第七章
テージャスが再びアプサラスたちと向き合ったのは、延見の間でのことだった。ここは請客の間より一回り小さく、よって私的な会見に使われる。
白い石造りの段にラーヴァナが座り、その隣にヴィビーシャナが、そしてテージャスが座った。ふたりのアプサラスは、テージャスの前にひざまずいている。
陽が落ちてからは、部屋の中は肌寒ささえ感じるほどだ。テージャスは思わず身震いした。目の前のヴィビーシャナも震えたのが目に入った。彼もやはり寒さを感じているのか。しかし彼の震えは、それだけではないように思えた。
その理由をテージャスが考える前に、ラーヴァナが口を開いた。
「これは、お前たちの力か?」
「何がでございますか?」
きょとんと首をかしげるウルヴァシーに、ラーヴァナは眉をひそめて言った。
「ここがこのように涼しいことだ。ガンダルヴァやアプサラスは……不思議な力を使えるのだろう」
ラーヴァナの口調は、いつもの気強い調子でありながら、どこか戸惑っていた。それを目を眇めた微笑みとともに見やったウルヴァシーは、首を横に振った。
「そうではありません。ここはこうあるだけで充分に涼しくて。空気の出入りや日差しの入り方などを生かして巧みに設計して造られた、腕利きの職人の技の粋でございます」
ウルヴァシーは言葉を切り、柱廊の向こうの景色を見た。焚かれた篝火に、サラの木がゆっくりと揺れているのが映る。
「ここは、素晴らしいところでございますね」
「……どういう意味だ」
ウルヴァシーの言葉に、ラーヴァナは片方の眉をぴくりと持ち上げた。
「確かに、実りや富には恵まれておろう。しかしゆえに王でさえも従属に狎れ、腰を動かすことも億劫ときている。足もとの現実を見ようともしない、愚か者ばかりの集う場所だ」
まるでそれがウルヴァシーのせいであるかのようなラーヴァナの物言いに、ウルヴァシーはじっと視線を向けていた。声を上げたのはティールタだ。
「そのようなこと、わたくしたちのあずかり知ることではないわ。わたくしたちは蜃気楼の森の民、人間の世界のことなど知ったことですか」
ラーヴァナはティールタを睨みつけ、視線のかち合ったふたりは、互いの視線を引きちぎるようにそっぽを向いた。それに思わず笑ってしまいそうになるのを、テージャスは懸命に堪えた。ティールタと話すときはまるで子供のようになるラーヴァナは、見物だった。
ウルヴァシーは、また表を見やった。亜麻色の長い髪がさらりと風に揺れ、じっと見つめる瞳は、薄い縹に輝いて見える。
「蜃気楼の森とは……どういうところなのですか」
テージャスの問いに、ウルヴァシーを凝視した。皆の注目を集めてウルヴァシーは少し困ったように、はにかんだように目を細めた。
「伝えられている話では、一年中緑が生い茂り花が咲き鳥が鳴き暖かな陽が差し、身を焼く暑さも厳しい寒さもないところだと」
「確かに、それは真実にございます」
ウルヴァシーはテージャスの言葉を否定はしなかったが、然りとてはっきり説明をするでもない。それは彼女があまり詳しく話したくないからというようにも感じられた。
「それではどうだというのだ。暑さも寒さも、飢えも貧しさもない世界など、私にはこの上もない楽園に思えるが」
ラーヴァナの言葉にウルヴァシーは視線を向け、その瞳の孕んだ色に、テージャスはどきりとした。薄く縹に光る奇妙な色合いは変わらないが、それが思わぬ愁いを含んでいるように見えたからだ。
「この世に楽園などない、ということでございますよ」
ウルヴァシーはため息をついた。それはヴィシュラヴァスとともに姿を消したティローッタマーを見送るときについたものとは違うように感じた。どういう思いでの嘆息だったのか。しかしテージャスの思考を、ティールタの声が破った。
「ウルヴァシー様。何をおっしゃるのです! 蜃気楼の森こそは、この世の楽園。人間の世界と比べるなど、おかしなことですわ」
ティールタにそのように言われると腹が立つのか。ラーヴァナはティールタを睨みつけた。ふたりは目を合わせ、同時にぷいと逸らせてしまう。
このふたりは、最初から反りが合わないように見える。それでいて似たような部分を感じ取って、ラーヴァナには決して言えないが、テージャスは微笑ましく感じていた。
そんなテージャスの胸のうちなど知るよしもないラーヴァナは、ウルヴァシーに言う。
「王の迎えか何か知らないが、たくさんいるアプサラスの中からティールタのような無礼者を寄越すなど、どういうつもりなのだ」
ウルヴァシーは顔を上げてラーヴァナを見、おかしそうに笑った。
「ティールタが、お気に召しませんか」
「……いや……」
言葉を濁すラーヴァナに、ウルヴァシーはまた笑った。ともすればウルヴァシーも、テージャスと同じことを感じているのかもしれない。
「ティールタは生まれたばかりのアプサラスでございますから、何もわかっていないだけですの。ティールタの無礼はそれゆえと免じてお許しになっていただけませぬか。赤ん坊の所行と同じことですから」
ウルヴァシーの言葉に、ティールタは不満げな顔をした。しかし反論はできないらしく、口をつぐんでうつむいてしまう。さらりとすべった彼女の髪は、色は確かに亜麻色だが、ウルヴァシーのものに比べると少し色が濃い。
「生まれたばかりと……不可解だな」
ラーヴァナは顔を歪める。そんなラーヴァナの表情に、ウルヴァシーは再び笑った。取り澄ました顔よりも、そのほうが彼女の美貌を何倍にも輝かせる。
「私よりも何歳か年下にしか見えないティールタが生まれたばかり。かと思えば、母上よりも十も二十も若く見えるお前が年嵩なのか」
「申しましたでしょう。アプサラスは死ぬようなことはありません。アプサラスと生まれついたからには転身によってほかの生きものに変わりでもしないかぎり、永遠にアプサラスで居続けるのです」
「転身?」
テージャスのつぶやきは、ラーヴァナの声と重なった。
「ローカマター様もそう言っていたな。何だ、それは」
「生まれ変わること、とでも申し上げればよろしいでしょうか」
ウルヴァシーの表情が、再び愁いに染まった。その意味は気になったが、それよりも再び耳にした言葉が心のどこかに引っかかった。テージャスは思わず口を開いていた。
「ガンダルヴァやアプサラスは、死なないのですか」
何を言うのかと驚いたらしいウルヴァシーは、目を丸くしてテージャスを見た。
「母上は、私を生んですぐに亡くなったと聞いています。けれど、父上はあのようにおっしゃって。私は母上のことを知りませんが、でも……」
思わず高ぶった口調になっていまい、テージャスは息を継ぐ。そして言葉を続けた。
「あれはどういうことなのですか。気が尽きたとおっしゃっていましたが、いったい……」
「わたくしたちは、人間の概念で言うところの死を迎えることはございません」
ウルヴァシーの口調は、固く変わった。先ほどまで打ち解けた様子は消え、主人の言葉に答える従者の表情になる。ティールタも神妙に、ウルヴァシーの言葉を聞いている。
「母上の亡骸は、霧と消えたと聞いています。それはどういうことなのですか」
「体が死んだように見えても、ただそう見えただけなのです。気の尽きたローカマターの体を水のナーガが迎え、蜃気楼の森へと連れ帰ったのでございます」
その言葉を聞いたのは、初めてではないように思う。どこか記憶に引っかかっている言葉だ。自分が蜃気楼の森の王であるという話を信じてしまえるわけではないが、仮にそうであるなら、聞いたことのある言葉であっても不思議ではないと思えた。
「ナーガ、とは?」
声を上げたテージャスを、ラーヴァナもヴィビーシャナも見やってきた。ウルヴァシーは、恭しく目を伏せて言った。
「ナーガたちは西方天ヴァルナ様の眷属にございます。天界と人間の世界とを行き来する、唯一の手段。それに乗って、わたくしたちは人間の世界にまいりました」
ウルヴァシーの口調は、どこか詩でも読むようだ。さすがアプサラス、とでもいうところだろうか。彼女は恭しく頭を下げた。ティールタも慌ててそれに倣う。
「何とも奇妙なことだな。どうだ、テージャス。お前はそのようなところに行くのだぞ。お前は、そのような世界に順応できるか」
いささか冷たい口調でラーヴァナはそう言ったが、どこか面白がるような色があることも読み取れた。どうやら彼は、蜃気楼の森に興味を持っているらしい。
テージャスは、自分の心臓が激しく打つのを感じていた。耳慣れない言葉を聞いたときからどこか落ち着かなかった。今、ウルヴァシーの話を耳に、テージャスの意志よりも体が反応して動いているというようだ。まるで、何かを思い出したかのように。
「さっさと行けばどうだ。それとも、ローカマター様が一緒でないと行けないとでもいうのか。皆が首を揃えて戻らなくてはいけない理由でもあるというのか」
ティールタが、不安そうにウルヴァシーを見た。ウルヴァシーは首を横に振る。
「ローカマターが、ヴィシュラヴァス王との再会にあのように何もかもを忘れてしまうというのは、わたくしも予想していたことでございますわ」
「では、なぜこうしている。望む者を見つけたのだろう? 早く戻ればよいではないか」
不満そうなラーヴァナに、ウルヴァシーは目を伏せた。そして、今までにはない苦しげな口調で言った。
「道がつながらなくなってしまったのでございます。蜃気楼の森の王の気を伝ってやってくるはずの、ナーガのやってくる道が」
「ナーガが!? 来るときは、問題なかったのに?」
ティールタが声をあげた。それはテージャスが驚くほどの、驚嘆に満ちた声だった。
「わたくしたちを降ろすと同時に、ナーガは消えてしまった。それはこの、気の乱れのせいなの。このせいでナーガは身を保っていることができず、天界に戻ってしまったのだわ」
「それではわたくしたちは、テージャス様を天界へお連れすることができないのですか」
ティールタが悲鳴のような声を上げる。正面を見据えたままのウルヴァシーは、低い声でつぶやいた。
「そうではないわ。テージャス様は、わたくしたちの王。ただ、地の気が……」
そこで言葉を切って、ウルヴァシーは顔を上げた。改めてラーヴァナを、そしてテージャスを見て、そして言った。
「地の気が、荒れているのです」
「地の気?」
せっつかれたように、テージャスは声を上げた。ラーヴァナもヴィビーシャナもテージャスを見たが、心拍数が上がるのをとめられない。テージャスは胸に手を置いた。
「それは、バラタ国のことか」
ラーヴァナの帰国のきっかけになったという、バラタ国の内乱。それは決して無関係ではないだろうと思ったが、ウルヴァシーは、肯定するでも否定するでもない表情をした。
「バラタ国も、ランカー国も、その他の国も。人間界全体の気が荒れております。ティールタがあのような場所に現れたのも、気の乱れのせいかと思われます」
季節はずれの雨は、不吉だ。それは単に異常な気候による不作などを差してのことなのか。それとももっと、根源的な何かがあるのか。
「ゆえに。どうぞ、今しばらくの滞在をお許しくださいませ」
懇願するように、ウルヴァシーは言った。テージャスに向かって頭を下げる。
「テージャス様が、蜃気楼の森に向かわれる道が開けるまで。わたくしたちが、テージャス様をお連れすることができるまで」
「それは、父上がいいとおっしゃれば……」
テージャスを落ち着かなくさせる衝動は、蜃気楼の森に行けば解決するのだろうか。そうであるような、それでいてもっと違うところからくるような焦燥に胸が揺らぐ。
「父上は承諾なさるだろうよ。何しろ、あの」
ラーヴァナは王の宮のほうに顎をしゃくり、彼のまなざしはほとんど口を開かないヴィビーシャナのものと重なった。
「あのアプサラスに魂を持っていかれたようだからな。父上も、まだお若い。死んだと思っていた妃が再び姿を現わしたからといって、子供のようになってしまわれるのだからな」
アプサラスのふたりは何も言わなかったが、彼らの顔には何かが走った。傍目には映ったそれを、判別する余裕がテージャスにはなかった。
ただ、胸が大きく鳴るのを押さえられない。この衝動はなにゆえなのか、それを知りたくて、テージャスは震えた。