1.出会いと現状
冬が去っていく。冷たい雪は溶け、川の水と混じり合う。
花は咲く時を今か今かと待ちわび、それを彼女がまた、待ちわびていたのを俺は知っている。
雪はひとときの幻だ。
存在を証明できないほどに跡形もなく消え去っていく。
彼女と出会い、過ごした時間のように。
××××××
“白き森”と呼ばれるこの白樺の森の中心には、アサラベル家の屋敷がある。白き森のエルフの族長であるアサラベル家は、実質、エルフの王と言っても過言無いように思う。
そして、今日はメフィルス伯爵家に彼らが訪れる、半年に一度のお茶会だ。他の伯爵家にも行っているらしいが、俺には関係ない。
「今回は、アサラベルのお嬢様も共にいらっしゃいます。お嬢様は人見知りです。下手しても笑顔は絶やさず、話しかけず、話しかけられたら笑顔で!」
朝、俺たち使用人は集められた。正直、どうでも良い。笑顔を継続するのは辛いが、会わないようにすればいい。それに、自分から話しかける使用人もどうかしているのではないか。
皆、ワクワクと聞こえそうな程に楽しみにしているのが見てとれる。
「ゼシカ」
「何ですか」
「メリアも来るらしいぜ?」
「……」
「良かったな」
何がだよ。全くもって良くない。なんて事は、顔には出さない。
「挨拶くらいしてこいよ」
「……考えておきますね」
こんな所で使用人スマイルとか、ストレス溜まる。
早く今日が終わればいいのに。毎日が光の如き速さで過ぎればいい。
俺は自分の仕事を行うべく、この部屋から一人、出て行った。
使用人の仕事というのは、一概にも主人の身の回りの世話というわけではない。屋敷の清掃、管理や使い走り、壊れた屋根の修理やベンチ造りなどの日曜大工的な事も行う。基本的には申し付けられれば、何でもやる。
猫の世話以外なら、何だろうと。
××××××
俺が自分の分担の場所を清掃し終えた頃、再び召集がかかった。玄関ホールに集合後、数分の後に彼女は来た。
父親の後ろで、少しはにかんでいる。
「数日ぶりだな、ヨハン」
「いらっしゃいませ、イヴァン様、それにお嬢様も」
各家の当主は、笑顔で挨拶をかわしていた。ふと、イヴァン様と目が合ってしまう。俺は慌てて逸らすが後の祭りだ。
「おぉっ! ゼシカじゃあないか。久しいな」
「……お久しぶりです」
「何だ、まだ使用人をやっているのか? 私はてっきり冗談だと思っていた」
彼は大きくため息を付くと、メフィルス伯爵に言った。
「ヨハン。実の息子に何をしている」
「……これは、ただの道具です。それよりもお茶の用意が出来ております」
「しかし……」
余計な事を言いやがって。俺はこんな人を父親だなどと思っていない。
強く握りしめていた手のひらは、後から見ると赤い痣になっていた。
結局、俺はお嬢様と呼ばれている女も、メリアにも目を向けず、ただ一心に穴を空けてやるつもりで床を見つめ続けた。
その後、話題を変えた彼らは玄関ホールを後にし、残された使用人は、いそいそと自らの仕事に戻っていく。
「……大丈夫か?」
「いつもの事ですが」
「でもさ、辛いだろ? こんなのって」
辛かったのかもしれない。
しかし最初のうちだけだ。父は人間は愛したが、中途半端なハーフエルフは毛嫌いしている。母が亡くなると同時に、俺に対して冷たくなったのも、その所為だ。
俺は、実の親にも愛されてなどいなかった。
「当たり前のことですので、特にはないです」
そして、俺の居場所はここしかない。
××××××
俺が彼女を再び見たのは、空が微かに赤く染まり始めた頃だった。メリアと共に屋敷内を散策中らしい。
好みかどうかと聞かれたら微妙だが、率直に何も考えず感想を言えば、普通に可愛いし、夕焼けで赤く輝く金髪は綺麗だ。
そう思いながら、すれ違おうとしたときだった。
黒い小さな塊が、猛スピードで駆け抜け、跳び上がった。
「……っ!」
思わず首を掴んでやったが、これはただの正当防衛だ。俺ではなく、どうやらお嬢様に飛び付こうとしたらしい。
猫の分際で恥知らずが。
「……チッ……」
俺は猫を睨み付けると、宙に向かって投げやる。無事着地した猫を数秒間睨みつける。
「……あ、の」
人がいたんだった。
「申し訳ありません。屋敷の猫がご迷惑を。お怪我はありませんか?」
俺が止めたから、あるはずはない。ただの定型文だ。
勿論、使用人スマイル。すると、何故か見つめられてしまった。
じろじろ見ないで欲しい。
「…………」
「……えっと」
どうするべきか。
「……あ、……大丈夫です」
やはり、人見知りなようだ。目を逸らしたきり、次は合わせてこない。ただ、人の目を見るのは、癖なんだろう。
微かに彼女の顔が赤い気がする。メリアに目を向けると、何やら意味深な笑顔で頷かれた。
「では、何かあったらお気軽にお申し付け下さい」
「うん、……ありがとう」
なんだか、煮え切らない人だ。正直苦手かも知れない。初対面だからかも知れないが、親しくなるまで関わる気なんてない。もしくは緊張しているのか、いつもこんなんなのか、だ。
俺はため息を飲み込むと、二度と会いませんようにと、心の中で願った。
「メリア、今の人は?」
「ゼシカちゃんですよ」
「……“ちゃん”?」
「意外と侍女たちに人気なんです」
聞こえている。子供ではないのに“ゼシカちゃん”は無い。
すると、メリアは振り返り、俺に向かって舌を出した。確信犯のようだ。俺はあえて反応せず、再び歩き出した。
××××××
俺は三日か四日に一度、メフィルス家の後継者、つまりヨハンと新しい妻の息子の部屋に行く約束をしていた。
彼は今の俺にとって、仕えるべき相手であり、半分だけ同じ血を継いだ、弟だ。
「オリガ様、いらっしゃいますか?」
俺がノックをすると、勢い良くドアが開いた。出てきたのはまだ幼い男の子だ。
彼が他の伯爵家とは違い、金髪ではなく緑の髪なのは父と同じだ。そして、エルフの証とも言えるであろう尖った耳。俺には無いものだ。
俺がオリガと同じ年齢だった時はまだ、父も母も大切にしてくれた。例え見かけだけだったとしても。
「ゼシカぁ、本読んで!」
「……どれにしますか」
「んー、じゃあこれとこれ!」
「時間が足りませんから」
「じゃあ、こっち」
「わかりました」
誰にかは覚えていないが、妬ましくないのかと聞かれたことがあった。今まで彼の立場にいたのはお前だったのに、と。
嫌悪感が全く無いと言えば嘘にはなるだろう。だが、オリガは何故か数ある使用人の中で、一番素っ気なく、冷たいはずの俺に懐いた。子供は人の心情の変化を感づきやすいはずなのに。
「昔々、シャルル帝国に一人の皇子様がいました。……」
十一歳も年下の子供を問い質すのも大人気ないと思いながら、オリガに理由を聞いたことがある。
『……? だって、ゼシカはお兄様なんだって、知ってるもん』
その時は、苦虫を噛み潰したようだったが、今は大した感情も持ってはいなかった。ただ、空っぽの箱のような心で、彼と接してきたつもりだ。
「あ、ゼシカ! お父様を呼んできてよ!」
「ヨハン様を?」
「うん。見せたい物があるんだ」
「まぁ、一応呼んでは見ますが、来てくださるかは分かりませんよ?」
すると、オリガは本当に不思議そうに俺を見つめ、首を傾げた。
「なんで? 大丈夫だよっ! だってお父様は優しいから」
きっと俺は今、自嘲的な笑みをもって、小さなオリガを見ているのだろう。
××××××
いつも歩くこの廊下も、父の所へ行く時はまるで戦場に向かうような心持ちになる。会う度に、大切なものを失っていくような錯覚を感じるのだ。
「……ゼシカか。何の用だ」
今はイヴァン様がいない。この部屋に二人だけだ。
心を殺せ。
「オリガ様がお呼びです。どうしてもお見せしたいものがあると」
「そうか、分かった」
不協和音で奏でればいい。他人に望みを抱くべきではない。屑のように切り捨てられるだけだ。
「なんだ、その顔は」
「……何の事でしょうか」
俺は、最高の笑みで相対した。
「お前は……、本当に目障りだな。存在するだけで吐き気がする」
「それは、申し訳ありません」
父は立ち上がると、花瓶の花を一本ずつ抜き取る。足元に落とされたそれらは、また使用人が拾うのだろう。
「しゃがめ」
逆らう理由は、無かった。何をされるのかも分かった上で、俺は従うしかない。
頭上から腐った液体が降る。臭くて、それでも、俺に言えることは無い。
「お前は道具だ。何も思わずにただ言われたように動け」
心を殺せ。
俺の言葉は、こんな男のためにあるものではない。伝える価値は無い。
「もういい。出て行け」
「はい」
立ち上がり、この部屋を出た俺は、すぐに袖で顔を拭った。新しい服に着替えるべきだが、洗わないことには匂いはとれない。この季節、特に日の沈んだ後は本当に寒いというのに。
一度服を取りに部屋へ行き、井戸へと向かう途中、メリアが走ってきた。
「ゼシカちゃんっ! って、臭っ」
「うるさい人ですね」
「……まぁ、それより。アリスティ様、見なかった?」
「迷子ですか。見ていませんが」
メリアは俺の返事を聞くと、また別の使用人へと聞き込みを始めた。
あんな目立つ金髪をしているのに見つからないとか、逆に凄い。