第二十四話
アグニから受け取った剣は、鞘に収め剣帯で腰を結わえつけると普通の剣と変わらないように見える。再びプシュパカに乗り、メール山の山頂を目指す。
しかしあとひと羽ばたきで山頂を覆う靄に近づくというとき、プシュパカが呻きを上げた。驚いたラーヴァナが宥めようとしても、暴れる羽根を止めようとはしない。
「落ち着け! 結界の先へ向かうようにクベーラに言いつけられているのだろうが!」
しかしプシュパカはなおも暴れ、背に乗る者たちを振り落としてしまった。地面までは比較的近く、また深く下草が茂っているために痛みはそうない。しかしラーヴァナならともかく華奢な体で、しかもふたりの赤ん坊を抱えたティールタにはそうではないだろう。
「ティールタ、大事ないか!」
「ええ……クシャとラヴァも、大丈夫よ」
ティールタは腕の中を覗き込み、ラーヴァナも近づいて見れば、片方は目を見開いていた。しかしもう片方は変わらずじっと眠っていて、低いところから落ちたとはいえ、落下の衝撃を受けてなお眠っていられるというのは感心すべきことなのか、それとも何か理由があるのか。眠り続ける赤ん坊に、ラーヴァナは眉根を寄せた。
サーラメーヤは、森の奥に向かって唸っている。いったいそちらに何があるのかと訝しむラーヴァナを振り返って、サーラメーヤは掠れた声で言った
「結界です、アマラーヴァティに張られた結界が……肌にびりびり伝わってくる」
見ればサーラメーヤもティールタも、何かに押されるように足を踏み出せないようだ。しかしラーヴァナにはそれがなぜなのかわからない。
「ラーヴァナ様は……平気でいらっしゃるのですか」
「何がだ」
いささか苛々と皆を見ているラーヴァナに、サーラメーヤは苦しそうな声を上げた。ティールタも苦しそうな顔をする中に、ラーヴァナはひとり平気だ。
「結界のせいで前に進めないのだわ。体が押し戻されるような気がして……ラーヴァナは、そうではないの?」
ティールタはその場にしゃがみ込んだ。腕の中のクシャとラヴァは特に苦しそうな様子は見せてはいない。
クシャとラヴァは、スラーディパなのだ。アマラーヴァティに住む唯一の者。そうであればふたりが結界を恐れる理由はないだろう。ラーヴァナは小さく息を呑むと顎を引き、皆が恐れる向こうに目をやった。
「では、私だけが行く。お前たちはそこで待っていろ」
突如赤ん坊が叫ぶ声がして、皆がティールタの腕の中に目を向けた。その声は、一度聞いたことがある。そうやって声をあげる方を、ラーヴァナはクシャと呼んでいた。クシャは大きく体を揺らしラヴァもつられて暴れ、ティールタの腕から落ちてしまいそうだ。
「きゃっ!」
ティールタの細い腕から落ちてしまったふたりを、ラーヴァナは抱き留める。自分たちだけでは歩けもしないくせに、ラヴァはなおも暴れてラーヴァナの腕の中から落ちた。体のつながったクシャも一緒に転げ落ち、下草の上にぽとんと落下した。
サーラメーヤが、突然大きな呻きを上げた。それは暴れるラヴァと、それを宥めるようなクシャの前、突然現れた大きな影に向けられたものだった。
「子供の匂いがする」
その声に、ぎょっとした。そこにいたのは見上げるほどの大きな牛で、やはり大きな黒い眼をぎょろぎょろと動かしながら、ラーヴァナたちに近づいてきた。
「子供だ。しかも、ふたりも」
ティールタは声を上げてクシャとラヴァを抱き上げ、ぎゅっと腕の中に閉じこめた。しかしラヴァはなおも暴れて奇声を上げ、それにクシャも反応し、ティールタはふたりを抑えるのに必死の形相を見せる。ラーヴァナとトリナヴァルタは、それぞれ反射的にティールタと子供たちの脇に立って庇う手を伸ばした。
大きな牛はラーヴァナたちなど目にも入っていないように、ただクシャとラヴァを見つめている。その視線は舌なめずりをせんばかりで、荒い呼気は生臭かった。
「サラマー、おいで。人間の子供だよ。珍しい、こんなところで」
そう呼ばれ、木々の向こうから気怠く歩いてきたのはやはり巨大な一匹の犬だ。白地に斑模様で、目が四つある。反射的にラーヴァナはサーラメーヤを見た。彼は上半身を低く伏せ、牙を剥き出してサマラーに向かって唸り声を上げた。
「サーラメーヤ。お前、まだヤマ様のもとにいるのかい」
「お前の知ったことではない!」
その見かけの共通点から、二匹が何らかの関係のあるものであることがわかる。サラマーは侮蔑する表情でサーラメーヤを見やり、サーラメーヤはそんなサラマーを憎んでいるらしい。見かけは似ていても、大きさは倍以上違う。サマラーは、自分の半分ほどしかないサーラメーヤを、にやにやしながら見つめている。
「八守護天の眷属になるなんてばからしいこと。どうせあたしたちは、天界の底で這い回るしかないラークシャサ。それなら欲望のまま、ラークシャサとして生きた方がよっぽど楽しく生きられるのにね。ねぇ、スラビー」
サラマーは隣に立つ牛を見た。スラビーと呼ばれた牛は、二匹の犬の会話などどうでもいいというように、今にも食いつかん目つきでクシャとラヴァを見つめている。
「人間の赤ん坊なんて、何百年ぶりだろうねぇ。しかもあの赤ん坊、天界人の気を宿している。あれはよほど美味いに違いないよ」
「楽しみだねぇ」
大きな舌で舌なめずりをした二匹に向かって、サーラメーヤはなおも憎々しげに呻いた。その後ろから、ラーヴァナは問う。
「サーラメーヤ。お前、その者たちを知っているのか」
「サラマーとスラビー。子供食いのラークシャサです」
憎々しげにそう答えたサーラメーヤに、サマラーは目を細めた。
「おや、言ってくれるね。自分だけがよい子気取りだよ。お前だって、子供の気を食って生きているくせに」
サーラメーヤは、四つの目をつり上げてサマラーを睨む。サマラーは遠吠えのような笑い声を上げ、ティールタは悲鳴を上げた。
ふとサマラーは笑うのをやめ、おやというようにラーヴァナを見た。
「ここにも、天界人の気を持った人間が」
「しかも人間の気もちゃんとある。お前が赤ん坊なら食ってやるところだけれど、残念だ」
大きな牛と犬とがくすくす笑いながら近寄ってくる。そのさまは奇妙で滑稽でさえあったが、同時に得体の知れない恐怖を感じさせた。
一歩踏み出したサラマーの足に、サーラメーヤが噛みついた。サラマーは悲鳴を上げて、サーラメーヤをふりほどこうとする。しかし彼は口を離さず、サマラーの太い足に歯を食い込ませたまま、サマラーが暴れるのに振り回されながらも口を離そうとはしない。
スラビーが一歩、足を踏み出した。大きな蹄のついた太い足でサーラメーヤを蹴り飛ばし、彼は犬らしい叫び声を上げて下草の上にはたき落とされる。
「サーラメーヤ!」
サーラメーヤは大きく呻いた。しかしそれでも起きあがり、二匹に近づこうとする。しかしサマラーは噛みつかれた足を庇いながらも、再びサーラメーヤを蹴った。
「お前も邪魔だ。おどき!」
スラビーはその大きな体でラーヴァナを突き飛ばし、ラーヴァナは地面に背をしたたかに打ちつけた。スーリヤを殴りつけたときのような力が出ないだろうか。ラーヴァナは必死に、力の源を探す。しかしあのとき、どこからともなく湧き上がったような力は見つからず、ラーヴァナは痛みに呻きながら舌打ちした。
スラビーはティールタを突き倒すと、その腕の中に顔を押し込める。スラビーはクシャの首根っこに噛みつくと、ティールタの腕の中から無理矢理に引っ張り出した。サマラーは、クシャと腰のつながったラヴァの首に噛みつく。
飛びかかる間もなかった。大きく見開いたラーヴァナの目には、小さな赤ん坊たちにばりばりと食らいつく巨大な牛と犬の姿が映る。子供たちは泣き声を上げたように思えたが、しかしそれは、二匹の口もとから上がる大きな咀嚼の音にかき消されてしまう。
それは、あっという間の出来事だった。赤子食いのラークシャサたちはなすべきことを終えたらしく、顔を上げた。彼らの足もとに残っているのは、クシャとラヴァを包んでいた布だけだ。それらは血まみれになって、下草の上に塵のように放置されていた。
ラーヴァナは唖然とそれを見た。ティールタは、すでにいない子供を抱えた格好のまま、石像にでも変わってしまったかのように座っていた。
「さすが、天界人の気が混ざってるだけはあるね」
「美味かったね。久しぶりだよ、こんなに味のいい赤ん坊は」
二匹は何度も舌なめずりをする。二匹の満ち足りた表情に、ラーヴァナは震えた。
「お前……、たち……」
サーラメーヤが呻きながら立ち上がった。満ち足りたサラマーとスラビーの油断をついて、二匹に体当たりをした。
「何をするんだ!」
「痛いじゃないか、おやめ!」
しかし二匹は口ほどに衝撃を受けてはいないのだ。なおもにやにやと笑いながら、自分たちの体の半分もないサーラメーヤの攻撃を、楽しむようにからかうばかりだ。
片膝を立てて、ラーヴァナは立ち上がる。手を伸ばし、傍らに転がっていたアグニから預かった剣を鞘から抜いた。剣からは炎が上がり、サラマーとスラビーはぎょっと一歩後ずさりをする。
「退け、サーラメーヤ」
ラーヴァナはガドガを振り下ろした。大した力も込めてはいないのに、ガドガは空を斬る鋭い音を立てて一閃し、犬と牛を切り裂いた。
血飛沫が上がる。二匹はどうと倒れた。血が跳ね返りラーヴァナの体を汚す。その先、倒れた二匹の体に起こった変化に目を瞠った。
二匹の裂けた体の中から手が現れる。這い出すようにして現れたのは、ひとりの女性だ。
「……な、に……?」
血まみれの彼女はこちらに背を向けたまま、立ち上がった。そして振り返り、血にまみれた姿でラーヴァナたちを見つめた。
それはぞっとするような光景だった。浅黒い肌も体を覆う茶褐色の長い髪も血にまみれ、あたりに充満する血の匂いに包まれたその姿は、見る者を恐ろしい力で圧倒する。
彼女の姿は半透明だった。その体を透かして向こうの景色が見える。足は地についておらず、まるで見えない翼でも背負っているかのように宙に浮いているのだ。
彼女の体全体から発せられる強い圧力に抗いかねて、ラーヴァナは低く呻いた。彼女の姿を見ているだけで胸の詰まるような圧迫感がある。これが天界の長たるスラーディパの持つ気なのか。スラーディパが人間界、ランカー国にいると眷属に知らしめた気なのか。
ラーヴァナは何度も浅く呼吸をした。吸い込む空気は乾ききっていて、ラーヴァナにランカー国のそれを思い出させる。
「あれが……スラーディパ様……?」
叫んだのはサーラメーヤだ。とっさに振り返るラーヴァナの視線の向こう、ティールタが大きく目を見開いて女性の姿を見ている。
「スラーディパ、様……?」
苦しげに、呻くような声で彼女はそう言った。そして自分の胸に手を起き、面紗をぎゅっと握りしめた。トリナヴァルタも、やはり驚愕してスラーディパの姿を見ていた。
彼女からは圧倒的な威圧感を感じるのと同時に、クシャとラヴァを抱き上げたときの感覚をも蘇る。そのことから、彼女はクシャとラヴァが変化した姿であるということは感じられた。しかしその容姿は、あの赤ん坊たちとはあまりにも違っていた。
「馬鹿な……」
彼女は空を見上げ、乾いた空気を吸い込むように大きく呼吸をし、そして血濡れた睫毛を伏せた。半透明の裸足の足は真っぷたつになったサラマーとスラビーの死骸を踏み越えて、密集する木々の中を歩いていった。その足跡は、点々とした血の痕になる。
「だめ……ラヴァを、行かせてはだめです!」
声を上げたのはティールタだ。皆が驚いてティールタを見る。彼女は大きく首を左右に振りながら、しかし口調は表情とは裏腹だ。
「ラヴァを行かせないで! 止めて、ラーヴァナ!」
「お前……」
ティールタではない。誰かがティールタの口を借りて話しているのだ。それを裏づけるように、サーラメーヤがつぶやいた。
「ティールタ殿の体からも、スラーディパ様の気を感じます」
ティールタは、去っていく女性に向かって『ラヴァ』と呼びかけた。とすれば、ティールタの口を動かしているものはひとりでしかありえない。
「クシャ、か……?」
ティールタの表情は常の彼女のものとは違い、ラーヴァナの推測の正しさを物語る。ラーヴァナは血まみれの女のあとを追った。そのあとにサーラメーヤもついてくる。柔らかい絨毯のように茂っていた下草は、進むほどに砂漠に生える草のように縮んだものになっていく。さらに進むと、踏みつけると乾いた音を立てるほどに枯れた草ばかりになった。
突然、傍らのサーラメーヤが悲鳴を上げた。何かにはじき飛ばされたかのように、枯れ草の中に転がってしまう。
「どうした、サーラメーヤ!」
「何でも、ございません……」
まるでただの犬のようにサーラメーヤは体を小さくし、何でもないという口調とはあまりにも裏腹だ。サーラメーヤの目の前には、見えない壁があるとでもいうのか。それに必死に抗う様子に、ラーヴァナはアマラーヴァティには強力な結界が張ってあるということを思い出した。
「無理はするな。結界のせいで、これ以上は進めないのであろうに」
しかしサーラメーヤは、気丈な顔をして首を左右に振った。
「いいえ、私はヤマ様の目でございますから。騒ぎ立てまして申し訳ございません」
そしてサーラメーヤは一度大きく身を震うと、ラーヴァナを見上げた。
「参りましょう、スラーディパ様を見失ってしまうようなことがあってはなりません!」
ラーヴァナは頷き、地を蹴った。ラーヴァナも見えない壁のようなものを感じる。しかしサーラメーヤが息荒く大きく舌を出して、苦しい表情をしているほどの抵抗は感じない。ただ少し、空気が重く感じられるだけだ。
一枚、特に強い抵抗を感じる壁があるように感じた。それを踏み越えようとラーヴァナは体に力を込めた。反射的に目を閉じる。何かが体の中で弾けるような感覚があって、ラーヴァナはぱっと目を見開いた。
「こ、こは……」
そこは荒野だった。見渡す限りのすべての生きものが枯れている。下草は白く変色していて、踏む端から崩れていく。ところどころに立つ木はやはり白く生気を失っていて、ほとんどがわずかに幹を残すだけで枯れ果て、崩れ落ちていた。
ここは死に絶え、枯れ果てた土地だ。同じ乾いた場所とはいえ、ランカー国とバラタ国の間にあるスヴァル砂漠にはところどころに沃地もあり、蠍や砂鼠などの生きものも生息している。しかしこの場所には、そのようなものはまったくない。感じられるのは生きるものの息吹の全くない、死に絶えた空虚だけだ。
視線の向こう、歩いていく女の姿を見つけた。彼女の歩はゆっくりとゆっくりと、まるで初めて歩く子供のような足取りだった。彼女の体はますます透けて、まるで女性の形を作っている靄のようだ。ラーヴァナについて歩きながら苦しそうな息を繰り返すサーラメーヤに、ラーヴァナはその理由を問うた。
「恐らく、あれがスラーディパ様の気のみの存在であるからにございましょう」
サーラメーヤは口を噤んだ。彼女の歩を追うように、突然大粒の雨が降り出したからだ。それがただの雨ではないことはサーラメーヤの反応からも、身に伝わる感覚からも感じ取ることができた。雨は乾いた地面に引きも切らずに染み込んでいき、枯れた草も木の幹もたちまちに色を変えていく。
空が眩しく輝いて、見上げれば雷が落ちてきた。あまりに突然の天候の変化に驚いていたラーヴァナは、はっと視線を前にやった。
雨は、なおも歩き続ける女を包むように降る。その光も彼女を包むように守るように、そして女はそれに驚きもせずに歩いていく。彼女の足はなおもおぼつかない足取りで、それでいて滑るような彼女の速度にラーヴァナたちはついていくのがせいぜい、追いつくこともできない。
彼女が歩いていくその先に、枯れ落ちた巨大な木のあとがあった。大人十人ほどが手を繋いで囲んでも足りるかどうかと思われるほどの太い幹の、残骸だけは残っている。残骸といってももとが大きな木、それだけでも充分見上げるほどだ。しかしその幹も真っ白に枯れ、少し触れればそのまま崩れて落ちてしまうのではないかと思ってしまう。
女の姿は、その前でかき消えた。ラーヴァナは駆け寄り、その大きな木の幹に手を当てる。うなじに生ぬるいしたたりを感じ、見上げて大きく目を見開く。
「な、に……?」
顔を上げたラーヴァナは、枯れた木の、崩れた先端に座っている女を見つけた。雨に濡れた長い髪から水滴とともに血を滴らせ、彼女はじっと遠くを見つめている。
「お前は……ラヴァなのか」
女は幽鬼のようにそこに座ったまま、ラーヴァナの声が聞こえているのかいないのか。その視線はただただ遠くに注がれたままだ。
「どういうことだ。クシャは一緒ではないのか。なぜお前、そのような姿でここにいる」
女はラーヴァナを見下ろした。その黒い目と視線がかち合ったラーヴァナは、指先で頬に触れられるような感覚にとっさに目を閉じた。
視界を塞ぐと脳裏に誰かの思考が流れ込んできた。そう感じた。