第九章
ラーヴァナとともに砂埃の上がる白い路を駆け、やってきたのは下町の市だという。
市というものは、人間の生の営みが凝縮しているところだと聞いていた。だからさぞ賑やかな、見ているだけでわくわくするような場所なのだろうと思っていた。
「ここが、市……?」
ティールタの目の前に広がっているのは、泥煉瓦の平屋の建物の数々だ。屋根はずれて壁は歪み、灼けて煤けて今にも倒れそうだ。
井戸の周りに女性たちが集まって、洗濯をしている。彼女たちの足もとにまとわりつく子供たちは、しかし話に聞いていたように見ているだけで頬がゆるむような愛らしさはない。骨の上に皮膚が直接乗っているような痩けた頬、首も手足も細く、垢にまみれている。まとう衣は、薄汚れた布を何度も繕ってようやっと衣服の形をなしているというふうだ。
一歩踏み出そうとして、地面がぬかるんでいることに気がついた。足もとに目を落とすと、腰巻き(ファリヤ)の裾も編み靴も泥に汚れている。
「なぜ、こんなにどろどろなのかしら……?」
「雨が降ったからな」
ラーヴァナは、こともなげに言った。彼にとって目の前の光景は驚くべきものではないようだ。歩き始める彼を、ティールタは懸命に追った。ラーヴァナは振り返りはしなかったが、ティールタの足に合わせるようにゆっくりと歩いていることはわかった。
「乾季なのに、不規則に大雨が降る。ランカー国中、その被害が甚大だ。そのせいで畑は荒れ、流民も増える一方だ」
これだけたくさんの人間がいるのに、まるで誰もいないように静かだ。空気はどんよりと澱んでいる。それはここにいる人間たちの目のせいだ。誰も彼もが濁った目をしていた。
「これは、どういうことなの……?」
「これが、ランカー国の真実だ」
ラーヴァナは、正面を見据えたまま皮肉な調子で言った。
「富み栄えているのは、見かけだけだ。ランカー国の者たちはほとんどが生み出すものを搾取され、その富はバラタ国に送られる。父上曰く、国の安定を保つために、な」
「ここばかりではありません、王都にはあちこちにこういう場所がございます。重税に耐えかねて故地を捨てた流民の中には徒党を組んで賊徒となり、夜な夜な家々を襲います。ここは賊徒にさえ食い尽くされた、かつては市だったところ」
そう言ったのはトリナヴァルタだ。鋭い目をあたりに注いでいたラーヴァナは、目的の人物を見つけたのか、足早にぬかるんだ路を駆けた。ティールタは慌てて彼を追う。
「王子」
ラーヴァナが向かったのは、あるひとつのあばら屋だ。そこには男たちが集まっていて、ラーヴァナの姿を見ると駆け寄ってきた。
「あれは、この地域の自警団の頭分です」
説明してくれたのはトリナヴァルタだ。男たちはもとは賊徒で、今はこの地域を警備しているのだという。
「そのような者が、ラーヴァナと何を話しているの?」
「ラーヴァナ様は、バラタ国から戻られて王宮に入られる前に、ランカー国の現状をあちこちと視察しておいででした。あの男は、この地域の代表としてラーヴァナ様に会った者。ラーヴァナ様に、ここ最近の状況を報告しているのでございます」
話を聞きながら、ティールタは居心地悪く肩をすくめた。何か肌に刺さるようなものがある。それがあちこちからの視線であることに気がついた。ティールタたちを遠巻きに取り囲む者たちは、あれは誰だと訝しむようにこちらを見ている。
腰巻き(ファリヤ)を引っ張るものがある。見るとティールタの足もとにいるのは小さな子供で、黒い大きな目でじっと見上げていた。
子供は、汚れた手でティールタを指さした。
「きれいね」
子供はつぶやいた。褒められて悪い気はしない。ティールタが微笑むと、子供も微笑んだ。微笑むと、痩けた頬もかわいらしく見える。そう、彼らには笑みが足りないのだ。皆悲痛な、思い詰めたような顔をしている。
自分にいったい何ができるのか。アプサラスとしての意識はまだ薄いティールタだが、ふと思いついたことに、胸に手を置いた。
ティールタが深く息を吸ったことに、ラーヴァナは気づいたようだ。ラーヴァナはティールタを凝視した。周りにいた者、皆もティールタを見た。ティールタは、口を開く。声で奏でる旋律が、響き渡った。
あたりはしんと静まり返り、沈黙の中に流れるのは風に吹き上がる砂の音と、ティールタの歌声だけだ。次第に歌声は大きくなり、風の音と混ざり絶妙な彩りとなって、空を染める。
世界には、一本の木があった。
木は自分を照らすための太陽を生み、太陽は月を生んだ。炎を生んだ。
木は自分を潤すための土を生み、水を生み、水は風を生み、それらはあまねく世界を満たした。
木の枝にはたわわに実が成った。その実からデーヴァが、サーディヤが、グヒヤカが、シッダが、ヤクシャが、ラークシャサが生まれた。それらは交わり子をなして、世界はたくさんの生きものに溢れた。そうやって満ちた世界は、永遠の幸せ(ハリシカ)を享受した。
あるカールッティケーヤの星の夜、大きな地震が起きた。ケートゥの靄が光を隠し、世界は嵐に飲み込まれ、粉々に割れた。
世界の淵から、たくさんの土が落ちていった。それを追いかけたグヒヤカたちは世界から転落し、海を埋めた土の上に落下した。
天界に戻れなくなったグヒヤカたちは、その土を耕し動物を飼い、生活するうちにやがて力を失い、人間となった。
そうやって世界は、天界と人間界とに分かたれた。
イティハーサと呼ばれる、古伝説だ。言葉はすべて天界のもので、人間界の者が理解できるものではない。ティールタも、ほかのアプサラスたちが歌っているのを聞き覚えただけで、歌の内容の意味するところはよくわからない。ただ美しい旋律に心を惹かれて、懸命に覚えただけなのだ。
「……ハリシカ?」
だから、ラーヴァナが不思議そうにその言葉を口走ったことに驚いた。テージャスならともかく、ラーヴァナが天界の言葉を理解できるはずはないのに。
「そうよ、永遠の幸せ(ハリシカ)」
ティールタがそう言うと、ラーヴァナはしきりにまばたきをした。その言葉をどこで聞いたのか、思い出そうとでもしているようだ。
「なぜ、あなたがこの言葉を知っているの? 人間のあなたが……」
しかしティールタの声は、上がった歓声にかき消された。いつの間にかティールタたちはたくさんの人間に囲まれている。先ほどはあれほど精気のない顔つきをしていた者たちが、まるで飢えが満たされたような表情をしている。ひとりの老人が歩み寄ってきた。彼の皺深い顔の中にある目は、ティールタを見つめて輝いている。
「素晴らしい、素晴らしい」
そして、同じ言葉を繰り返した。まるでそれ以外に言うべき言葉を失ってしまったかのようだ。彼に倣うように、周りの者が口々に声を上げ始める。そのうちのひとりが、我が意を得たりというように声を上げた。
「そうか、あんたはアプサラスだね。だからそんなに色が白いんだ!」
彼は何度も、大きくうなずいた。アプサラスとの言葉に、群衆がティールタを、隣にいるラーヴァナごと取り囲んでしまう。
「王宮にアプサラスが来たという噂は聞いてるよ。そうか、あんたがそうなのか」
「……え」
ティールタは思わず声を上げた。ほかの者たちも口々に賛美の言葉を投げかけてくる。その中に繰り返される、アプサラス、という言葉に、ティールタは怖ず怖ずと尋ねた。
「あ、あの……わたくし、ちゃんとアプサラスに見えて?」
ティールタは、震える声でそう問うた。何を言うのかと、女性は不思議そうな顔をする。それは周りの者たちも同じ思いだったらしい。ティールタは、アプサラスとの言葉を噛みしめるように繰り返した。
「わたくし……アプサラスに見えるかしら」
ティールタの問いに、目の前の老人は目を見開く。何度もまばたきをして、何を言っているのかと驚いているようだ。
「もちろんだ」
彼は、ティールタの耳には重く響く声で、そう言った。
「当たり前だよ。アプサラスはどれも、きれいな女だって」
「確かにね、さすが、人間の女ではかなわないな」
見れば、母親らしき女性の腰巻き(ファリヤ)の端を掴んで立っている子供も、大きな目を口と同じくらいに開いてティールタを見つめている。
「アプサラスなのね。わたくし」
「それ以外の、何だというのだ」
小憎らしい口調でそう言うのは、隣に立っているラーヴァナだ。ティールタはラーヴァナを振り仰ぎ、同じ言葉をまた繰り返した。
「わたくし、アプサラスに見えて? ちゃんと、アプサラスに見えるかしら」
ラーヴァナは呆れた顔をした。しかし彼の表情は周りの人間たちと同じく、ティールタの問いを否定するものではない。むしろ、わかりきったことを何度も聞くなというようだ。
「見えるも何も、お前は……」
人波が、大きく動いた。上がったざわめきは、ティールタたちの背後からのものだ。何かとそちらを見ると、視線の向こうには若い女性がいた。髪を振り乱し、どうにか体を隠す程度の襤褸布を纏った彼女は人をかき分けこちらに走ってきている。
その腕には子供を抱いているようだ。彼女が人波をかき分けたというよりも、人々が彼女を避けて人波に道ができたという方が正しい。
「王子様、この子たちを……!」
女の声は細く、しかしはっきりとティールタの耳に届いた。彼女は抱いていた子供を、いきなりラーヴァナに押しつけた。
「な、に……」
「この子たちに、お慈悲を!」
ラーヴァナがとっさに子供を抱き取ると、彼女はくるりと踵を返した。そして来た道を、子供を抱える必要がなくなったぶん素早く走り去った。唖然と見送る者たちの中、彼女は現れたときと同じくらい、またたく間に消えてしまった。
「おい、待て、待てっ!」
呼び止めても彼女は振り向かなかった。彼女の姿はあっという間に見えなくなる。それは本当に一瞬のことで、人々もただ口を開けて見ているばかりだ。
ラーヴァナが、自分の腕の中に目を落とした。ティールタも背伸びをして覗き込んだ。思ったとおり、赤ん坊だった。しかもふたりだ。赤ん坊たちは一枚の薄汚れた布で、荷物のように一緒にくるまれていた。
「まぁ、赤ん坊?」
「何なんだ、いったい。なぜ、私に……」
子供たちは眠っていた。いずれも生まれたばかりというほどに小さく、ラーヴァナの腕ならふたりを同時に片手でも抱いておける。髪は黒く肌も浅黒く、伏せた目もとにも黒い睫毛が生えそろっていて、ぎゅっと握られた小さな手には小さな爪も生えていた。静かに眠ってはいるが、ときおり瞼が動き、握った手が震える。
「かわいらしいこと」
幼いながらも、大人と同じようにすべてが備わっていることに感心した。人間は小さな体で生まれて徐々に大きくなるのだということを聞いてはいたが、まさか生まれたばかりがこれほどに小さいとは、思ってもいなかった。
「子供を育てられない者なんだろうか」
「王子様が来たって聞いて、押しつけて逃げたってところだろうかね」
ティールタたちを囲んでいた者たちが、口々に憶測をする。そのうちのひとりが言った。
「そんな汚い布にくるんでたら、よくないよ」
自分の腕に突然赤ん坊が振ってきたことに驚くばかりだったらしいラーヴァナは、曖昧にうなずいた。トリナヴァルタが自分の肩掛けを取り、ラーヴァナは赤ん坊の纏っている布を剥いだ。赤ん坊が裸になり、その姿に目が釘づけられた。
「ま、ぁ……」
ティールタは、戸惑いの声を上げた。その赤ん坊が今まで見てきた人間たちとはいささか違う体を持っていたからだ。こういう様子の人間もいるのかと考えるティールタの耳に飛び込んできたのは、あちこちから上がる悲鳴だった。
「その、赤ん坊は……」
トリナヴァルタは、脅えたような声を上げた。周りの民たちもざわつく。再びの声に、凍りついたようだったラーヴァナは、はっと我に返ったようだった。
ふたりの赤ん坊は腰の部分で繋がっていた。ふたりともそれぞれに五体を持っているのに、腰の部分だけが溶けたように繋がっているのだ。
「呪われた子だ」
誰かが叫んだ。それにつられたさざ波のように、叫びは大きくなった。
「クベーラ神の祝福を受けない子供だ!」
「呪われた子どもだ、忌むべき子だ!」
ゆえなき怨嗟があたりに響いた。それはティールタの歌に上がった歓声とは正反対で、あのとき以上の倍もの大きさで響き渡った。
「そんな子供、捨てておしまいな!」
「悪いことが起こる! この災害も、この赤ん坊のせいに違いない!」
自分たちの、ランカー国の窮状はこの赤ん坊たちのせいであるかのように。そうやって声を上げれば、今の苦しさから逃れられるとでもいうように。恨みの声は続いた。そんな声など耳に届かないというように、赤ん坊たちはなおも静かに眠っている。
「ラーヴァナ様、こちらに!」
大きくなる声の中、トリナヴァルタの声が響く。ほかの従者が人波をかき分け、向こうからは馬が引かれてきた。赤ん坊を抱えたままのラーヴァナが、器用に騎乗する。どうすればいいのかと戸惑うティールタの腕を、トリナヴァルタが乱暴に引いた。
「ティールタ様も、お早く! 私の後ろに!」
強い力に引っ張られるままに、トリナヴァルタの手に馬上に引き上げられた。ちゃんと腰掛けないうちに馬は走り出した。しっかりつかまっていないと落ちてしまう。とっさにつかまったトリナヴァルタの胴に懸命にしがみついた。
馬の足は速く、市はすぐに遠くなった。響く人間たちの怒号が遠くなっていくことにほっとしたティールタは、かたわらを見た。
隣を、赤ん坊を抱いた馬上のラーヴァナが、片手で綱を操りながら駆けている。これほど揺れる馬上、しかも不安定にラーヴァナの腕一本に抱えられているだけなのに、赤ん坊はやはり眠っていた。
「……あ」
雨が、ぽたりとティールタの頬に落ちた。その冷たさが導くように、ティールタの胸には、まるで掛けられていた覆いが外れたかのように、ある感覚が広がった。
どこか慕わしい、懐かしい気。ここは天界ではないのに、まるで天界に戻ったような感覚が満ちる。何の憂いも心配もなく、慕わしい蜃気楼の森にいるような気配だ。それがどこから伝わってくるのか。ティールタは、何度もまばたきをした。
落ちる水滴は、たちまち数を増す。雨脚が強く、土砂降りになってくる。したたる水に打たれながら、ティールタは、はっと目を見開いた。
「……スラーディパ様?」
ティールタの声は、誰にも届かなかったようだ。ティールタは大きく目を見開いて、人間の赤ん坊を見た。目を閉じて眠っている、ふたりでひとりの人間の赤ん坊たち。そこから感じられる気は、弱くてはっきりとはわからない。ティールタは若いアプサラスだからすぐには確信できなかったのだろう。しかし意識してみれば伝わってくる気は天界につながる、天界そのものの気といっても相応しいものだ。
「なぜ、ここに……? そのような、お姿で……?」
馬が地面を蹴る音、その地面を雨が叩く音、それらに紛れた声は、ティールタのしがみついているトリナヴァルタにも届いていないだろう。ティールタ自身誰に聞かせるわけでもない、しかしただただ信じられないとの思いに、ティールタは体を震わせた。