第三章
今夜は月も朧で、雲に隠れて星の光もない。テージャスの宮の寝室を照らすのは壁の燭台の炎だけで、窓から入ってきた風に揺れて部屋の中に影を作った。
影は揺れて動いて、奇妙な形に変化する。その様は頼りない不安を煽り、それでいて好奇心を煽られた。どこか恐ろしいのに、見ていたい。触れる勇気はないが、しかし風に吹き消されてしまうのは惜しいと思う。そんな奇妙な感情は、会ったばかりの兄、ラーヴァナを前にしての心を思い起こさせた。彼は、今までのテージャスの周りにはいなかった種類の人物だ。
彼はなぜバラタ国から出てきたのか。いったいどうやって。会ったばかりの人物にこれほど興味をかき立てられることを、不思議に思った。
テージャスは立ち上がって、窓際に立った。空はますますかき曇り、空気さえも湿ってどことなく肌寒い。
今は暑季の中でももっとも暑い時期、アソズ月の昼日中だ。一日中降り注ぐ太陽と乾いた空気、砂埃を上げる水気のない赤茶けた大地に国中が覆われている。このような時期に空がこのような色になるとはまったく珍しい。それを不審に眉をひそめたテージャスは、従者の声に顔を上げた。
訪問者があると聞かされて、このような時間に誰かと思えば第二王子、兄のヴィビーシャナだった。従者に先導されて部屋に入ってきた彼は、勧められるままに円座に腰を下ろして壁にもたれかかる。そしてじっと、テージャスを見やった。
「どうなさったのですか、このような時間に」
「ラーヴァナ兄上のことだ」
隆とした両腕を組み、自分より小柄なテージャスを上目遣いに見やり、ヴィビーシャナは唸るように言った。
「話を伺おうとお訪ねしたが、ニカシャー様のお部屋から出てこられないのでな」
「実の親子でいらっしゃるわけですから、積もるお話もあるのでしょう」
ヴィビーシャナは身を乗り出した。禁句を口にするように、声を潜める。
「兄上は、どうしてバラタ国をお出になったのだろうか。バラタ国の人質でいらしたのに、どうやって出られたのだろうな。それに、従者はあのひとりしかいないのだろう? ふたりだけで、どうやってスヴァル砂漠を越えたのだろうな」
「私も、何も聞いておりませんが」
同じようなことを、ヴィビーシャナも考えていたらしい。テージャスは一方的に声をかけられただけで、会話などしていない。だからヴィビーシャナの期待するような話は何もできない。しかし彼が興味深い人物であるということには同意できる。
「でもこの先、お目にかかる機会はあると思います。少しずつお尋ねになっては?」
「そのように悠長にしていられるかな」
テージャスの呑気さを嘲笑うようにヴィビーシャナは言った。その口調に引っかかりを感じたが、声を上げて言い争いになるのも避けたかったので、テージャスは黙った。
そんなテージャスをもどかしげに見やり、ヴィビーシャナは大きく息をつく。続けて、ため込んだ言葉を吐き出すようにする。それが言いたくて、ここにやってきたのだということが知れる物言いだった。
「何か、起こりそうだと思わないか」
何か? テージャスは首をかしげる。ヴィビーシャナは楽しげに言った。
「大きな変動があるぞ。この国を揺るがすような、何か大きな異変がな」
「ヴィビーシャナ兄上は、ランカー国の変転を期待しておられるのですか」
テージャスの言葉に、ヴィビーシャナは少しひるんだ。しかし口調はそのままだ。
「そういうわけではない。私は退屈しているだけだ。この、ひなた水のような世界でな」
「ひなた水……?」
聞き返したテージャスに、ヴィビーシャナは唇の端を持ち上げることで応えた。その意味はテージャスには読み取れない。
バラタ国の人質だったラーヴァナが、なぜか遁走してきた。ランカー国の第一王子がバラタ国の人質となるのは、通例なのに。それは確かに、大いなる異変の前触れだろう。
ラーヴァナの、刃よりも鋭い視線を思い出した。彼が何を起こすのか。ランカー国には何が起こるのか。背筋が震えた。
「……あ」
ヴィビーシャナが声を上げる。テージャスも、彼とともに空を見上げた。暗い空から、雨粒が落ちてくる。
「雨季にはまだなのに、どういうことだ」
曇り空だったのは、雨が来ていたからなのか。しかしヴィビーシャナの言うとおり、まだ雨季には一月以上ある。乾季と雨季のはっきりと分かれているランカー国でこのような時期に雨が降るなど記録にない。
たちまち空気を湿らせる雨は、不吉な前触れのように感じられた。




