分かりたくない
一時間前ーーいつも通りに桜の木の下に来ると、シロの寝床の前に颯太君があたしの鞄を抱えて力なく座ってた。
あたしの姿を見ると、颯太君はゆっくりと立ち上がって、あたしにシロが咥えてたキーホルダーをそっと差し出した。
キーホルダーには、シロの歯形がくっきりとついてる。
あたしは怪訝な顔で颯太君を見上げた。
彼は、おもむろにあたしの手を取ると歩き出した。
「えっ、ちょっと、何」
あたしは弱々しく抵抗するけど、彼の力強い腕には敵わない。
彼はためらう事なく一直線にどこかを目指して歩いた。
何も言わない。
あたしは抵抗する事を諦め、おとなしく颯太君に着いていった。
「ねぇ、シロに今日もう餌やったの?お腹空いてたら可哀想じゃん」
さり気なく颯太君に話しかける。颯太君は答えない。
「ねぇ」
あたしは尚も話しかける。もちろん無視。
・・・、何なの。
あたしはブスッとして、ドシドシとわざと力強く歩く。
パッと唐突に颯太君が足を止めた。
勢いづいてたあたしは、そんな急にとまれない。
颯太君の背中に顔面がモロにぶつかった。
痛い!鼻が!
あたしは顔をしかめて両手で鼻を押さえる。
颯太君も痛かったのか、少し震えながらあたしの方へ振り向いた。
目が赤くなってる。
「えっそんなに痛かったの。ごめん」
あたしはビックリして咄嗟に謝る。
颯太君は、あたしの謝罪には答えずに顔を道の端に向けた。
そこには小さな花束が置いてあった。
敢えて選んだのか、全部白い花だ。
純白の花束。すごく綺麗。
「何、この花束?意味わかんないんだけど」
あたしはもう訳が分からなくて、混乱した顔を颯太君に向ける。
颯太君は一言ボソッと呟いた。
「シロに」
・・・え?
颯太君の手の力が強くなる。
「シロ、昨日の夜、ここで」
そこで颯太君の声がとまる。
彼の目から、こらえきれない涙が一筋こぼれた。
・・・え?
あたしは、未だにその意味が分からない。
・・・。
ううん、分からないってより、分かりたくないんだ。
颯太君は潤んだ目で、真っ直ぐにあたしの目を覗き込む。
その目が全てを語ってた。
・・・。
あたしはゆっくり身体ごと花束の方に向き直る。
心が麻痺したように、何も感じられない。
現実が受け入れられない。
あの愛くるしい黄金の小さな身体の感触を手の中で感じて、震えが生じて来てる。
あたしの中で時間がとまる。
だって、あたし昨日あの子をはたいたよ?
あの子、悲痛な声を出して飛ばされたんだよ、あたしに?
それ以降、まだ会ってないんだよ?
ごめんねだって言ってない。
シロのお陰で、昨日母の笑顔が見れたんだよ?
そのお礼だって言ってない。
今日はありったけのごめんねとありがとうを込めて、最高級の缶詰を鞄に詰めて来たんだよ?
あたしは声にならない声を花束に向けて発する。
右手にかかる柔らかい圧力が心なしか強くなる。
その分、左手の中の固さを強烈に意識した。
昨日、あの子が咥えて離さなかった。
そんな事初めてだったじゃん。
あの子、何かに怯えるように震えてた。
だから嫌な予感がしたの。何かまずいことが起こるって。
・・・。
お母さん、元気だった。
笑ってさえくれたんだよ。
シロ、もしかして、シロがお母さんを守ってくれたの?
ねぇ、そうなんでしょ。
だから、あんなに震えてたんだよね。
だから、あんなに唸ってたんだよね。
だから、キーホルダー絶対に離そうとしなかったんでしょう?
だめだ。だめ、だめ!
こらえろ、あたし。
だめだ、だめだだめだ。
あたしは唇を、最大の力を込めて噛む。
でももう止まらない。
あたしの視界が滲んで、目の前の純白の花束すら見えなくなってく。
シロ、シロ、あたしのシロ。
ねぇ、あたしを置いて行かないで。
あんたがいなくなったら、あたしが学校に行く理由だって無くなっちゃう。
あんたがいないと、誰があたしの心を救ってくれるの。
シロ、シロ。
いつもみたいに走って来てよ。
あたし、ここにいるよ。
ねぇ、シロ。
「シロ!ボサッとしてないで走って来い!」
あたしはたまらずに叫んだ。
とっさにあたしの身体が引っ張られ、颯太君の力強い腕が背中に回った。
全身が颯太君の温もりに包まれる。
あたしは颯太君の制服を握りしめた。
左手から流れる血で颯太君の制服が赤く滲んでく。
その様子を見ながら、あたしは声もなく泣いた。
帰らぬあの子を思って泣いた。
取り返せないあたしの所業を思って泣いた。
母の姿を思って泣いた。
あたしたちのこの数年を思って泣いた。
父と母が離婚して以来、初めて自分の感情を全面的に表に出してた。
そして、颯太君はずっとずっと、ずっとあたしの想いを黙って受け止めてくれてた。