心の殻が破れる時
「颯太君」
もう黄昏に近く夜ご飯の時間になるのに、颯太君は何故かシロの根城の前に座り、心ここに非ずな感じでシロと戯れていた。
あたしの声を聴いて、ゆっくり何か考えていそうな顔をあげる。
シロがワンッと一声鳴いて、勢いよくあたしの方に駆けて来た。
あたしはシロをギュッと抱きしめる。くぅーん、とシロがあたしの腕の中で甘えた声を出す。健康的な暖かい生の匂いが鼻についた。
おもむろに颯太君に声をかける。
「どうしたの、何かあったの」
颯太君は首をかすかに振って答える。
「いや、何も。何となく、今日はここで朱里を待ってなきゃいけないような気がして、ずっと待ってた」
「そう」
あたしは何の疑問も感じずに素直にそう一言声を漏らす。走りたがってるシロをあたしの腕から解放してやる。
「お前、どうしたの。今日、遅かったな」
目をあげたら、颯太君の心配そうな視線とぶつかった。彼の心配が痛いほどに伝わった。
「ううん、何もないよ。ほら、あたしお母さん入院してるから。たまに病院に行って、お母さんの用事とかしてあげてるの」
「そっか」
二人の間に沈黙が落ちる。シロだけが嬉しそうに、あたしと颯太君の周りを小さな歩幅で翔ってる。
「あたしね、お母さんと仲良く出来ないんだ。お母さん、あたしの事嫌いなの」
何故か唐突に、あたしの口からその言葉が滑り落ちた。颯太君が頭を動かす気配がするけど、あたしは目の前に落ちてる一枚の桜の葉から視線を動かせない。シロがその葉をくんくんと嗅いでる。
「もう何年もね、お父さんとお母さんが別れてから。お母さん気が触れた人みたいになっちゃって」
「うん」
「あたしの所為で、馬鹿みたいに働いて身体壊しちゃった」
「うん」
颯太君は静かにあたしの話を促す。
彼の手がさり気なく、あたしの手を握る。
一瞬ビクッとしたけれど、すぐにその温もりに順応し心が慰められた。
颯太君が隣にいてくれる事で、すごく守られているような気持ちになった。
「お母さんに会うだけで、あたしまで死んじゃいたくなるの。あたしなんか生きてる価値ないんだって気持ちになって」
「ん」
「お母さんに対してどういう気持ちになったらいいか分かんないの。でも一緒にいたくないの。お母さんの事を考えるだけで、気分が落ち込んじゃうの。もう会いたくないの。死んで欲しいとまでは思わないけど、でも関わりたくない」
「うん」
「でも、そんな風に思う自分も好きじゃないの」
「うん」
「何かね、分かんないや。でも疲れちゃった。毎日毎日ヘラヘラ笑ってさ、あたし何のために生きてんのか分かんない」
颯太君の手の力が急に強まる。ギュッとあたしの手を上から握る。
あたしは、それでも颯太君の方を見る事が出来なくて、視線は目の前の桜の葉にとどまってる。あれ、シロどこ行った?
「俺は、朱里は朱里らしくいればいいと思う。お母さんのことだって、こういう気持ちになりたいからなるって、そんな人間器用じゃないだろ?どんな朱里でも、朱里は朱里だ。自分が生きてる価値なんて、そんなんハッキリ言える奴の方がどうかと、俺は思うね」
颯太君の手の力強さと温もりを感じながら、あたしは桜の葉を凝視したまま彼の言葉に耳を傾ける。
「朱里、俺さ」
ワンッ
あたし達の周りを楽しそうに走り回ってたシロが、出し抜けに大きな声で吠えた。そして、うぅぅと威嚇するような声を発する。
こんなシロの声は初めて聞いた。
あたし達二人はビクッとして、同時にシロの方に顔を向ける。
シロは小さな体を震わせて唸り続けている。




