第八章
アプサラスは――。
ティールタは大きく息を吐いた。空を見上げ、何もかもを焼く陽をじっと見つめる。わずかに吹く風に揺れるサラの木が、差す日差しに鮮やかな緑を反射させ、輝いている。
アプサラスは王のために存在する。それはガンダルヴァも同じだ。ヴィーナーを弾き横笛 (バーンスリ)を吹き鼓を叩いて曲を吟じ、イティハーサを始めとする唄を歌って、王を楽しませる。
ティールタは初めて人間の世界に降りてきたが、アプサラスに対等な口を利いて恥じない人間がいるとは思わなかった。ほかの人間は、皆アプサラスに平伏し尊重するのに、あの男――ラーヴァナといった――は、そのようなことはお構いなしに無礼な口を利く。
あのような無礼な人間のもとにいなくてはいけないというのは、いかにも不愉快なことだ。転身して人間界に行方知れずになっていた王は、見つかった。だから早々にも蜃気楼の森に戻りたいところを、しかしそれはかなわないというのだ。
ウルヴァシーは、気が乱れているという。だからナーガが来られずに、天界に戻れるのはいつになるかわからない。ほかにどうしようもないのならおとなしく地の気が落ち着くのを待つしかない。それはわかっているが、ここは不愉快な場所で我慢がならない。
人のやってくる気配があった。石造りの庇の向こうを見やると、人影があった。ラーヴァナと、彼の従者のトリナヴァルタだ。ラーヴァナもティールタに気づいたらしく、こちらを見やった。
まなざしがかち合ったが、どのように反応していいものかわからずに、しばらく見つめ合ってしまう。先に動いたのはティールタだ。柱廊を歩いてこちらにやってきてラーヴァナの前に進み出ると、腹の前に右手を置いて膝を折り頭を下げ、正式な礼をした。
ラーヴァナが、意表をつかれたというように驚いた顔をした。それに少し胸がすいた。ティールタはすぐに体を起こし、胸を這って言う。
「間違えないで。わたくしはあなたのような無礼者に見せる誠意など持ってはいないことよ。ただ、こちらにお世話になっている身であることは確かだし、ウルヴァシー様が王宮の方々には礼を尽くしなさいと、そうおっしゃるから」
「なるほど、言われないと礼儀正しくすることもできないわけか、お前は」
ティールタは顔を引きつらせ、トリナヴァルタは慌てて、諫めるようにラーヴァナを呼んだ。しかしラーヴァナは、自分の言葉にティールタがなんと言うか楽しみにしているような顔をしている。
ラーヴァナの期待しているのであろう言葉を言ってやろうかと思った。しかしウルヴァシーから言い含められていることでもある。ティールタは口を引き結ぶと再び礼をして、いささかぎこちない足取りでラーヴァナたちに背を向けた。
「どこへ行く」
ラーヴァナの引き止めるような声を意外に思い、振り返る。彼の従者が持っているものが上着であることに、にわかに興味をかき立てられた。ラーヴァナを憎々しく思っていたことは、好奇心の前では些細なことでしかない。
「あなたたちこそ、どこに行くの?」
「市だ」
ラーヴァナの言葉に、彼の無礼な言葉や態度はすっかり頭から消えてしまった。ティールタは思わず大きな声を上げた。
「まぁ、市ですって? 本当に?」
耳にしたことのあるだけの市という言葉は、ティールタの耳にたいそう楽しげに響く。歌うように、ティールタは問いかけた。
「わたくしも連れて行ってはくれないこと? 市って、人間が商いをする場所なのでしょう? わたくし、そのような場所に行ってみたいの」
ティールタの様子にラーヴァナは目をみはる。なおもつのる好奇心のままに、ティールタは勢い込んで続けた。
「人間の世界に向かうことになったと聞いたときから、そう思っていたわ。人間の世界のさまざまな場所を見てみたいの。人間が生を営んでいる場所を覗いてみたいのよ」
「蜃気楼の森には、そういうものはないのか」
ティールタの勢いに気圧されたのか、ラーヴァナの口調はどこか戸惑っている。尊大な彼がそのように戸惑いを見せることが、さらにティールタを喜ばせた。
「あるはずがないわ。わたくしたちに、生のための営みなどないもの。わたくしたちは王に仕え世界の秩序を護る、そのためだけに存在するのだから」
「それでは、蜃気楼の森とは存外つまらないところなのだな」
ラーヴァナの言葉に、言葉を詰まらせてしまった。しかしこのたびのラーヴァナは、ティールタの好奇心を喜んでいるようだった。
「では、来い」
ラーヴァナは、いとも簡単にそう言った。行きたいと言ったのはティールタだが、これほど簡単に承諾されては戸惑ってしまう。しかも相手はラーヴァナだ。ラーヴァナは唇の端を持ち上げている。その笑みは彼の不遜を示すように尖ったものでありながら、しかしどこか彼の決意を示すように、固い。
ただ遊興のために市に行くのではない。それを感じて、ティールタの浮かれた気持ちは、にわかにしぼんだ。
「ついてこい。しかし、何を見ても驚くなよ」
「それは、どういう……?」
しかしラーヴァナは答えない。そのまま足早に先を行ってしまう。
「ティールタ様、こちらへ」
案内をしてくれるトリナヴァルタに、慌ててついていく。柱廊をいくつか渡って馬場に降りる。厩番らしい男は、ラーヴァナに向かって頭を下げた。
「今日は鞍を。お姫様がお乗りになるからな」
かしこまりましたと頭を下げる彼の前、ティールタが唇を尖らせてラーヴァナを見た。
「誰なの、お姫様って」
「お前のことだ」
その言葉に、ティールタは憤慨した。
「そのように気遣われる必要はなくてよ。馬にくらいひとりで乗れるし、馬車だって御せるわよ。ウルヴァシー様やティローッタマー様をお乗せした馬車を、何度も御したもの」
「とんだお転婆だというわけか」
先ほどの、どこか固い色は今のラーヴァナにはない。冷やかすような彼の言葉に、きっと視線を向けると彼は笑う。思いのほか朗らかな笑い声は、先ほどの冷淡さを忘れたようだ。ラーヴァナが何を考えているのか、市に行く目的は何なのか。判じかねて首をひねるティールタだが、しかし厩から引き出された黒馬を目に、ラーヴァナの不可解な態度のことは吹き飛んだ。
「素晴らしい馬ね」
「当然だ、私の馬だからな」
ラーヴァナの言葉を、ティールタは無視した。厩番に向かって微笑みかける。
「きっとあなたの手入れがいいのね。この子も、丁寧に世話をしてくれてありがとうって」
「馬と話でもできるのか」
何を言うのだろう。ティールタは振り返って、ラーヴァナに向かって首をかしげる。
「もちろんだわ。馬だけではない、犬とも猫とも鳥とも昆虫とも、木や花とだって会話できることよ」
「木や、花……とも?」
ラーヴァナを始め、その場の者は驚いたように、黙り込んだ。そのような反応に、ティールタの方がよほど驚いた。皆を仰視し、ふと気づいたことにうなずきながら、口もとに手を置いた。
「人間は、人間同士でないと話ができないのだったわね」
「それが当たり前だ」
どこか拗ねたようにラーヴァナが言った。そう、彼は人間なのだ。いくら尊大でアプサラスを前にしての礼儀を知らなくても、やはり人間だ。そう思うと、彼の態度も大目に見なければという気持ちが湧き上がった。彼はただ、ものを知らないだけなのだ。教え諭してやらなければいけない。ティールタは小さく頭を左右に振った。
「当たり前ではないわ。あなたたちだって鍛錬すればできるようになることよ。ただ、方法を忘れてしまっただけで」
「忘れた? 人間がか」
当然だと、ティールタはうなずいた。
「人間だって、もとはわたくしたちと同じものであったのですもの。この世のもので話すことのできないものはないわ。その気になれば、何とだって話のできることよ」
ラーヴァナはなおも何かを問いたい様子だったが、話し込む皆を急き立てて馬が嘶いた。ティールタは首をすくめ、馬の鼻面を撫でる。
「ごめんなさいね。早く走りたいのね」
そう言うと、鐙に足を乗せて鞍に腰を下ろす。手を伸ばして、馬の頸を撫でた。
「早く行きましょう、この子も早く走りたがっているわ」
ラーヴァナが、気に入らないといった顔をした。いきなりティールタの乗った馬の手綱を引っ張ると、素早く飛び乗りティールタの後ろに座った。
「ちょっとあなた、お降りなさいよ!」
ティールタはわめいたが、ラーヴァナは降りようとはしない。
「お降りなさい、別の子に乗せてもらえばいいじゃないの」
「文句があるのならお前が降りろ」
ティールタのほうが無作法者だと言わんばかりの口調に、ティールタはむっとした。しかし手綱を離せば負けたことになるような気がして、ぎゅっと革紐を握りしめた。そんなふたりを、トリナヴァルタがはらはらした表情で見つめていた。