第四章
降り続いた雨は、次の朝にはやんでいた。しかし雲は晴れず、いつもなら眩しい朝の光の差し込む神殿は夜明け前のように暗い。表に面した身廊部の石も、うっかりすればすべってしまいそうなほどに濡れていて、歩くには細心の注意が必要だった。
ランカー国は、クベーラ神を国の祖として祀っている。この世の始め、クベーラは天界にある蜃気楼の森というところからやってきて、地を耕すこと、牛や馬を飼うこと、鉱石や宝石の眠っている場所、布や紙を作る方法をランカー国の民に教えたと言われている。神殿にあるのは見上げるほど大きな、凛々しい青年神であるクベーラの像だ。
蜃気楼の森には、ガンダルヴァとアプサラスと呼ばれる生きものが住んでいる。一年中緑が生い茂り花が咲き鳥が鳴き、そこには王がいて、その想像もできない楽園とガンダルヴァやアプサラスたちを治めているのだという。
ガンダルヴァは男でアプサラスは女だ。彼らは霞を食べて生きている精霊だと記してある書もある。そしてテージャスの早くに身罷った母は、アプサラスであったという――もっともテージャスは、単に『アプサラスのように美しい女』であっただけなのではないかと思っているが。
テージャスが神殿に入ると、いつもどおりに毎朝の祭儀を執り行なう用意が調っていた。テージャスが祭室に姿を現わすと、幾人もの下級神官が駆け寄ってきた。
「テージャス様。ラーヴァナ様がお戻りになったと聞きました」
「どのような方なのですか。なぜいきなりお戻りになったのでしょうか」
「バラタ国で、何かがあったというのですか」
「え、いえ、私も詳しくは……」
いきなり矢継ぎ早の質問を浴びせられて、テージャスは戸惑った。まごつくテージャスに群がる神官たちの口を閉じさせるクベーラ神の咳払いであるかのように、重々しく鼓の音が響いた。朝の祭儀の始まる合図だ。
若い神官たちは慌てて居住まいを正し、今までの噂話など忘れてしまったような神妙な顔をした。テージャスも彼らに混ざり、神殿への扉をくぐる。神殿の中にはほのかに香が漂い、鼓の低い音が続いている。
窓からは、少しだけ晴れ間が見えた。それにテージャスは安堵する。やはりあの雨は一時的なものだったのだ、ほんの少しの天候の狂いだ。昨日も今日も、そして明日も、変わりなく日は続くのだ。
磨かれた白い石床を歩いて、至聖所に向かう。主祭壇の奥には、黒曜石でできたクベーラ神像がある。隆とした体、涼やかな目もとと整った鼻筋を持つ美丈夫の姿をした神の像の前、ひざまずき両手を床につき、皆で祭詞を低く唱え始める。そうやって神殿では、いつもどおり厳かに、朝の祭儀が始まった。
テージャスの頭の中は、いつしか祭詞でいっぱいになっていく。そうやって神の残した言葉を口ずさむ歌に包まれながら、あの碑文石のことを考えた。
ランカー国よりも文化が進んでいるというバラタ国にいたラーヴァナが、あの文字のことについて何か知っているのではないかと、ふと考えついた。
朝の祭儀のあと、王宮の自室に向かっていたテージャスは、柱廊の向こうからやってくる姿にはっと顔を上げた。
ラーヴァナだ。足早に歩く彼は見る見るこちらに近づいてくる。真っ黒な髪、真っ黒な瞳。どのランカー人にもないほどに鮮やかな黒は、晴れ上がった空からの光を浴びる王宮の白い石の中できらめくほどだ。
自分は注視されることが好きではないのだから、自分も不躾に人を見つめるようなことがあってはならない。しかしラーヴァナは否が応でもテージャスの容姿はテージャスの目を惹き、彼を見つめたまま立ち止まっているテージャスの前に、彼も足を止めた。
そうやって見つめるテージャスの意図をどう取ったのか、ラーヴァナはまなざしを尖らせた。テージャスの抱えている書簡に目をやり、肩をすくめて言った。
「我が弟テージャスは学問に長け、神官たちの信頼も篤いと聞いている」
ラーヴァナの言葉は褒めているようで、それでいてどこかテージャスを冷やかすようにも聞こえた。身をすくめ、テージャスは目を伏せる。
「兄上にはご無事のお帰り、心よりお慶び申し上げます」
丁寧に頭を下げるテージャスに、ラーヴァナは鼻先で笑った。テージャスが顔を上げると笑みを消し、低い声で言った。
「して、お前はどう考える」
「何をで、ございますか」
テージャスの問い返しに、ラーヴァナは苛立ったような表情を見せた。この気の短さは、テージャスを戸惑わせると同時に魅了もする。まるで火花のような、照りつける太陽のような鮮やかさ、強さはテージャスを恐れさせるとともに惹きつけた。
「とぼけるな。父上との話を聞いていたのだろうが」
こっそりとヴィシュラヴァスとの会話を聞いていたことを言っているに違いない。あのような場所に立っていて、何も聞いていないととぼけるのは難しい。しかしラーヴァナは、立ち聞きをしていたことを責めるつもりはないようだった。ただ、テージャスに意見を聞きたいというだけのようだ。
「バラタ国と、我が国との関係をだ」
「それは……」
突然そのようなことを言われても、答えようなどない。しかしラーヴァナは、すぐに答えられないテージャスに苛立ったように、石の床にひとつ、足を踏み鳴らした。
「お前は、おかしいと思わないのか。我がランカー国は、バラタ国に頼らずとも充分民を養うだけの富がある」
ふたりの父、ヴィシュラヴァス王は、造成王とも綽名されている。乾季と雨季の厳しい自然に晒されるランカー国は災害に翻弄されることが多く、被害をできるだけ防ぐために築堤を設けたり堤防を築いたりということは何代も前の王のころから続いていることだが、ヴィシュラヴァスはそれを強化した。
それだけではない。ランカー国の南北を流れるナルマダー河の下流には枝分かれして海に注ぐゴーダーヴァリー河がある。それはヴィシュラヴァスによって作られた人工の河だ。ナルマダー河の下流は雨季のごとに大水による被害を受ける集落があったが、そこに流れ込む水を半分ゴーダーヴァリー河に流れるようにしたことで、氾濫による被害を防ぐことができるようになった。
また、乾季に備えて備蓄庫の建設を徹底したのもヴィシュラヴァスだ。その着想と手腕は、彼を賢王と呼ぶに相応しい事業のひとつだ。
ラーヴァナは大きく息をついた。自分の体内に渦巻く激情を、押さえかねるかのようだ。
「父上は、築堤を設け堤防を築いた。何のためだ? バラタ国との朝貢のためか。バラタ国を富ませるためか。違う。私たち自身が富み栄えるためだ。断じて、我が国を搾取し朝貢国という立場の上に胡座をかいているバラタ国のためでは、ない」
テージャスは、ただ目を見開いてラーヴァナを見ていた。ラーヴァナはもどかしげに唇を噛み、大きくひとつ息をついた。
「バラタ国では、内乱があった。王が死に、跡継ぎを争っての内紛だ。今、バラタ国の屋台骨は多いに揺れている」
「バラタ国の王は……亡くなったのですか」
テージャスの言葉に、ラーヴァナはにやりと笑った。
「内紛のことが洩れるのを恐れて、公表はされていないがな。しかしほかの三国にも、私が言い触れて回ってもいいくらいだ」
唇の端を歪める笑みのままそう言って、そしてラーヴァナは表情を引きしめた。
「私が、何のために戻ってきたか。私は歓待を受けるために、危険を冒してスヴァル砂漠を越えてきたわけではない。今、バラタ国は乱れている、今が好機だ。今を逃して、あのユディシュティラ王子が再びバラタ国をまとめるようなことがあれば……」
ラーヴァナは、その名を憎々しげに口にした。ユディシュティラとは聞いたことのある名だ。バラタ国の第一王子が、そのような名だったはずだ。
聞かされる話に相槌を打つこともできず、ただただ聞き入るテージャスを、ラーヴァナは睨みつけるように見やってきた。
「お前は、王族だろう。王の一族だろう。生まれる順が違えば、お前がバラタ国に行っていたかもしれないのだぞ。そのお前が、考えもしなかったというのか? 支配される国の屈辱を考えないのか。これが、神の与えた機であるとは考えないのか」
ラーヴァナの歯軋りが、彼の悔しさを物語っている。そのようなことを考えたことのないテージャスは、戸惑うしかない。
「お前は、父上をどう思っている」
固唾を呑んだ。言い逃れなど許されない。押されるままに、テージャスは言った。
「父上は……父上は立派なお方と、尊敬申し上げて……」
テージャスの言葉に、ラーヴァナは嘲笑うような表情をした。それにテージャスは、うつむいてしまう。そんなテージャスを、ラーヴァナはなおもじっと見てきた。
「お前は、自分の使命をどう心得る」
「使命……ですか」
ラーヴァナの言葉に、テージャスは大きく目を見開いた。今までに、そんなことをテージャスに言った者はなかった。己の、使命。そのようなものを考えたこともなかった。
言い淀むテージャスに苛立ったらしいラーヴァナは、吐き捨てるように言った。
「お前も、結局は皆と同じか。この好奇の視線の中であれだけ堂々としていられるのだから、骨のあるやつだと思ったのだがな」
そう言い捨てて背を向け、ラーヴァナは振り返らずに柱廊を行った。彼がテージャスを特別に見ていたということは、驚くと同時に嬉しかった。自分がラーヴァナを失望させるようなことしか言えなかったことを悔やむが、しかしだからといって何といえばラーヴァナを喜ばせられたのか、テージャスにはわからない。
去っていくラーヴァナの後ろ姿は、すでに小さくなっている。すれ違う従者や女官たちが、慌てて頭を下げるのを一瞥さえせずに、彼は柱廊の向こうに、消えた。
ランカー国に起こる、異変。それはラーヴァナが引き起こすのだろうか。それはさざ波なのか、大波なのか、それとも。
変化を恐れながらも、どこか楽しみにしている自分がいることにテージャスは気がついた。自分が冒険心など持ち合わせているとは思いも寄らなかった。今まで知らなかった自分の一面に驚きながら、テージャスはなおも、ラーヴァナの消えたあとを目で追っていた。