第二十六話
何かに揺り起こされたような気がして、ラーヴァナははっと目を見開いた。
降りしきる雨は変わらず体を打っている。見上げれば血まみれの女も木の上にいて、彼女はじっとラーヴァナを見つめている。それはラーヴァナの見たものを知っていて、その思うところを聞きたがっているような様子だと感じた。
先ほどまでの光景は決して夢ではない。それでいてあれは何であるのか尋ねようと顔を上げたラーヴァナは、名を呼ばれて振り返った。
足もとの覚束ないティールタがいる。その足もとにはサーラメーヤがいて、ティールタを心配そうに見上げていた。先ほどは結界を越えられないと苦しんでいたはずの彼らがどうしてここにいるのかとの疑問がよぎったが、それ以上にティールタの様子に気を取られ、ラーヴァナは勢いよく立ち上がった。
「ティールタはどうした!」
ティールタは、ラーヴァナの声にはっと覚醒したように目を開ける。拍子によろめいて木の幹に手を置き、上にいる女に向かって声を上げた。
「ラヴァ、降りてきて。お願いよ……!」
「お前は……クシャなのか」
ラーヴァナの言葉に、ティールタのものではない表情でティールタはうなずいた。
「スラーディパは、ふたりいるのか」
ひび割れた地面に立ったティールタは、またよろめいた。彼女をトリナヴァルタが背後から支える。駆け寄って助けたラーヴァナの手に縋りながら、ティールタは言った。
「いいえ。私たちはもとはひとりであったものが、転身の際にふたりに分かれてしまった。ラヴァはひとりとして生まれたいと願い、私はそれを必死につなぎ止め……ですから、あのような姿で生まれたのです」
ティールタは大きく息をついた。声を出すのも難儀だというような調子だ。胸に手を置き、何度も浅い息を吐いた。
ラーヴァナは顔を上げ、枯れ木の上のラヴァに顔を向ける。
「なぜ、お前はひとりになりたいと願った。クシャと分かれて……何を、求めている」
ラヴァは血に彩られた唇を歪めて微笑んだ。そこから感じられるのは、子供のような衝動だ。求めるもののためには手段を選ばず他人の感情にも頓着しない、原始的な欲求。
「それはもちろん、枷から逃れるために相違ありません」
突然かかった声に皆が振り返った。そこにいたのはスーリヤだ。スーリヤはラーヴァナの殴った傷痕ひとつ残っていない顔に笑みを浮かべ、その場の皆を見つめている。
「結界が緩んでいますね……スラーディパが緩めたのです。スラーディパ自身、このアマラーヴァティから逃れたいと願ってね」
だから最初は結界を越えられないと立ち止まっていたサーラメーヤたちも、ここにやって来ることができたのだろう。
「ここを、このような荒野にしたのはお前か」
ラーヴァナの言葉にスーリヤは視線を寄越し、薄く微笑むことで答えた。枯れ木の上のラヴァを、そしてティールタを見やり、唇の端を歪めて言った。
「あなた自身が望んでいるのでしょう? 地に張った根に縛られ、言葉も発せず雷雨の森深く眠っているだけのような存在……そのようなものではいたくないと」
スーリヤは顔を歪めて、そして顔の前に手のひらをかざした。そこが光の珠でも埋め込んだかのように眩しく光る。皆が顔を覆い、悲鳴を立ててその場に打ち伏せた。
「そうでしょう? そうに違いない。そうでなければそのような沈黙の存在に身を秘し、そして私から逃げるなどと……!」
眩しさが消えると、目の前にはスーリヤの尊大な微笑みがあった。先ほどまでの温和に押し隠したものではない、侮蔑と敵意を持ち、悪意に満ちた表情だった。
「東方天スラーディパ、その名に負うだけの力を示してみなさい。私の持つ力にも対抗できずに枯れ果て朽ちるしかない老木が八守護天の長などとは、笑止千万」
「だから、あなたが取って代わると?」
悲しそうにティールタが言った。ティールタはその身をすっかりクシャに預けてしまっているようで、その口調も仕草も見慣れたティールタのものではない。その顔つきさえもティールタのものではなく、木の上にいるラヴァのものと似ているように見える。
クシャの言葉に、スーリヤは小さく笑った。
「それもいいですね。しかしそれは私の望みではない。そのようなものを望みはしない」
「それでは、あなたの望みは?」
「東方天スラーディパの消滅です」
スーリヤは憎々しげにそう言った。
「あなたがいなくなることが、消滅することが私の望みです」
「本当に……?」
スーリヤは、怯む様子を見せた。クシャはスーリヤを見上げ、悲しそうに眉根を寄せる。しかしスーリヤは先ほどの様子を一瞬で隠し、クシャを侮蔑の目で見た。
「スーリヤ、あなたの言うように、『私』の持つ力は大したものではありません。でも……」
クシャの指が示す先を見ると、枯れた大樹の根もとに小さな芽があるのが見えた。それは白く枯れた幹に隠れて目に止まらなかったが、確かに芽吹き、育っている。
「こうやって生まれることができる。破壊されてもなお蘇る」
「……ふん」
スーリヤは馬鹿にしたように小さく笑い、また手をかざした。スーリヤの表情が揺れ、手が握られる。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
手のひらからほとばしる光は眩しく芽を焼き、再び見開いたとき小さな芽は干涸びていた。かさかさになったふたつの小さな葉が、ぽとりと落ちた。
「その程度の存在です。これが東方天の真の姿だと……東方天を天界の主と崇め敬っている者たちに見せて回ってやらなくては」
「そうやってあなたは、自分の行いが時の揺らぎに添ってのものとも、すべてが流されるものでしかないということも知らず、自分の力は己自身の生み出したものと思い、驕り高ぶる」
「……それが、どうしましたか」
クシャの言葉に息を呑んだスーリヤは、しかしすぐに表情をもとに戻し、目だけは鋭くクシャを睨みつける。
「力は、使うためにあるのです。私の行動や力が何に基づいていようと、構いません。私の力は、現実にここにある。再び支配されることなど、御免被ります」
吐き捨てるようにそう言って、スーリヤは手のひらを再び大樹へ向けた。
「なおもしつこく芽を吹くその木を、根もとから枯れ果てさせます。このようになっても、なおも根を張る……ここに残るわずかな命に縋って再び実体を得ようというのでしょうが、無駄です。そのような悪あがきなど、できないようにして差し上げましょう」
ラーヴァナは飛び出し、剣を構えた。この雨の中にあっても剣を包む炎は消えず、それどころかラーヴァナの怒りを糧とするかのようにさらに大きく燃えさかっている。
ラーヴァナの剣を目に、スーリヤは嘲笑を浮かべた。しかしその赤い眼はつり上がって、明らかにラーヴァナの持つ剣の力を警戒している。
「アグニのガドガですね。スラーディパの存在に疑いを持ちながらも、それを確かめる勇気のない愚か者。己の分身だけを寄越して、自分は高みの見物というわけですか」
スーリヤはそう言って、手のひらをラーヴァナに向けた。そこから発せられる光を裂くようにラーヴァナは剣を振り下ろした。光が剣の軌跡に添って分かれて弾けて消えたことに、剣を振るったラーヴァナが驚いた。
仮にも八守護天の持ち物だ。この剣が、ただ刃の鋭いばかりのものだと思っていたわけではない。しかしラーヴァナの思っていた以上の力を持つことに驚いた。
以前スーリヤを殴ったときに感じた熱さが、ラーヴァナの体に漲っている。剣を振るったとき、その熱がこの剣にまで伝わっているのがわかった。ラーヴァナは再び、迷いなくガドガを振り下ろす。
あたりを切り裂くような悲鳴が上がり、スーリヤが赤い眼を大きく見開く。彼は右肩からふたつに裂けた。鮮血が飛び散り、それはあたりを真っ赤に塗らす。スーリヤは、ひび割れた地面に転がった。
「ラーヴァナ様……」
声がする。掠れて途切れ、はっきりとは聞こえない。しかしその耳慣れた声に、ラーヴァナは大きく目を見開いた。
「トリナヴァルタ!」
「はい、ラーヴァナ様」
声がするのみ、姿は見えない。降りしきる雨の中を見回すが、やはり彼の姿はない。
「私は、ピトリでもラークシャサでもない、ヤクシャになったのだと、ヤマ様が」
「ヤマが……?」
ラーヴァナは眉を寄せる。トリナヴァルタが頷いたのが見えるような気がした。
「私に実体はなく、こうやって大気をさまようだけ。けれど私には、ラーヴァナ様が見えます。こうやって、微力ながらもお手伝いすることもできます」
「トリナヴァルタ……姿を現わせ! トリナヴァルタ!」
しかしラーヴァナの耳には、困ったようなトリナヴァルタの笑い声が聞こえるだけだ。
「どうぞ、お怒りにならないで。私はいつでも、ラーヴァナ様のもとにおります」
彼の声が、ふっと消えた。消えた先を探るラーヴァナの目には、血の海が映る。
目の前には、右肩から斜め下にかけてちぎれたスーリヤの胴体があった。彼はふたつの肉の塊になって、血濡れた下草の上に落ちている。そのままじっと、動かない。
スーリヤの姿を眼下に、ラーヴァナは幾つも熱い息を吐いた。しかしはっと目を見開く。
上半身と下半身が分かれたスーリヤが、変わらずに赤い眼でこちらを睨んでいる。両腕を地面について、這うようにこちらに向かってくる。下半身はその動きに呼応するようにびくびくとうごめいた。
スーリヤが再び手を向けたのは、木の上のラヴァだ。彼女の体にまとわりついていた血は、今や降りしきる雨に洗い落とされている。その目が、スーリヤの視線とかち合った。
「な、にを……」
しかし上半身だけのスーリヤは、それ以上彼女に近づくことができなかった。ラヴァは大きく目を見開いたままスーリヤを、そしてその向こうをじっと見つめていた。その視線に添うように雨が嵐になり、雷が鳴り響く。
一際大きな轟音とともに、稲光が落ちた。それはスーリヤの体を直撃し、彼は声も立てずに、雨の中あたりを黒く染める立つ煙へと姿を変えた。
「ラヴァ!」
叫んだのはクシャだ。彼女はラーヴァナの腕を振り切って駆けた。腰巻き(ファリヤ)の裾を踏みそうになりながら枯れ木に駆け寄り、縋りついてなおも声を上げた。
「だめ、力を解放しないで……カールッティケーヤの星の夜を再現しないで!」
ラヴァはスーリヤを焼いたのと同じ、燃えるような黒い瞳でクシャを見つめている。
「ラヴァっ!」
叫びと同時に足もとに落ちた雷に、クシャは悲鳴を上げる。よろけた体を再びラーヴァナが抱き留めた。そんなクシャを、ラヴァは嘲笑うような目で見た。ラーヴァナは片手にはガドガを、もう片手にはティールタの体を抱え、雷を貫く大声を上げた。
「お前の望むところは何なのだ。お前は、何を目的としている」
ラーヴァナの言葉にちらりと彼に視線を向けたラヴァは、少しだけ戸惑った様子を見せた。しかしまた手をかざす。あちらこちら不規則に落ちる雷と地面を叩く豪雨は、それに従うように勢いを増す。
ラーヴァナは、腕の中のティールタの体を抱きしめた。彼女の体を借りているクシャは顔を上げ、ラーヴァナは彼女に大声で問うた。
「どういうことだ、お前なら答えられるか!」
クシャは大きく息をついて、ラーヴァナの腕にしがみついた。
「ラヴァに、目的や願いなどないのです。ただ情動の赴くままに動くだけ。その力は強大で、それは天界を破壊して、人間界という新しい世界を作り上げるほど」
力ない声で一気にそう言い、クシャは何度か浅い息を吐いた。
「それを収めるために、私の存在が出現しました。私は、そんな本能を抑えようと生まれた、スラーディパの理性の部分」
「生まれた……」
「ええ。あの、カールッティケーヤの星の夜に」
クシャは、忌まわしいことを口にしたというように顔を歪めた。
「アシュヴァッタの木は力を押さえるための体だった。それをスーリヤに枯れさせられたとき、ラヴァは解き放たれて再びその力を暴発させようとした。私はそれを懸命に止め、人間として転身したのだけれど……」
ラーヴァナはスーリヤを見た。彼はすでに人の形をなしていない。それを悲しそうに見たクシャは、そっと唇を噛んだ。
「アシュヴァッタの木に宿っていたころは、木の力を借りてラヴァの力を抑えることができた。けれど本能であるラヴァに比べて、理性である私の力は弱い。こうやって誰かの体を借りなければ、移動することもできないほどに……」
クシャの声は弱まり、崩れ落ちかけたティールタの体をラーヴァナが支えた。クシャは足を踏み出して、倒れそうになるのを必死に堪えている。
「けれどアシュヴァッタの木も人間の体さえもなくなってしまっては、ラヴァの力を抑えることができない……」
ラヴァは木の枯れた枝の上に立ち上がった。突き出すように手をかざすと、雨が強くなった。大きな雷があちこちで響き、その轟音にラーヴァナたちはよろめいた。とっさに両腕で支えたが、大きく地面が揺れ、ラーヴァナはクシャともども地面に転がってしまう。
それを見たラヴァは微笑んだ。なおも手を、踊るように動かす。それに操られるように嵐が、雷が大きなうなりを立て、静まり、そしてまた暴れた。
ラヴァは手を差し伸べ荒れ狂う雨を手に受け、目の前に落ちる雷に歓喜する。そしてそれらを煽ろうとでもいうように、歌のような叫びのような、何ともつかない奇声を上げてまた恍惚の表情を見せるのだ。
大きく地面が揺れた。ただでさえ水気を失ってひび割れている地面が音を立てて、まるで薄い玻璃であるかのように崩れていく。
体の奥を揺るがす恐ろしい地響きを立てて地面は縦に揺れ、そうと思うと横に揺れる。立ってなどいられずに地面に膝を突き、必死に体を支えようとしても、左右上下に揺れる地面に叩きつけられる。
耳をつんざく悲鳴、地響き、立ち枯れた木の崩れていく音。それに混ざって降る雨も、まるで迷っているかのように緩くなりまた豪雨になる。稲妻が響き渡り、聴覚がおかしくなりそうだ。
翻弄されながら、ラーヴァナの胸にはある記憶が蘇る。叩きつける雨と風、揺れる地面からの衝撃。それらに重なった忌まわしい記憶が、ラーヴァナに目眩を起こさせた。
この惨状はランカー国を襲った嵐を思い出させる。そしてこうやって天界が揺れることに、また人間界が影響を被るのか。水害か凄風か、それともこのような地震か。その思いが、記憶以上にラーヴァナを苛んだ。
そう、クベーラが言っていた。天界を揺るがす災いの蓋を開けることになるかも知れないと。その災いが人間界に及ぶことも充分に考えられると。
大雨による災害。あれがランカー国以外の国々にも及ぶのだろうか。それとも地が砕け、世界の再創造が行われるにいたるほど大規模な破壊が起こるようなことがあれば、人間界そのものが壊れてしまうかもしれない。そうでないと誰が約束できるだろうか。
いずれにせよ、歓迎すべきものではないことは変わりがない。しかしあのときはただただ甘受するしかなかった天災も、今はその原因が目の前にあるのだ。突き刺さる雨に打たれながら、ラーヴァナはごくりと固唾を呑んだ。
抱きしめたティールタの二の腕を乱暴に掴む。折れそうな細い腕を掴まれたことにクシャは驚きの表情を見せたが、それに構わずラーヴァナは、彼女の咽喉に素早く抜いた剣を突き立てた。
「ラーヴァナ……!」
クシャが低く息を呑んだ。ラーヴァナは彼女の腕を掴んだ手に力を込め、緩めた。そのわずかな動きで、本気でクシャを傷つけるつもりはないことが伝わればいいと思った。
強ばったクシャの体の力が、少し抜けた。スラーディパともなればこの手の中から逃げることなど容易であろうに、しかしそうしないのは、クシャもまたラーヴァナの意図を理解したからだろう。
「ラヴァ。私の声が聞こえるか」
ラーヴァナは、ラヴァに向かって声を上げた。ラヴァはラーヴァナたちを見て驚きに目を瞠り、それに嵐の勢いが少しやんだように思えた。
「お前たちは、私の仇だ。お前たちが現れなければ、ランカー国は新しい時代を迎えていたはずだった。しかしあのときならぬ大雨……そして、王の死。人間界を乱したのがお前たちとなれば……」
クシャが悲鳴を上げる。雨の中であるのに、ガドガの吐く炎が大きく上がったのだ。しかしそれはクシャもラーヴァナをも傷つけてはいないのが、触れる温度でわかった。
「私がお前たちを憎んでいても、不思議はない。そうは思わないか」
ラヴァが、はっとした顔をしたことに希望を持った。ティールタの中にいるクシャは、ラヴァの半身だ。それを傷つけられることを顧みないようであれば、ラーヴァナの行動は無駄だ。しかしラヴァは、明らかにラーヴァナがクシャを傷つけることを恐れている。
ラーヴァナはことさらに声を尖らせ、憎々しい口調で続けた。
「ああ。天界人は死なないのだったな。私がここでクシャを殺しても、再び転身とやらをするのだろうが、それにはまた時間がかかるだろう。それにこの剣はただの剣ではない。あのスーリヤにも癒えない傷を負わせたのだ。これに斬られたクシャがどうなるか……試してみるのも悪くはない」
ガドガの切っ先が、クシャの咽喉に触れた。クシャはぎゅっと目を瞑り、背をラーヴァナの胸に押しつけてくる。
「クシャ!」
ラヴァが大声を上げた。今までラヴァが口を利くことはなかったのに、吹きすさぶ雨に紛れたその声は、確かに彼女の半身を呼んだ。それは嵐の音をも何もかもを切り裂き、割れるように響くはっきりとした声だった。
「クシャを離して、離して!」
嵐が渦を巻き、稲妻が鳴り乱れ落ちる。それが真っ直ぐにラーヴァナを狙った。ラーヴァナは弾かれて倒れ、クシャは手前に転がった。ラーヴァナは痛みを堪えて反射的に起きあがり、ガドガを構える。半透明の姿のラヴァが、木から飛び降りた。
「クシャ、クシャ!」
ラヴァは嵐の中を走り、クシャも立ち上がる。ふたりは抱き合った。
ティールタの指先から、何かが抜け出る。白い靄のようなそれはラヴァとまったく同じ容姿の、やはり半透明の女の姿になった。ふたりは指を絡み合わせる。その先からふたりは溶け合い、ひとつの固まりになって、そして消えた。ティールタの体がくずおれる。
彼女たちの姿は消えたが、気はより濃く感じられる。クシャとラヴァがそれぞれに分かれていたときよりも濃く、威圧的な力は嵐の勢いよりも強く、立っているのもやっとだ。
「スラーディパ様が……行く先をなくして戸惑っておられる」
独り言のように、サーラメーヤがつぶやいた。
「この大樹がスラーディパ様のお体だったのだとすれば……宿る体がなくては、また転身してしまう」
「転身して、また人間界に干渉するか。あの大雨が、ランカー国にどれほどの被害を及ぼしたと思う!」
ともすれば、よりもひどいことが起こるかも知れない。ラーヴァナはガドガを構えた。真っ直ぐに振り下ろすと、降りしきる雨をも破るように大樹に大きな炎がつき、凄まじい勢いで燃え上がった。
「ラーヴァナ様、何を!」
ティールタを抱き上げたトリナヴァルタが、叫んだ。
「枯れたと見えても、芯にはまだ生きている部分が残っているはずだ!」
白く変色した部分は炎に包まれ炭になり、もう一振りした剣の勢いに剥がれ落ちた。
そこにあるのは崩れた大木の残骸だ。その丈はせいぜいラーヴァナの腰あたりまでしかない。しかし剣でできた傷の奥には、うっすらと緑の部分が見えた。
「クシャ、お前たちの体は蘇ることができる」
力を込めて、ラーヴァナは言った。
「ここに戻って……ラヴァの意志を封じ込めてしまうわけにはいかないのか」
「だめです」
クシャの声が、雨の隙間から小さく聞こえた。それは確かにラヴァではなく、クシャの声だ。しかしそれは細くか弱く、今にも消えてしまいそうだ。そしてそれをかき消すように、また地面が唸りを上げ風雨が吹き荒れる。
「そのように小さな木では、私たちの気を受け止められない……入り込もうとすれば、根こそぎ壊れてしまう」
クシャは切なげに呻いた。周りの空気が震え、クシャの絶望が伝わってくる。
「ラヴァ、やめて……!」
クシャの声は、だんだんと小さくなる。比例して大きくなるのはラヴァの叫びだ。それは自分の力を抑圧する枷から逃れられたことを歓喜する、吠え声にも聞こえる。
「ラヴァが暴れるのを、私だけでは抑えられません。このままでは、カールッティケーヤの星の夜が繰り返される。いえ、もう始まってる……!」
突如、立ち上がったのはティールタだ。皆が驚いて彼女を見た。
よろめく足で必死に立つティールタは、大きく息を吸った。その開いた口の中にも雨の雫が入り込む中、嵐の噪音を上回る声で、歌を歌い始めた。
顔を叩く雨を避けようとぎゅっと目を瞑り、濡れて重い髪を踊らせる強風の中、彼女は歌った。その歌は、ランカー国の下町の市でティールタが聞かせてくれたものだ。天界に伝わる古伝説、イティハーサといった。
ヴィーナーの伴奏もなく、乱れた嵐の音数律の中、ティールタの声はともすればかき消されてしまう。しかし彼女は、アプサラス特有の美しい声を失うことなく、何かに憑かれたようにただ歌い続けた。それに、地面の下から湧き上がる力を感じた。
ティールタの歌声が途切れ、彼女は苦しげに呻いた。すると地下の力が勢いを失う。胸に手を置き咳き込む彼女に、ラーヴァナは駆け寄った。
崩れ落ちそうになった彼女の体を抱いたラーヴァナは、目を見開いた。腕の中のティールタが、黒い大蛇に変わったのだ。自分の姿が変わってしまったことになど気づいていないらしいティールタは、ラーヴァナに抱えられながらなおも顔の半分にまで裂けた口を開けて歌を続ける。それは先ほどの声とは比べものにならない、がらがらと響く耳障りな音でしかないが、その旋律は確かにイティハーサのものだ。
ティールタの胴に手を回した。手伝いたくとも歌を唱和できるわけもなく、楽器を演奏できるわけも、またその楽器そのものもない。ただぎゅっと抱きしめると、自分の姿が変わってしまっていることなど気がついていないらしいティールタは顔を上げてラーヴァナを見、濁った目を瞠った。
「続けろ」
ラーヴァナはささやいた。
「お前の歌の力が通じている。草も木も、お前の力を喜んでいる。私にも感じられる」
ティールタは頷いた。何ごとかをつぶやいたが、あたりの音にかき消されて聞こえない。しかし彼女が、その表情もわからない顔にわずかに笑みを浮かべたのは見て取れた。
ラーヴァナは抱きしめた腕に力を込める。何ができるわけでもない。そうは思いながらも触れた部分から、なにがしかの力が流れ込めばいいと願った。
雷雨の向こうから、歌と楽器の音色が響いてくる。振り返ったラーヴァナは、大きく目を見開いた。
ガンダルヴァとアプサラスだ。皆バジェワーに乗って、雨雲の向こうからやってきている。ざっと見て、百人ほどもいるだろうか。楽器を持っている者も多数いる。それぞれが声を合わせて同じ唄を歌い、楽器を爪弾いて糸一筋のずれもない伴奏をする。
突然の仲間たちの登場に驚いていたティールタだが、また嗄れた声を振り絞るように再び歌い出した。皆が唱和するのは、イティハーサだ。永遠の幸せ(ハリシカ)を愛でた歌。
蜃気楼の森の民たちの歌は大気を包み大地を揺るがし、雷雨の音をもかき消してしまう。その場にいる者が皆、突然始まった壮麗な宴に目を瞠る。
「兄上!」
集団の中から進み出てきたのは、体は白く青い目の、鹿のような生きものに乗ったテージャスだ。彼自身は唄を歌うわけでもなく楽器を爪弾くでもないが、ガンダルヴァやアプサラスたちがテージャスの下知に従ってここに現れ、ティールタの後押しをしているということは明らかだった。
「テージャス……お前、ずいぶんと折よく現れたな。今までこの惨状を、どこかからぼんやり見ていただけだとでもいのか」
ラーヴァナの言葉に戸惑うテージャスの背後から、笑い声がした。
「北西方天を責めるのは酷だな、ラーヴァナ」
そこにいたのは南方天のヤマで、以前会ったときの通り、涼しい顔をして立っている。ラーヴァナは彼を睨みつけた。雨水の流れるひび割れた剥き出しの地面にうずくまっていたサーラメーヤは、主のもとに嬉しげに駆け寄った。
人影が落ちて、ラーヴァナは顔を上げた。ふたりのアプサラスが歩み寄ってきている。彼女たちは地面に膝を突き、大蛇の姿のティールタの体をそっと撫でた。ラーヴァナが腕を離すと、ふたりはティールタを抱き上げた。気味が悪いという素振りは少しも見せない。彼女たちは一粒涙を落とし、ティールタを抱きしめた。
ラーヴァナは立ち上がり、振り返るとヤマを睨みつけた。
「お前はどこから現れた」
ヤマは笑みを浮かべて黙ったまま、サーラメーヤの頭を撫でた。サーラメーヤは、目が四つあるという以外はラーヴァナの知っている普通の犬と変わらず、主人の手に頭を擦りつけて嬉しそうな様子を見せている。
「サーラメーヤは私の目だと、言わなかったか」
ラーヴァナは口もとを引きつらせた。
「なるほど、サーラメーヤを通して、ことの次第をずっと盗み見していたというわけか」
「盗み見とは人聞きの悪い。そなたにいかほどの覚悟があるのか、見せてもらうと言ったではないか。私は、その通りにしただけだ」
なおもヤマは意地の悪い笑みを崩さない。彼の足に頭を擦りつけていたサーラメーヤが、急に大きな声を上げて飛び上がった。
凄まじい勢いで下草が生えてきたのだ。みるみるうちに草が伸び、降り注ぐ雨は大地に染み込み始め、白茶けた大地が緑に染まって大気が潤っていくのが感じられる。それは、ラーヴァナが幻に見た光景だ。見る者に、この土地が生き返ったと本能的に感じさせるさまだった。
衝撃を感じて振り返る。ラーヴァナがガドガで切り裂いた大樹の緑の部分が、音が聞こえるのではないかというほどの勢いで伸び始めている。幹を太くし枝を伸ばし、みるみるうちに育った木は、もとの大きさには及ぶべくもないだろうが、充分に立派な木だ。
「戻れ……」
気づけばラーヴァナは、つぶやいていた。
「もとの姿に。クシャもラヴァもない、スラーディパとしての、あるべき姿へ」
ガンダルヴァやアプサラスたちの音楽はまだ続いている。その中、ラーヴァナは木に近づき、そっと手を触れさせた。生まれたばかりの新しい幹は樹皮も瑞々しく、手のひらにもその鼓動が感じられる。そして、慣れ親しんだ感覚も。
「クシャ、ラヴァ。……ここにいるのか?」
雨は変わらず降っているが、先ほどまでの狂おしいような様子はない。打たれて濡れる体も、温かく優しいものに包まれているような、心地よい感覚に満たされている。
「そのアシュヴァッタの木は、東方天スラーディパだ。この世界ができたとき、最初に命を持った木。太陽を土を、そして命を育むすべての者を生んだ者。ゆえあって人間として転身をし、暫しそのもとを離れていたが、再び本来の姿に戻ったというところだ」
「東方天だのスラーディパだの、そのようなことは私は知らない。私が聞きたいのは、人間界にどういう影響を持っている存在であるかということだ」
ラーヴァナは、ヤマを睨みつけながら呻く。
「カーラとは、何だ。なぜ過酷な運命を受けた者とそうでない者があるのか。飢える者と恵まれた者があるのか。なぜそのような命運が与えられているのか。その理由を知りたい」
そして、誰に聞かせるのでもない宣言を吐いた。
「人間に不条理な運命を与えるものを、災いをなすものを、私は破壊する」
ヤマは沈黙した。その間にも歌は響き楽器は鳴り、その拍子を取るとでもいうように優しい雨が降り続ける。木の沈黙は、まるでそれらに聴き入っているかのようだった。
「それは、無理だな。そなたの言うものは形なく、破壊できるものではない」
ややあって、ヤマは口を開いた。
「スラーディパは時の揺らぎを見つめている。私たちの尺度では測れないほどの時の長さだ。この世の始まりから、ずっとカーラを見つめている」
ヤマの手にした錫杖が、降りしきる雨に叩かれて耳に心地いい、清廉な音を立てる。
「世界はすべて、カーラの揺らぎに包まれている。カーラには形はなく、意志も言葉も命もない。ただ、流れゆくものだ」
「そして?」
ラーヴァナは少しばかり苛立って問うた。そのような観念的なことを聞きたいのではない。しかしヤマはラーヴァナの苛立ちなど意に介さない様子で目を伏せ、話を続ける。
「天界も人間界も、カーラの揺らぎの中に存在している。過去に戻ることができないように、未来も決まってはいない。現在の行動が未来に影響し、それがその向こうの時間に波及する。その中のどんな流れに自分が飲み込まれるかなど、誰にもわからない。人間も、天界人も、そしてスラーディパも。それは同じだ」
詩を読むようなヤマの言葉に、ラーヴァナは顔を歪める。歯軋りして、声をあげた。
「私は、カーラが何かなどということを知りたくてここに来たのではない。この手で、破壊してやる。それだけだ」
大樹の木の葉が揺れ、ざわざわと騒ぐ音が立つ。ヤマは沈黙した。しばらく歌と音楽、雨の音、さやぐ大樹の葉の音だけがあたりにひびく。
「それではそなたが、そうと言葉にすればいいだけのことだ」
ヤマの言葉に、ラーヴァナは眉根を寄せた。
「天界人の力は、その言葉にもある。そなたは『人間の王』、天界人だ。そなたがそうと言えば、それは現実のものとなろう」
ラーヴァナはヤマを振り返った。驚くラーヴァナを、ヤマは静かな目で見つめている。
「言葉に、力……だと?」
困惑するラーヴァナに、ヤマはゆっくりと頷いた。
「もっとも、何もかもが言葉の通りになるというわけではない。何が言葉により生じ真実になるか、何を口にすることが禁忌か。天界に生まれたものなら本能的に知っていることだが、果たしてそなたは、正しい言葉を口にできるかな」
ヤマは楽しげに、歌うようにそう言った。その声に、アマラーヴァティに響く音楽が絡まる。ラーヴァナは固唾を呑んだ。
「……スーリヤは、スラーディパの消滅を願っていると言った。しかし、それは現実とはなっていないようだが、なぜだ」
ラーヴァナの言葉に、ヤマは少し眉を動かした。
「見てわからぬか。それは、スーリヤの真の願いではない。本心からではない言葉は、真実にはならぬ」
「それでは、なぜスーリヤはあのようなことを言った?」
ヤマの口もとが弧を描いた。それは答えのわかりきった問いを投げかけるラーヴァナを笑うようでもあり、あえてその真実を秘する悪戯めいた仕草にも見えた。
「それは、スーリヤに聞かねばわからぬな」
ヤマの向こう、大蛇となったティールタの姿が見えた。ふたりのアプサラスの腕の中、ティールタはまだ歌っていた。歌い楽器を演奏するほかのアプサラスたちとともに、軋んだ声を上げている。
その声はアプサラスたちの美声の中にあって、ひとつ調律の壊れた楽器のように耳障りではあったが、彼女を止める者は誰もいなかった。それどころか大蛇の姿では立つことができないティールタを、周りの者が支え、助けている。
「ティールタ……!」
ラーヴァナははっと目を見開いた。彼女の声がいきなり途切れ、地面に崩れ伏せたのだ。アプサラスたちの悲鳴が上がる。水を含んだ下草を蹴って、ラーヴァナは彼女のもとに駆け寄った。
「どうした、ティールタ!」
歌や演奏がやんだ。皆が大蛇に変わっているティールタに駆け寄り、口々に彼女を気遣う言葉をかける。彼女を抱き起こしたアプサラスは顔を上げて、ティールタをラーヴァナの腕の中に預けた。
彼女は腫れ上がったような瞼を伏せ、大きくひとつ咳をした。その口から血が溢れ出たのに、ラーヴァナはぎょっと目を見開いた。いくつもの悲鳴が上がる。
「ティールタ……!」
駆け寄ってきたのはテージャスだ。ラーヴァナの腕の中の大蛇に手を触れさせ、目を瞑る。しかしすぐに目を開き、大きな苦しそうなため息をついた。
「どうなるのだ、ティールタは……」
「天界人は、死にません。死ぬことはありませんが、ティールタは恐らく、気を使い尽くしてしまったのではないかと……」
「そうすれば、どうなる」
ゆっくりと歩み寄り、覗き込んできたのはヤマだ。ラーヴァナは彼に顔を向け、同じことを問うた。
「通常ならば、転身する。しかしこの短期間に繰り返し転身すること、またこれほどに体内の気を乱し、使い果たした挙げ句となると、どうなるか……。私は、例を知らぬな」
ヤマが不可解だというように眉根を寄せる。その表情に不安が煽られる。その場の者も皆息を呑んだ。皆がヤマを見るが、誰も彼の言葉を打ち消す術は持っていないようだ。
ラーヴァナは立ち上がり、動かなくなった大蛇を見つめる。自然、体が後ずさりをした。ヤマにさえ予測不能な事態が、ましてや天界の法則など知る由もないラーヴァナに見通すことができるわけもない。
背後から呼ばれたような気がした。振り返ると、視線の先にあるのはクシャとラヴァの実体だという大樹だ。降り続ける雨の中、ラーヴァナは大樹を睨みつけた。
「お前は、この天界の王なのだろうが」
大樹は振り注ぐ雨に打たれたせいでなく、葉を揺らした。ラーヴァナは唇を噛み、木の幹に額を押しつける。
「お前の民が、お前を慈しんできたアプサラスが、あのような状態なのだぞ。お前はどうする。王としての、器量を見せろ」
気は再び葉を、そして目に明らかに枝を揺らした。それはどんな言葉の代わりなのか。
ラーヴァナは額から鼻梁を伝った雨の雫が転がり落ちるのを感じながら、じっとアシュヴァッタの木を見つめた。
「私は人間界へ戻る。人間としてランカー国のために生きる。以後、天界と人間界は永遠に相互不干渉なれ。天界の変事が人間界に影響を与えることは、これをいっさい拒否する」
真実になれとの力を込めて、ラーヴァナは言葉を放った。
足もとがぐらりと揺れる。立っていられなくて床に手を突いたラーヴァナだが、まるで地面がいきなり柔らかいものに変わってしまったかのように体が飲み込まれていく。
「そなたはすでに、言葉の力を使っている。スラーディパがもとの姿に戻ったこと……あれがそなたの操った言葉ゆえだと、気づかなかったのか」
ヤマの声が、遠い。人肌の温度の湯のようなものに頭の先までを包まれた。息苦しさは全くなく、温かく安心させてくれるものに包まれる感覚の中、ラーヴァナは目を開いた。
「お前……」
目の前にいるのはティールタだ。アプサラスの姿ではない、黒い大蛇の姿で温かい水の中を泳ぎ、器用に体を捻るとラーヴァナを背に乗せた。
「お前……なぜ、ここに」
しかしラーヴァナの言葉が聞こえていないのか通じないのか、ティールタは何も言わない。ただ、ラーヴァナを乗せたまま温かい海を泳いでいる。
ティールタは笑った。瘤と結節に歪んだ顔では表情などわからず、ましてや大蛇だ。どのような顔つきをしようとも理解できるわけもないのに、ラーヴァナにはそう感じられた。
「ティールタ……?」
ラーヴァナの呼びかけは、最後までは声にならなかった。水が揺れはじめ、それは視線の先に見える大きな渦からの波だということがわかった。ティールタは、その渦に向かって勢いよく進んだ。その艶のない鱗をしっかりと掴んでいないと落とされてしまいそうな勢いだった。
「一緒に来るか? 人間の世界で、ともに生きてみるのはどうだ」
やがて、渦に飲み込まれる。水中でも息はできるはずなのに、ラーヴァナは息苦しさを感じた。目眩がする。目を瞑ると、そのまま瞼の裏の暗黒に落ちていった。
次回、最終回です。