だった。父を早くに亡くして母と二人で貧しい暮らしをしていた俺は母とともに急遽ベッラヴィスタ家に迎え入れられ、伯父の養子になって彼の事を父上と呼ぶよう言われ、そしてあっという間にジュリエッタの許嫁になった。
正式に社交界に出られる年ではない事もあり、俺の顔を知っているのはベッラヴィスタ家、フィオーレ家、そして王家の人間ぐらいしかいない。もともと俺はあまり人好きのする性質ではなかったし、貴族としてきちんと振る舞えるようになるまで人に会う事は避けられたからだ。俺自身にも引きこもりがちなところがあったのも大きいだろう。結局、俺は対外的には田舎の小さな町で暮らしている事になった。ダヴィデ・ベッラヴィスタは確かに存在しているはずなのに、ほとんどの人間が詳細を知らない子供というわけだ。
俺と母さんが貴族らしい生活をする事ができるのは、すべて他人のおかげだ。ジルの婿になると決められていたからだ。そのジュリエッタがいない以上、俺がベッラヴィスタ家に残るのも筋が通らない。
「……だが、私はお前を本当の息子のように思っている。お前にはきちんと幸せになってもらいたいんだ。ジュリエッタの幻影を追うのはやめてくれ。そんな事をしても、」
「いいえ、父上。やはり私は、神殿に行くべきだと存じます。……今回はたまたまフィオーレ家が制裁を下されたようですが、父上もまたフィオーレ公爵と同じく神殿の闇を暴こうとしていたお方です。フィオーレ家を蹴落とした神殿が、ベッラヴィスタ家に目をつけないとは限らないでしょう? それを食い止めるためにも、神殿内に抑止力があったほうがいい」
「……」
神殿の圧力に負けてフィオーレ家が没落した事で、ベッラヴィスタ家と王家は神殿を追及する事をやめてしまった。神殿からの報復を恐れたからだ。だが、だからといって神殿の悪事を見逃すなんてできるわけがない。
――――養父であるベッラヴィスタ公爵。義父になるはずだったフィオーレ公爵。二人ができなかった事は、代わりに俺が成し遂げてやる。
「私はこの時よりダヴィデ・ベッラヴィスタの名を捨てて、ただの孤児として神殿にまいります。身分も後ろ盾もない身軽な立場ならば、失うものもなく神殿の闇に立ち向かえますから」
「お前……」
「それに貴方は先ほど、私を実の息子のように思っているとおっしゃってくださった。……ですが、こうは考えないのですか? 婿入り先を失い、ベッラヴィスタ公爵の地位に目がくらんだ私が兄上を蹴落とすと。あるいは兄上がそれを恐れると。もしくは母が権力を欲する、あるいは母上がそれを警戒すると。……私は母の事はもちろん、父上の事も兄上の事も、そして母上の事も敬愛しています。ですから、無用な争いの可能性を潰すためにもベッラヴィスタ家から去りたいのです」
「……恩知らずが。そこまで言うなら好きにしろ。ダヴィデは死んだ事にする。今からお前は赤の他人だ」
諦めたのか、父上は苦々しげに呟いた。神殿暮らしが嫌になったらいつでも帰って来い、住み込みの使用人としてなら家に置いてやると、付け加える事も忘れずに。
* * *
病弱ゆえに田舎の領地で静養していたダヴィデは、許嫁の家の急な没落がショックだったのか病状が一変して、そのまま死んだらしい。葬儀は王都でしめやかに行われた。
自分の葬式は何やら不思議なものだった。母さん、父上、母上、ミケーレ、アル。真実を知っているはずの人達まで暗く沈んだ顔をしている。参列者のほとんどは知らない顔だが、ベッラヴィスタ家の関係者だろう。顔も知らない子供のためにわざわざ出向くなんて、貴族というのも大変だ。
「ずいぶんと笑えない茶番をやったものだな、ダヴィデ。ベッラヴィスタ家全体を巻き込んでこのような事をするなど、何が目的だ?」
葬儀を抜け出して俺に会いにきたアルは、今までにないほどすさんだ顔をしていた。……それもそうか。アルはルチアの許嫁だ。ルチアが処刑されて平気なはずがないし、挙句偽装とはいえ俺まで葬式を挙げたのだ。不機嫌にならないはずがなかった。
「そう怒るなよ、アル。これには深い事情があるんだ」
「……」
「俺はこれから神官になる。偽名も考えたんだ。テオバルドっていうんだぜ。これ、俺の本当の父さんの名前なんだけどな」
父さんの事は、もう顔もよく覚えていない。だから俺にとっての父さんは、母さんや父上が聞かせてくれる話で構成されている。なんでも父さんは正義感が強い理想家で、向こう見ずな男だったらしい。目的のためなら手段を問わない節はあったが、その“目的”が人の道を外れていたためしはないため慕われていたとか。
いずれにしても、愛のために名門公爵家の血筋と貴族の責務を捨てるような人だ。まあ、少し変わった人だったんだろう。そんな父さんと同じ血が俺にも流れているのは、今さら言うまでもない。けれど俺は父さんとは違う。父さんのように清廉潔白に生きる気は俺にはない。そんな俺が父さんと同じ名を名乗る事は、本当は許されないと思う。それでもこの名を名乗ろうと思った。これは戒めだ。善人だった父さんと比べる事で、自分がどれだけ堕ちたのか突きつけるための。
これから犯す罪の数々を悔いる気はない。神殿への復讐を誓った決意が揺らぐ事もありえない。けれど何かの拍子ですべてから逃げ出したくなった時、きっとこの名は俺を繋ぐ鎖になる。親と呼べる大人達、その誰にとっても恥にしかならない生き方をしてきたのだと自分自身に理解させる事ができる。ダヴィデはもうどこにもいない、いるのは罪に穢れたテオバルドだけなのだと。いざというときにはこれで自分を縛る事ができる。そんな時が来ない事を願うほかないが。
「ジルの後を追う気か? だがジルは、」
「へえ。お前も姫巫女の秘密を知ってるのか?」
尋ねると、アルはわずかに目をそらした。ルチアの死が発表された後に聞いたのだと、アルは小さな声で言った。
「知ってるなら話は早い。……俺は、“奇跡の姫巫女”なんて腐った制度を作ってジルを殺した神殿にも、それを黙認してきた国にも復讐するつもりだ」
「なんだと?」
父上もフィオーレ公爵も、守るべきものがあったから派手に動けなかった。だが、俺は違う。ベッラヴィスタ家との繋がりを絶った俺に、失うものは何もない。
神殿の腐敗? そんなもの、俺が残らず暴いてみせる。奇跡の姫巫女だって引きずり下ろす。その中に誰が入っているかなんてどうでもいい。死体が起き上がって、生者と同じように時を刻むなんて馬鹿げてる。それは摂理に反する行いだ。そんなものが神の奇跡であるはずがない。ジルが安らかに眠るためにも、早く亡骸を解放してやらなくては。
「今に見てろよ、アル――俺は必ず世界を変える」
変える? いや、違うな。俺はそう、あるべきものをあるべき形に戻すだけだ。
死人の身体に別人の魂が入って好き勝手やってるなんて、そしてそれを認める世界なんて、おかしいに決まってるだろう?




