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第六話

 王のいない宴は、早々に席を立つ者が多かった。一晩中続くこともある満月(プルニマー)の宴は、今日ばかりは華やかな盛り上がりに欠けた。そんな中、テージャスはある人物の姿を見つけて立ち上がった。

「ナラカ」

 テージャスが声をかけたのは、上大臣のナラカだ。彼はヴィシュラヴァス王の古くからの右腕で、ヴィシュラヴァスよりひとつふたつ年下であるはずだ。しかし実際の年齢より若く見えるのは、その鋭い目つきのせいか、その年でなお黒い髪を花油で撫でつけている髪型のせいか。

 彼はテージャスを前に、円座から立ち上がると丁寧に頭を下げた。周りの者も彼に倣う。いつものテージャスなら、会釈を返しただけで去ってしまうところだ。しかしテージャスは、挨拶を返すのももどかしくナラカに問うた。

「兄上のことです」

 そう言ったテージャスに、ナラカは目を眇めた。

「テージャス様、こちらに」

 彼にいざなわれるまま表に出た。常に誰かがいる広い柱廊を抜け、庭園に面した人気のない場所にまで出て、ナラカはやっと足を止める。テージャスは、もどかしく口を開いた。

「ナラカ、あれは、どういうことです」

「あれとは、どういうことでしょうか」

 ナラカは、言葉に困るように眉根を寄せた。テージャスは彼に詰め寄る。

「なぜ満月(プルニマー)の宴に、ラーヴァナ兄上の席がないのですか。兄上は、第一王子なのに。招かれてもいないとは、どういうことなのですか」

「ラーヴァナ様は……バラタ国におられるべき方です。その方が、公式の場に姿をお見せになることは……」

「しかし、だからといって兄上はここにいらっしゃるのに。まるでおいでにならないかのような、そのような、無視するような態度は……」

 言いたいことはうまく言葉にならなかった。困惑したようなナラカに、テージャスはなおも詰め寄った。いつもテージャスには似合わない勢いに、彼は戸惑っているようだ。

「父上は、私の存在をお認めにならないのだ」

 いきなり、鋭い刃のようにテージャスの耳を貫いたのはラーヴァナの声だ。髪が揺れる勢いで振り返り、その先には声よりも鋭いラーヴァナのまなざしがあった。

「私を受け入れれば、バラタ国への反旗と見なされるからな。私の話も間諜の報せもお信じにならない。いや、父上は今のバラタ国に直接おいでになっても、ご自分の目でご覧になってもやはりお信じにならないだろうな」

 ラーヴァナは、つかつかとテージャスたちのもとに歩み寄る。ナラカは怯み、しかしラーヴァナはそんな彼を相手にはしない。

「父上の頭の中では、バラタ国は未だ五国最大の国で、バラタ国に逆らうことは死に等しいのだ。父上には、この世界に吹いている新しい風が理解できない。この風に乗って、私たちが何をなすべきかおわかりでないのだ」

 ナラカたちとは何度も繰り返した話なのだろう。ラーヴァナは、ただテージャスに向かって話しかける。

「お前は、それでも父上を尊敬するというのか。立派な方だと言うのか」

 ラーヴァナの目はまっすぐテージャスを向いていて、その視線の鋭さにたじろぐ。テージャスを追い詰めるように、

「慣習だというわけで、息子を他国の人質にしても平気な方だ。それがどういう意味を持つのか、考えてみるがいい」

 見開いたラーヴァナの目に、自分が映っている。それほど間近に近づかれて、その語気の荒さとともに圧倒された。返すべき言葉もなくただ唖然とラーヴァナを見つめているテージャスに、ラーヴァナは苛立ったようだった。肩に置いた手を乱暴に振りほどかれる。

「それを当然だと思っていらっしゃる。お前も……ヴィビーシャナも同様だ。これが慣習だと、当然だと何も考えようとしない。深く考えることもなく、ただ受け入れている」

 憎々しげに、ラーヴァナは言った。テージャスを睨みつける彼の目は、本当は何を睨んでいるのか。彼はテージャスを見ていなかった。目は、いつの間にか姿を消していたナラカのいた場所に向いていたが、彼が見ているのがナラカでないことはわかる。それでは、彼は何を睨みつけているのか。

 固唾を呑んだ。尋ねればわかるというものではない。書物を紐解いてわかるという類のものでもない。テージャスは目を見開いて、ただラーヴァナのまなざしを受け止めていた。

 ラーヴァナは、初めて会ったときと同じくテージャスの腕を掴んだ。強すぎる力にテージャスは呻きを上げ、しかしラーヴァナは力の加減をしない。

「話を聞きたいのだろう? 私がどうしてバラタ国から出てきたのか、話してやる」

 そう言って、ラーヴァナはテージャスの腕を引っ張る。足が滑りかけて慌てるが、ラーヴァナはそのようなことは気にしていないというようだ。

「どこだ、お前の宮は」

「あ、その先を右に曲って……」

 広い王宮は幾棟もの宮がたくさんの柱廊でつながっていて、それぞれが妃や王子、王女に与えられている。幾代か前の王には妃が十人以上、王子王女は三十人を超えたというから、そのときはどの宮にも主がいたのだろう。しかしヴィシュラヴァスは妃の数も少なく、準じて子も少ない

 ラーヴァナは、まるでそこが自分の宮であるかのようにテージャスの宮に入った。テージャスは突き飛ばすように、敷布の上に座らされた。

 トリナヴァルタが、慌てて円座を持ってくる。改めてその上に座り直したテージャスの前にラーヴァナは座り、胡座の膝に肘を置くと、顎を手の甲に乗せてじっとテージャスを見つめてきた。

「バラタ国で、私がどのような生活をしていたかわかるか?」

 いきなり、ラーヴァナはそう言った。見当もつかなかったので、テージャスはただ首を横に振った。

「確かに、奴隷のように鞭打たれたり石を投げられることはない。しかし存在そのものを鎖につながれ、声には出さずに蔑まれ、影で笑われる者の屈辱がわかるか。直接罵られ、唾を吐きかけられるほうがよほどましだ」

 ラーヴァナは、いきなり片肌を脱いだ。ぎょっとしたテージャスの前に、筋肉のついた右の腕に、入れ墨が彫り込まれている。バラタ国の文字で、『八』との数字が刻まれていた。

 それは、ラーヴァナがバラタ国の虜囚であったことを示すものなのだろう。テージャスは息を呑んだ。そんなテージャスの反応に、ラーヴァナは目を眇めて眉を寄せる。

「お前のように、生まれ持った恵みに狎れている者を見ると、腹が立って仕方がない」

 この容姿のせいで、奇異に見られることは多い。それでもラーヴァナの負ってきた苦しみにはほど遠いだろう。そのことを恥じて、テージャスはうつむいた。

「書物にいったい何が書いてあるというのだ。どこにいるともわからない神を賛美したり、昔の出来事を知ったり。そのようなことが何になる。ランカー国のこの先に、何の助けになるというのだ」

 彼の言葉の最後は、テージャスに言っているというよりも独り言のようだった。乱暴な手つきで衣服を直すラーヴァナに、テージャスは何も言えないままただ視線を床に落とすしかなかった。

 服を整えたラーヴァナは、大きく息をつく。彼はちらりと卓の上を見やった。

 そこには自分の宮に持ち帰った件の碑文石を真ん中に、たくさんの書物が広げたままになっている。手がかりとなるような書物を紐解くうちに、これほどに散らかってしまったのだ。ラーヴァナは、その黒い目をつり上げた。

「こんなもの……」

 ラーヴァナが、八つ当たりのように卓の上の書物を払い落とした。テージャスはとっさに駆け寄った。卓に突っ伏し、抱きかかえるように碑文石の上に身を投げた。

「大切なものなのか」

 テージャスは頷く。ラーヴァナの表情は不機嫌なままだったが、彼は手をとめた。テージャスの読めない碑文石の字をじっと見ている。

「何だ、これは」

「わかりません。兄上がお帰りになる少し前、神殿の書庫の奥から見つかったものです」

 ラーヴァナがあまりにもじっと見つめていることに、テージャスの胸は騒いだ。バラタ国で教育を受けてきたラーヴァナは、この文字を読めるのかもしれない。

「兄上、お読みになれるのですか」

 しかしラーヴァナは、ひとつ大きく首を横に振った。はっきりとした否定に、期待しただけにテージャスはがっかりした。しかしそれでいてなお、碑文石から目を離さないラーヴァナを訝しんだ。

 ラーヴァナは、記憶をたどるように碑文石を見つめている。そして彼らしくもない、どこか自信なげな口調で、つぶやいた。

「しかし、バラタ国の神官が似たようなものを読んでいるのを見た。神の言葉が書いてあるのだと言っていたが……」

 とっさに、今すぐにでもバラタ国に旅立ち、その神官に会いたい気持ちに駆られた。もちろんそのようなことができるわけはない。ラーヴァナにとっては混乱に乗じて逃げ出してきた敵対する国であっても、テージャスにとってはにわかに、憧れの国となった。

「それでは、兄上。そのとき、神官がなんと言っていたか覚えていらっしゃいませんか。ほんの一節でもいいのです、覚えていらっしゃる言葉があれば、是非」

 ラーヴァナは、テージャスの勢いに気圧されたようだ。先ほどまでとは立場が逆転した。しかし少しでも手がかりがあれば、その先を読み解く手がかりになるかも知れない。そう思うと、テージャスの声は大きく鳴った。

「お願いします、兄上」

 あっけにとられたようなラーヴァナは、何度かまばたきをして、そして言った。

「聞き覚えだ。ほんの少ししか覚えていないぞ」

「それで構いません、どうぞ、おっしゃってください」

 不承不承、ラーヴァナは口を開く。テージャスは固唾を呑んで、耳を澄ませた。

「ハリシカ……」

 ラーヴァナの声は、いつもとどこか違って聞こえた。歌うようにその言葉を口にしたからかもしれない。そして何よりも、それはまったく聞いたことのない言葉で、その意味の見当もつかなかった。

 テージャスの知っている諸国の言葉は、いずれもどこか似たところがある。人の話す言葉である以上、離れた場所であっても似る点が出てくるのだろうと思っていた。しかしラーヴァナのつぶやいた言葉からは、その共通点が聞き取れない。ラーヴァナの言うとおりただの聞き覚えであるから、正しい音ではないのかも知れない。それにしても不思議な音の連なりだと思った。それでいて聞いたことがあるように思う。習い覚えた言葉ではないのに、どこか懐かしいような気がするなどおかしなことだ。

「ハリシカ」

 まるで、生まれる前から知っていたかのような感覚だ。声に出してみると、その感覚はますます強くなった。脳裏を何かが貫く感覚があった。テージャスは思わず声を上げる。

「……あ!」

 書の間の空気が大きく揺れた。風でも吹いたのかと思ったが、しかし髪の一筋も揺れはしない。それでいて思わず卓の端につかまってしまったくらいの、不可解な衝動があった。

「な、に……?」

 ラーヴァナが、大きく目を見開いている。彼の見ている先を見やって、テージャスも同じように瞠目した。

 女がいた。肌の色が白い。目は薄い青で長い髪は亜麻色だ。その姿はどこかテージャスと似ていたが、その線の細さから女性でしかあり得ない。顔には幼さが残るが、それでもその大きな瞳、長い睫毛と白い頬、細い鼻梁、小さな唇。どんな男をも一目で魅了できるだけの美貌を有している。

 女は床に座り込んでいる。床には彼女の長い髪が広がっていて、白い石を飾る装飾のようだ。両手を後ろにして体を支え、胸を張る格好で、きょとんとした顔をしてテージャスたちを見上げている。その麗しい美貌に似合わず、まるで子供のような表情だ。

「こ、こは……?」

 鴾色の衣装を纏った彼女はあたりを見回し、ラーヴァナを、そしてテージャスを見た。テージャスと目が合うと、彼女は、ぱっと花が開いたように微笑んだ。

 彼女は喜んでいる。テージャスを見つけて嬉しいとの表情にはなぜと疑問が湧くばかりだが、彼女の嬉しげなまなざしに包まれるのは、今までテージャスの味わったことのない感覚だ。胸の奥が満たされていく、不思議な心地よさが広がっていく。

「王……!」

 王、と彼女は呼びかけた。いったい誰に向かって。女は体を起こす。まるで体重などないかのように、軽やかな動きだ。彼女は跪いた。差し出した右の手のひらを自分の額に当てるようにし、左手は床についている。右手の指先は、真っ直ぐテージャスを差していた。

「王よ」

 彼女は言った。涼やかな声だ。まるで繊細に作られた鈴を優しく振ったようだ。差し出される手も指先も白く、染みひとつなく清廉で、テージャスを差す磨かれた爪は窓越しの日差しを反射して瑠璃色に光っている。女はなおも恭しく言った。

「我らが王、テージャス様。テージャス様とここでお目にかかれました光栄、このティールタ、何よりの誉れと存じ寄ります」

 ティールタと名乗った彼女は、顔を上げた。細く白い顔はテージャスを見て微笑む。その青い目は空の色を映しているかのようだ。細い眉、整った鼻梁。艶やかな頬に赤い唇。そこから白い歯がこぼれると、まるで一輪の花だ。テージャスは彼女に目を奪われたまま、何度も何度もまばたきをした。

「テージャス様、この場はわたくしひとりでご不満でもあらせられましょう。されど今ひとつお腹立ちをお納めいただき、わたくしとともに蜃気楼の森へおいでいただきたく存じます。あちらではすべてのガンダルヴァとアプサラスが、テージャス様のおいでを歓迎せんとお待ち申し上げておりますゆえ」

 何もかもが、あまりにも唐突だ。いったいどういうことかと問おうとしたが、質問はうまく言葉にならない。まるで覚えたばかりの外国語を話そうとしているかのように、咽喉に絡まって声が出ない。

「私が、何だと言うのですか……?」

「蜃気楼の森の王であらせられます、テージャス様。蜃気楼の森の王、北西天の証たる亜麻色の髪、白い肌と青い瞳。そのお姿が、何よりの証です」

「蜃気楼の、森の……?」

 それは書物の中にある言葉、祭詞(ヤジュス)に出てくる言葉だ。いくら自分がこの国の異端であると自覚していても、だからといって自分が、その『蜃気楼の森』の、しかも『王』であるなどと、言われたからといって信じられるものではない。

 しかし、と考える。神殿の書の間の奥で見つけた碑文石。刻まれた文字に、あれほどに心惹かれたわけ。ラーヴァナが口にした不思議な言葉を、生まれる前から知っていたような気がしたわけ。あれらは天界に、蜃気楼の森に関係するものだから。だから自分は惹きつけられたのではないだろうか。そのような気がした。

 テージャスを見つめて微笑むティールタの笑みは、差す光に照らされてますます眩しく輝いた。彼女の、自分と同じ色の瞳、髪、肌の色を見つめた。彼女の言う蜃気楼の森には、同じ姿をした者たちがいるのだろうか。ランカー国の者たちが、同じ特徴の容姿をしているように。まるで間違ってしたたり落ちた(デューハ)の一滴のような自分がなぜここにいるのか、その理由をティールタは知っているのだろうか。

「……あ」

 にわかに、今まで頭の奥で薄ぼんやりとしていたものの霧が晴れたように感じた。彼女の知っていることを、知りたい。その衝動は、強くテージャスを押した。

「あなたは……」

「おい、お前」

 しかし、ラーヴァナの厳しい声のほうが先に飛んだ。テージャスは彼を見る。ティールタの笑みが消え、彼女は、その薄青の瞳を眇めた。

「どこから入ってきた。何者だ」

 問い質すような厳しいラーヴァナの言葉に、彼女はそちらに顔をやる。テージャスに向けていたのとはまったく違う、威圧的なまなざしでラーヴァナを見た。

「我は、蜃気楼の森のアプサラス」

 ティールタは背筋を伸ばし、胸を張って、テージャスに話しかけたのとはまったく違う威圧的な口調そう言った。アプサラスたることを誇る口調は、しかし彼女のかわいらしい声によって威圧感が半減してしまう。それを自分でもわかっているのか、ティールタは目を眇めてラーヴァナを牽制するような表情を作る。

 しかし、ラーヴァナが畏れるような反応をしないことが不満だったのだろう。細い眉根を寄せ、訝しむようにラーヴァナを見やった。

「そなたは、誰ぞ」

「ランカー国の、王子だ」

 ランカー国、という部分を強調した声音でラーヴァナは言った。しかしティールタは、何を言うのかと不思議そうな顔をする。

「ここは、ランカー国とやらなのか」

「知らないのか。ランカー国の名をも知らず、お前はいったいどこから来た」

 ただただ唖然とティールタを見つめるばかりのテージャスの前に立ち、ラーヴァナは強い口調で続ける。ラーヴァナの言葉の強さには、自分に向けられているわけでもないのにテージャスも思わず震えてしまう。しかしティールタは、そんなラーヴァナに怖じ気づいた様子もなく、それどころかなおも慇懃に言葉を返す。

「我はただ、我らが王をお迎えに上がったのみ。人間界の国の名のいちいちなど、我々には関わりなきこと」

「お前、アプサラスのくせに国の名も知らないのか。アプサラスだというのは偽りだろう」

 ティールタは、あからさまに気分を害した表情をした。きっと目をつり上げてラーヴァナを睨みつける顔には、どこか幼い色がある。

「我が真にアプサラスかなどと、そなたなどに疑わるる条理などないわ」

 ティールタは苦々しくそう言い放つと再びテージャスを見、改めて跪く。ラーヴァナと話しているときとはまったく違う、眩しい笑顔でテージャスを見つめて、言った。

「テージャス様。いざ、蜃気楼の森へとまいりましょう」

「え、あの……」

 彼女の白い肌と青い目に親近感を持った。自分が彼女の仲間だと聞かされて、思慕のような感情が湧き上がった。とはいっても突然蜃気楼の森に行こうと言われても、頷くには何もかも唐突すぎる。

「待てっ!」

 ラーヴァナは声を上げ、テージャスとティールタの間に割って入った。テージャスに向かって怒鳴り声を上げる。

「テージャス。お前は突然現れた、こんな得体の知れない女に王だの何だの言われて、それを信じるのか」

「あの、兄上……」

「この女は、そうだな。幻術使いか何かで、私たちを何らかの罠にとらえようとしているのだろう。蜃気楼の森の王だと? 突然現れてそのようなことを申し立てられ、それで信じられるはずがあるか」

 ティールタは、にわかに怒りの表情でラーヴァナを見る。そんな彼女を前に、ラーヴァナはますます激昂した。しかしティールタは怒りを堪えるように唇を噛み、そしてつんと顔を逸らせてしまう。

「そなたが何を申そうが、テージャス様は我らの王。そなたに邪魔などさせぬ」

 またテージャスに向き合ったティールタはまったく口調を変えて、この上もない柔らかい声で言った。

「さぁ、テージャス様。わたくしとともに蜃気楼の森においでくだされませ。このティールタ、王の先導を務めさせていただく光栄に身の震える思いでござります」

「は、ぁ……」

 しかし、一番混乱しているのはテージャスだ。頼るようにラーヴァナを見た。ラーヴァナは、苛立った様子でティールタに声をぶつける。

「何を言っている、テージャスはランカーの王子だ。このような場で、王だの何だのと言われたからといって、はいさようでと連れて行かれるのを黙って見ていると思うのか」

「このような者の申すことにお気を乱されてはなりません。さぁ、いざ」

「私も……あの、困ります」

 ようやっと口を挟んだテージャスの言葉に、ティールタは落胆の表情を見せた。言葉遣いは大仰でも、そのような表情はやはり少女だ。それに罪悪感を煽られたが、然りとてテージャスもティールタの言うことをそのまま信じるわけにもいかない。

「テージャス様は、わたくしとともにおいでになることを拒みなされるのですか?」

「そういうわけではありません。ただ、兄上のおっしゃるとおり……いきなり蜃気楼の森の王だとか言われても、私には何のことか……」

「そら見ろ」

 どこか子供っぽい口調でラーヴァナは言った。

「テージャスにその気がないのに、それでもお前はテージャスを連れて行くと言うのか」

 いきなり現れて不躾なことばかり言うこの女の鼻をあかせてやれるというように、ラーヴァナは得意げにそう言った。

 ティールタはラーヴァナを振り返った。目がかっと見開かれ、今までにない大声がその小さな唇から飛び出す。

「うるさいわねっ!」

 急にティールタの口調が変わったことに驚いたのは、テージャスだけではなかった。ラーヴァナも目を丸くして彼女を見つめている。

「わたくしが、テージャス様をお見つけしたのよ! そのわたくしがテージャス様をお連れして、何の悪いことがあって?」

 堰を切ったようにティールタは叫ぶ。怒りの口調でありながらも声の美しさは変わらない。それどころかそうやって彼女の本来の口調で話すことでその声は張りを持ち、取り澄ました態度など忘れて怒る姿は差す陽の光のもと、彼女をますます美しく見せた。

 先ほどまでよりもすらすらと言葉が出ることに、あの丁寧な口調は彼女自身も口慣れない物言いだったということがわかる。それにつられるように、ラーヴァナの言葉も流水のように流れ出た。

「どこからともなく入ってきて、わけのわからないことばかり言うな。蜃気楼の森だと? あれは神話の書物にあるだけのものだ。そのような場所からやって来たなど、言い訳にしても粗末すぎるな」

「何を……!」

「おおかた、バラタ国かコーサラ国から差し向けられた密偵ではないのか。まだ成人もしていないような女を密偵に使うとは、父上もよほどに舐められたものだ」

 ラーヴァナの言葉に声も出ないティールタは、せめてもというのか視線を尖らせてラーヴァナを睨む。火花が散るふたりの間を制したのは、テージャスだった。

「兄上、ティールタ殿も。話をなさるなら、せめて落ち着いて」

「テージャス様、わたくしのことはただ、ティールタとお呼びくだされませ」

 テージャスの方に向き直り、頭を下げてティールタは言った。ラーヴァナに向けていた顔とはまったく違う、敬意と喜びに満ちた表情でテージャスを見つめる。

「テージャス様は、わたくしたちすべての王であらせられます。その王のご命令とあらば、お受けしないなどということがございましょうか」

「それなら、私の質問に答えていただけますか」

「何なりと、テージャス様」

 ティールタは顔を輝かせた、王のために役に立てることが嬉しくて仕方がないらしい。そんなティールタのあまりの態度の違いに、面白くないと言ったようにラーヴァナが、先ほどはたき落とした書簡を蹴る。それが跪いているティールタの膝に当たり、ティールタは怒った顔でラーヴァナを睨みつけるとまた声を上げかけた。

 しかしそれをとめようとしたテージャスが何をも言う前に、部屋の向こうからテージャスを呼ぶ声が聞こえた。その息せききった声に、皆揃ってそちらを向く。現れたのはテージャスの従者で、彼はひざまずくのももどかしいといったように声を上げる。

「王がお呼びでいらっしゃいます。何でも訪問者があるとかで。しかもそれが……」

 従者は顔を上げた。ティールタを見て、大きく目を見開く。一瞬我を忘れたような従者は、慌てて言葉を継いだ。

「アプサラスだと、いうのです」

 従者の言葉に、テージャスはまばたきをした。ラーヴァナは、どこか虚を突かれたような顔をする。

「あなたの、お仲間ですか」

 ティールタにそう問うたテージャスに、しかし彼女はいたずらを見つかった子供のような様子だ。先ほどの勢いはどこへいったのか曖昧に頷きながら、視線を床に落とした。

「ラーヴァナ様も、テージャス様も。ともあれ、請客の間においでくださいませ。王がお呼びにございます」

 少し息の落ち着いた従者は、顔を伏せてそう言った。彼が急かすのに、部屋を出る。

 ラーヴァナは足早に、乱暴な足音ともにテージャスを追い抜かして柱廊を行く。ティールタは、テージャスの後ろについて、どこか怯んだような表情をしていた。

 彼女が本当にアプサラスだというのなら、仲間がやって来たことに喜ぶものではないのだろうか。しかしティールタはどこか気まずそうな、困ったような顔をしている。

 向かった請客の間には、王の座に座るヴィシュラヴァスを始め、王族に諸臣が集まっていた。上座には王が、その下にはふたりの王妃。さらにその下に座ったヴィビーシャナは、睨みつけるように入ってきたラーヴァナを、そしてテージャスを見た。

 広がっていたざわめきは、テージャスが請客の間に足を踏み入れると砂嵐がやむように小さくなった。皆がティールタを見ているのがわかる。一足先に請客の間に入ったラーヴァナはすでに王子の座に座って、来訪者を睨みつけるように見やっていた。

 訪問者はふたりの女性だ。王の前にひざまずいているうちのひとりはティールタよりも少し年を重ねたような、しかし充分に若々しい外見をしていた。何歳くらいだと判ずることは難しいような不思議な印象なのは、やはり彼女たちがアプサラスだからなのだろうか。

 肌の色は白く、髪の色は亜麻色だ。もっとも頭には顔が半分隠れるほどに長い白い面紗(シャラ)をかぶっているので顔のすべてがはっきりとは見えず、髪も頬のあたりに少し見えているだけだ。しかしそれは豊かに艶やかで、それだけでも充分に美女の要件を満たしているということがわかる。

 王に向かって右手側にひざまずいていたアプサラスが、顔を上げる。テージャスを見て輝いたその表情は、先ほどティールタが見せたものよりもやや控え目ではあったが、それでもその喜びを示していた。テージャスに会えて嬉しいと、彼女がもう少し幼く、恥を知らないのであればテージャスに抱きついていたのではないかと思われるほどに、その表情は歓喜に満ちていた。

「我が、主……」

 彼女は、噛みしめるように言った。一度なくしたものを再び手に入れ、二度と離したくないというように、彼女は食い入るようにテージャスを見つめた。

「再び、お目にかかれるとは……」

 彼女は口をつぐんだ。首をひとつ横に振り、そして視線をティールタに向ける。じっと見つめられて、ティールタは慌てて目を伏せた。まるで叱られる子どものようだ。そのアプサラスは視線を移してテージャスを見、そして目を眇めて優美な笑みを作った。

「若いアプサラスが先走り、申し訳のないことでございました」

 その声は、鈴を振るようだ。もっとも彼女が真にアプサラスであるというのなら、それも当然のことだ。蜃気楼の森の王に仕える、優美なる天界人。アプサラスの声は誰をも酔わせ、その舞いは何者をも虜にする。

「ご不快をおかけいたしておりますまいかと懸念しております」

「いえ……」

 視線の方向からも、彼女はテージャスに話しかけているのだろう。この場で、王ではなく王子に直接話しかけるなど、ランカー国の礼儀としてはまったくあり得ないことだ。しかし、空間が裂けたかのように突然現れたティールタは、テージャスを『王』と呼んだ。

 蜃気楼の森の王。その言葉がテージャスの脳裏を貫いた。胸が大きく鳴り、鼓動が咽喉奥にまで伝わってくるような気がした。しかしこの場で真実を問い質すわけにはいかず、テージャスは円座に腰を下ろした。もうひとりのアプサラスに目をやる。

 彼女は視線を落として俯いているので、どのような顔であるのかはわからない。頭には銀の(カーイニョ)を飾り、もうひとりのアプサラスと同じ、白い面紗(シャラ)を垂らしている。

 彼女たちの衣装は豪奢な布でできている。特にそれぞれが顔を隠すほどに深くかぶった面紗(シャラ)は、蜘蛛の糸で織ったかのように淡く繊細な布で、少しでも乱暴に触れれば破れてしまいそうに薄く艶やかだ。飾る銀の縫取りも、女性の装飾品のことはテージャスにはよくわからないが、人間業では不可能なほどに手の込んだものであることだけはわかる。

「息子のラーヴァナと、テージャスだ」

 テージャスが腰を下ろしたのを見やって、ヴィシュラヴァスが重々しい声でそう言った。ふたりのアプサラスは立ち上がった。テージャスの前に歩み寄ると、再び跪く。ティールタがテージャスに向かって取ったのと同じ、差し出した右手の手のひらを自分の額に当てる格好を取った。

「テージャス様。お目もじがかない、嬉しゅうございます。わたくしはウルヴァシーと申します。こちらは、ティローッタマー」

 ふたりは丁寧に頭を下げる。その仕草ひとつひとつには驚くほどの優美があり、テージャスは憑かれたように、ただ頷いた。

 ティローッタマーが、そっと被りものを脱ぐ。亜麻色の髪がこぼれ落ちる。顔を上げたティローッタマーからは、ウルヴァシーやティールタとはまた違う儚げな印象を受ける。ほかのふたりよりもその美貌が勝っていると感じたのは、そこに浮かんでいる見る者の心を掴む切なげな笑みのせいかもしれない。

 同時に、彼女の顔はどこか見たことがあると思った。肌の色髪の色、青い目の色もウルヴァシーともティールタとも同じでありながら、どこか違うと思った。どこか慣れ親しんだような、慕わしいような色だ。

「あ……」

 彼女が、鏡に映る自分に酷似しているのだとテージャスは気がついた。そんなテージャスにティローッタマーは丁寧に頭を下げて、そしてヴィシュラヴァスの方を向いた。まっすぐに向けられた顔に、ヴィシュラヴァスは低い叫び声を上げた。

「そなた……!」

 ヴィシュラヴァスは勢いよく立ち上がる。その場の者たちが、皆ざわめく。このような場で一国の王が取る作法ではない。しかしそれどころではないといったようなヴィシュラヴァスの顔は青ざめ、テージャスは彼の低いつぶやきを聞いた。

「……ローカマター……」

 テージャスは思わず顔を上げる。彼は、確かにそうつぶやいた。それはとうに亡くなった、テージャスの母の名だ。ヴィシュラヴァスの手が弱々しく持ち上げられ、指を差す。

 ヴィシュラヴァスの指す先にいるのは、ティローッタマーだ。そのティローッタマーは、王の動揺にも驚いた様子はない。むしろそれを予期していたように目を眇め、微笑んでいた。その笑みは何かを後悔するような、それでいて何かを喜ぶようでもある。

「父上、どういうことなのですか……?」

 まさか、との心を抑えてテージャスは尋ねた。しかしヴィシュラヴァスは、まるで惚けてしまったかのようにただローカマターの名を繰り返すだけだ。

「お久しゅうございます、ヴィシュラヴァス様」

 ティローッタマーはゆっくりと頭を下げた。テージャスと同じ色の髪が、さらりと床に垂れる。長いそれは白い床に綾な模様を作り、彼女の美しすぎる容姿に華を添えた。

「今までの無沙汰、どうぞご勘弁あそばして。今までテージャス様をお護りくださいましたこと、感謝申し上げます」

「……ど、ういう……」

 ヴィシュラヴァスは、なおも声を震わせる。そんなヴィシュラヴァスを細めた目で見やり、ティローッタマーは左右にゆっくりと髪を揺らした。

「わたくしはアプサラス。アプサラスは死なぬもの、死に見えたは本当の死ではない。わたくしは子をなしたことで気が尽き、今のこの身は転身した姿にございます」

「転身……?」

 ティローッタマーは立ち上がった。しゃらり、と軽やかな衣擦れの音がする。従者や女官たちが止める間もなく床をすべるように歩き段をのぼり、テージャスの横を歩いてヴィシュラヴァスの傍らに跪き、その手を取った。老人の手と若い女の手が重なる。ローカマターは、手の甲に恭しくくちづけた。

 目を細め、年老いたかつての夫を優しく見つめるティローッタマ――-否、ローカマターは、今では親子ほどに年が離れた容姿でそこにいるのだ。

「テージャス様は、蜃気楼の森の王にあらせられます。ゆえに、わたくしたちがお迎えに上がりました」

「テージャスが、蜃気楼の森の王……?」

「さようにございます」

 あたりに響き渡る声で威厳とともに高らかに告知されるべきだったのであろう蜃気楼の森の王の存在は、ローカマターの紅の唇からつぶやくように密やかに告げられた。テージャスは何度もまばたきをする。唖然とするばかりのテージャスの目の前、ヴィシュラヴァスはどこか納得したような様子で夾膝に置いた腕に体重をかけ、大きく息を吐いた。

「……テージャスが、普通の子ではないことはわかっていた。アプサラスの生んだ子だという以上に、何か。しかし、あれが蜃気楼の森の王。そしてそれを迎えに来たのが、ローカマター……そなただとは」

「何も申し上げないまま御前を去りましたことは、幾重にもお詫び申し上げます」

 ローカマターは目をすがめ、王の手を取ったまま言った。

「わたくしは蜃気楼の森にて転身し、新たなアプサラスとしてティローッタマーの名をいただきました。されど心はいつもヴィシュラヴァス様のもとにあり、この日を……待ち焦がれておりました」

 ローカマターは、言葉に詰まり震える声でそう言った。再び王の手に丹を落としたように赤い唇を触れさせた。彼女の手は離れない。まるで、ヴィシュラヴァスにその場にとらえられてしまったかのようだ。

 声を上げたのは、ウルヴァシーだった。

「わたくしたちは、テージャス様を蜃気楼の森へお迎えいたしたく存じます。あちらでは皆、王を待ちあぐねておりますゆえ。いざ、我々とともに森へおいでくだされますよう」

 その落ち着いた声は、請客の間の乱れた空気をもとに戻した。その場にいる者は皆、ウルヴァシーの発言を恭しく聞いていた。ただひとりを除いては。

「いや、いかん」

 ヴィシュラヴァスの大きな声に、皆は揃って彼を見た。

「いかん、ローカマター。そなたは行ってはならぬ。余は二度とそなたを離さぬ。この命尽きるまで余のもとにいよ」

「ヴィシュラヴァス様……」

 ローカマターは、溢れる喜びを抑えられないという顔でヴィシュラヴァスを見つめる。彼ばかりを見つめ、自分がここに来たそもそもの目的をも忘れてしまったかのようだった。

 ヴィシュラヴァスは立ち上がり、見上げるローカマターを引き上げた。ふたりが並び立つと、まるで父と若い娘のようだ。しかし握り合った手は、ふたりが慈しみ合う恋人同士であることを伝えてくる。

「余は二度とそなたを手放さぬ。我が妃として、永劫側に留まることを命ず」

 テージャスもラーヴァナも、居並ぶ誰をも見えてはいないかのようだ。ヴィシュラヴァスはまっすぐにローカマターだけを見ていて、ローカマターは顔を輝かせた。ウルヴァシーは眉根を寄せ、ティールタはひとり、意外な事態を前にどうすればいいのかと困惑しているように見える。

「そなたらは、ローカマター以外は勝手に森に戻るがよい。余は止めぬ」

 ですが、とウルヴァシーは言った。

「ですが、わたくしたちの使命はテージャス様を蜃気楼の森にお連れすること。その任果たさずに、ここに留まることはできないのでございます」

「余は知らぬことだ。ローカマターはここに置く。これは王命だ。逆らうことは許さぬ」

 聞く耳など持たないという、まるで駄々っ子のようなヴィシュラヴァスの姿に呆れもし、また羨ましくも思ったのはテージャス自身不思議な気持ちだった。

 愛する者を前に群臣の目も何をも気にせず、なりふり構わず王の権威を振りかざしてなお、ひとりの女性を手に入れようとする。そんな父の姿は想像もしたことがなかっただけに、好ましく映った。

 テージャスはふと、視線をラーヴァナに向けた。彼はぎょっとするほど険しい表情をしていた。ヴィシュラヴァスを睨みつける様子は、まるで仇を睨みつけているようだ。

「テージャスを連れて行かねばならぬと言うのなら、テージャスもここにいるがよい。ローカマターもテージャスも、余のそばから離さぬ」

 ヴィシュラヴァスはローカマターだけを見つめていて、そうやって見ていないと彼女がまたかき消えてしまうのではないかと恐れているかのようだ。ローカマターもそのまなざしを、わずかに瞼を伏せながらも受け止めている。まるで物語の王と姫のようだ。テージャスは、ぼんやりとそう思った。

「ヴィシュラヴァス王」

 そんなふたりを引き裂くような声が上がった。ウルヴァシーだ。彼女は、確認するようなはっきりとした声でヴィシュラヴァスに問うた。

「それでは王は、テージャス様を蜃気楼の森に行かせられぬとおっしゃるのですね」

 ウルヴァシーの言葉に、ヴィシュラヴァスは尋ねられるまでもないという表情を見せた。

「そうだ。ローカマターがテージャスとともに行かねばならぬというのなら、テージャスも渡さぬ」

 ウルヴァシーがローカマターを奪い去る者であるかのように睨みつけ、ヴィシュラヴァスは強い口調で言葉を続ける。

「天罰なり何なり、好きに落とすがよい。余は意志を変えぬ。誰がなんと言ってもだ」

 ヴィシュラヴァスはローカマターと取り合った手を握り直し、立ち上がった。ローカマターの頭には、もうテージャスのことはないようだった。ヴィシュラヴァスを見る彼女のまなざしは、喜びに満ちている。恋する相手を見つめる少女そのものだ。

 ふたりは微笑み合いながら、緞帳の向こうへと消えていった。衣ずれの音が遠くなる。

「ティローッタマー様……」

 唖然と声を上げたのはティールタだった。何がどうなったのか、目の前に見てもなお信じられないといった様子だ。一方のウルヴァシーは控えめなため息をつく。ウルヴァシーとローカマターはこうなることを知っていたというのだろうか。しかしティールタにだけは知らされていなかった。それはやはりウルヴァシーが言ったように、ティールタが年若いがゆえなのだろうか。

 吐息をつきながらも落ち着いたウルヴァシーの前、ティールタはひとり戸惑っている。王とティローッタマーの消えた請客の間は、徐々に広がる波のような騒ぎに包まれた。

「父上……!」

 声を上げたのはラーヴァナだった。しかし彼は動かない。その場に根が生えたようなのは、あまりのことに動く力をも奪われてしまっているというようだった。

 しゃらしゃらと、繊細な金属細工の装身具の触れ合うような音がした。いったい何の音かと、テージャスは柱廊の向こうを見やった。

 雨が降り出している。金属の触れ合うようだと思ったのは、庭園の砂に雨粒が吸い込まれていく音だ。このような季節に雨など、奇妙なことだ。テージャスは首をかしげ、それはその場のほかの者たちも同じだった。

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