ルクレツィア・フィオーレ
おとといは私の、八歳の誕生日だった。
お父様からは大きなくまのぬいぐるみ。お母様からはレースの手袋。お姉様からは真っ赤なリボン。ダヴィデ様からは素敵なしおり。そして、アル様からはぴかぴかのブローチ。いただいたものは全部、私の新しい宝物になった。
今日はアル様とダヴィデ様が遊びにいらっしゃる日だ。さっそくお姉様にいただいたリボンで編み込みを作ってもらって、アル様にいただいたブローチをつける。……アル様、褒めてくださるかしら。
お姉様も朝からずっとそわそわしていらっしゃる。きっとダヴィデ様に早くお会いしたいからだ。……むぅ。大切なお姉様がダヴィデ様に取られたようで少し悔しい。
お姉様は何度も姿見を確認して、不安そうに視線をさまよわせていらっしゃった。……ダヴィデ様のためにお姉様がこんなに心を砕いてらっしゃるのに、もしダヴィデ様がお姉様を悲しませるなら、この私が許さないんだから。
「大丈夫ですわ、お姉様。心配なさらずとも、お姉様はとてもお美しいですよ」
「本当? ダヴィデ様のお隣にいても、変ではないかしら?」
「もちろんです! だってお姉様は、私の自慢のお姉様ですもの!」
「……嬉しいわ。ありがとう、ルチア。ルチアも、わたくしの自慢の妹よ」
お姉様がぎゅーっと抱きしめてくれる。私もお姉様を抱きしめ返した。お姉様に抱きつく権利は私だけのものなのだ。ふふん。ダヴィデ様にはまだ早い早い。そう簡単に、ダヴィデ様なんかに私のお姉様は渡さない。
「ジュリエッタお嬢様、ルクレツィアお嬢様。お客様がお見えになられました」
「ありがとう、今行くわ。さあ行きましょう、ルチア」
「はい!」
お姉様といっしょに客間に行く。アル様とダヴィデ様だ!
「ごきげんよう、アル様」
「ごきげんよう、ルチア。今日もとても可愛いな。そのリボンもブローチも、よく似合っているぞ」
きゃー! 可愛いって! アル様が褒めてくださったわ!
……という反応は淑女らしくない。あふれ出そうなほどの喜びをそっと胸に秘め、おしとやかに微笑むのが立派な淑女なのだ。
「ありがとう存じます。アル様も、今日も素敵ですわ。そのタイは新しいものですよね? とてもよくお似合いです」
「ありがとう。これは先日、父からいただいたのだ」
大人の真似をしてしゃべるのが今の私達のお気に入りの遊びだった。こうしていると早く大人になれる気がして、ちょっと嬉しい。
「……ジュリエッタは、今日も綺麗だな」
「あっ……ありがとう、存じますっ……! ダ、ダヴィデ様も、今日も……えっと、その、と、とても凛々しくて……」
……あっ、ダヴィデ様、赤くなってる。お姉様も顔が真っ赤だ。
ダヴィデ様はあんまりこの遊びに乗り気ではないようで、アル様ほどにこにこしてくれない。だけどアル様がおっしゃる事には、「奴は照れているだけだ」だそうだ。ダヴィデ様は「恥ずかしくならないアルがおかしい」とおっしゃっているけれど、それはつまり私達の中ではアル様が一番大人だという事だろう。……大人なアル様と釣り合うために、私も早く大人にならないと。
アル様とダヴィデ様、そして私達姉妹は幼馴染みでそれぞれ婚約者同士だ。大人になればダヴィデ様がこの家に婿入りして私のお義兄様になり、そして私がアル様のもとに嫁ぐ事が決まっている。今からその日が待ち遠しくて仕方ない。だから、そういった意味でも早く大人になりたかった。
――――時間がこの時のまま止まってしまえばよかったと、後悔した時にはもう遅かった。
* * *
最近のお父様は帰りが遅い。お仕事がお忙しいそうだ。
お父様はよい友人であり忠実な臣下だと、国王陛下自らがおっしゃってくださるほどのかただから、きっとお父様でないとできない仕事があるのだろう。
何かお父様のお手伝いができないかと思って、お姉様と一緒にお父様の書斎に入った事があった。難しいご本がたくさんあったけれど、頭がよくてご本のお好きなお姉様でも読めないものばかりだったらしい。お姉様は「神様のご本かしら」と言っていたけど、内容はわからないそうだ。
ある日、お父様のお友達がいらっしゃった。お父様とお父様のお友達は、怖い顔で話し合っていた。
犯罪。早く止めなくては。腐敗の温床。赦されない。害悪。姫巫女。人柱。生贄。陛下にお話を。神殿を、これ以上のさばらせてたまるか。……聞こえてきた言葉の意味はわからない。もちろん単語の意味自体はわかるけど、お父様達が何のお話をしているのかはわからなかった。
お父様に直接尋ねるのは怖かったのでお母様に聞いたけれど、お母様も教えてはくれなかった。困ったように笑いながら、「誰にも言ってはだめよ」と言われただけだ。お父様の帰りが遅い理由も、お父様が今なさっているお仕事の事も、お母様はきっと知っている。けれどそれを私達に教えてくれる事はない。……私達だって、お父様のお役に立ちたいのに。まだ私達が子供だから、お母様もお父様も私達をのけ者にするのかしら。それなら、やっぱり早く大人になりたいわ。
「そういえば、フィオーレ公爵がよく父上と話しているな。私ですらかかわる事が許されないほど重要な話のようだが」
「フィオーレ公爵なら我が家にも来るぞ。父上と何やら話し合っている様子だったが、その話だろうか」
また別の日、我が家に遊びに来たアル様とダヴィデ様にお父様のお話をすると、二人も真剣な顔をしてそう教えてくれた。……どこも子供は仲間外れにされてしまうのね。なんだかとても寂しいわ。
「恐らく神殿に関する事だと思うのですけれど……まさか、アリーチェ様の事でしょうか」
「……可能性はあるな」
お姉様が目を伏せると、アル様が悲しそうに頷いた。アリーチェ様はアル様の妹君だ。けれど彼女はもういない。五年前に病気で死んでしまったからだ。
不治の病にかかってしまったアリーチェ様は、神官達の祈祷もむなしくそのままお隠れになられた。けれど、神殿関係者に暗殺されたのだという噂もあるのだ。それは私達のような子供の耳にも入るぐらい広まっている。もちろん神殿は否定しているけれど、疑惑の眼差しを向けている貴族も多かった。私はそういう難しい事はわからないのだけど、お父様も神殿にあまりいい感情は持っていらっしゃらないようだったし、その可能性もあるのかもしれない。
「……何故、神殿にそのような黒い噂が流れてしまうのでしょうね。聖なる場所であるはずなのに」
「人と神は別物だからな。神は尊い存在だが、神に仕える人までそうであるとは限らない」
思わず呟くと、ダヴィデ様が静かな声でそう言った。……ダヴィデ様の顔はとても大人びている。お姉様と一緒にいると誰より子供っぽくなるダヴィデ様なのに、こういう時はアル様にも負けないくらい大人の顔をするのが不思議だった。
「ルチア、お前も神殿には気をつけろよ。お前はアルの妻になる女だ。もしアリーチェの噂が……その、真実だったら、ええと……と、とにかく危険なんだ! もちろんアルも、ジルもだぞ!」
「気をつけるのはお前も同じだ、ダヴィデ。……もちろん、ルチアの事は私が守るがな? どうか安心してくれ、ルクレツィア。私がいる限り、お前を危険な目に遭わせはしない」
「アル様!」
アル様は流れるように跪いて私の手を取り、そっとキスをしてくれた。頬がかぁっと熱くなる。アル様、世界一かっこいい……!!
「えっ!? な、そ、そんな、急に、なんで、そういう……!」
ぽうっとしながら自分の世界に入り込んでいたせいではたから見れば落ち着いていた私とは対照的に、顔を真っ赤にしてわたわたと慌てふためいている人がいた。ダヴィデ様だ。……やっぱり、ダヴィデ様はお子様らしい。
真っ赤な顔のダヴィデ様はばっとお姉様を見る。お姉様も赤い顔をしながら、私達とダヴィデ様を交互に見ていた。ダヴィデ様はうんうんうなりながら、ぐるぐると周囲を見渡す。そしてアル様を睨みつけ、お姉様に向き直った。
「……俺だって……ジルを……え、ええと……ま、守る、から」
「そっ、そのお言葉だけで十分です!」
お姉様は今にも泣きだしてしまいそうだ。言葉少ななダヴィデ様だけど、その気持ちはちゃんとお姉様に伝わったらしい。そんな二人の様子を見て、私とアル様はくすりと笑い合った。
* * * * *
その日が来たのは突然だった。
神殿からやってきた神官は、お姉様こそ当代の“奇跡の姫巫女”だと言った。
奇跡の姫巫女。それは神の奇跡を体現する存在だ。地上における神の代弁者たる奇跡の姫巫女は、この世の穢れを浄化できる。そんな姫巫女に選ばれるのは名誉ある事であり、姫巫女となった少女は国中の尊敬と崇拝を一身に集めるのだ。しかしその明確な存在意義は不明瞭で、その内情を知る者は誰もいなかった――――神殿内の一部の有力者と、神殿の深い闇を追う者達を除いては。
お父様は反対した。お母様も首を縦に振らなかった。私も、お姉様が遠い人になってしまうようで怖かった。けれど神官は諦めず、奇跡の姫巫女の素晴らしさを説いた。
そしてお姉様は頷いてしまった。この身が民の、国の、世界のためになるならと。平和のために少しでも力添えができるのならば本望だと。家を継げなくなる事も、ダヴィデ様を裏切る事になるのも心苦しいけれど、どうかわかってほしいと。
生まれた時から生粋の貴族であったお姉様は、その身に課せられた高貴な義務の一環として“奇跡の姫巫女”になる事に何の抵抗も抱かなかった。たとえ“奇跡の姫巫女”になる事で世俗から離れ、記憶を失い、一生のほとんどを神殿で過ごす事になったとしても。
それでももしも“奇跡の姫巫女”が言葉通りの存在なら、きっとお姉様の決意は涙とともに受け入れられただろう。“奇跡の姫巫女”にだって一応の任期はあるし、望むのなら結婚もできる。たとえ記憶を失おうともお姉様がお姉様である事に変わりはないし、ダヴィデ様だってお姉様がただの公爵令嬢でなくなったところで諦めるような方ではない。お姉様の覚悟は、決して無碍にできるものではなかった。
けれどお父様は知っていた。お母様も知っていた。“奇跡の姫巫女”、その真の存在意義を。だから止めた。お姉様をそんなものにしたくなかったから。娘を世界のための人柱にするなんて、あの二人には到底受け入れられる事ではなかったから。
お姉様が賛成したのをいい事に、神官達は無理にお姉様を“奇跡の姫巫女”に仕立て上げようとした。私達は抵抗したけれど、王に匹敵するほどの力を持つ神殿長の一声によりもみ消されてしまった。
国王陛下も神殿に対して苦言を呈したそうだが、「貴族とはいえ責務から逃れられるとは思わない事ですな」「今までも数々の者達が“奇跡の姫巫女”の任を立派に勤め上げたというのに、いざジュリエッタ様の番になったら拒むのですか?」などと言われて引き下がるほかなかったという。人の世の権力など神の威光の前では何の役にも立たないと、私はこの時思い知った。
浄化の奇跡。そう銘打たれた儀式は、あろう事か私達の目の前で行われた。お姉様が奇跡の姫巫女に選ばれたのも、私達がその儀式を見せつけられる羽目になったのも、きっと神殿からの報復だったのだろう。神殿の闇を追い、その不正を暴こうとするお父様への制裁のつもりだったのだ。
お前のせいで長女が死んで妻と次女が悲しむのだと、神殿はお父様に言いたかったのだろう――――今となっては、それは逆効果だったと言わざるを得ないけど。あんな愚かな制裁さえされなければ、私という復讐者が生まれる事もなかったのだから。
お父様は儀式を妨げた罪で連行され、それを止めようとしたお母様と私も罪人の烙印を押された。お父様はそのまま処刑された。お母様は獄中で自害したという。美しいお母様が投獄された後にどうなったのか、想像する事はたやすい。まだ幼かった私でさえあんな目に遭ったのだから。
お母様と違って、私は淑女の嗜みを持っていなかった。まだ幼く逆に危険だからと、お父様もお母様も淑女の嗜みに触れる事を許してくれなかったからだ。もしあの時、私が淑女の嗜みを……苦痛を感じる間もなく一瞬で確実に死ねる毒薬を隠し持っていたらどれだけよかった事か。
幼くして生き恥をさらした私は、けれど死ぬ事を許されなかった。神官達の下卑た笑い声は今でも耳にこびりついている。事もあろうにあの男達は、私を罪人として処刑するのではなく秘密裏に奴隷として娼館に売り飛ばす事に決めたのだ。
公には、フィオーレ公爵家の娘ルクレツィア・フィオーレは内々に処刑されたものとして扱われた――――そうして名前と出自を奪われた私は、ただの娼婦ルチアになった。




