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第二十三話

 朝の太陽は、人間界と同じように昇る。ラーヴァナとテージャス、ウルヴァシーが出てくると、大樹の城の前にはサーラメーヤが別れたときのままの姿勢で座っていた。ラーヴァナたちに気がつくと体を起こし、挨拶をしてきた。

「スラーディパ様は、どちらにおいでになるのですか」

「ティールタに預けてきた。どうあっても、ティールタから離れぬのでな」

 背後で小さな騒ぎがあった。止める声が上がり、それでも先に行こうとする誰が止める者を振り払い、こちらに歩み寄ってくる。

 ラーヴァナが振り返ると、そこにいたのはティールタだった。いささか顔色は悪いものの、常のように背筋を伸ばした彼女はラーヴァナを見た。そしてティールタはテージャスに向き直り、その場に両膝を着いた。

「わたくしもラーヴァナとともに行きとうございます。どうぞお許しをくださいませ」

 その言葉に驚いたのはテージャスだけではない。ラーヴァナもサーラメーヤも、驚いてティールタを見た。

「いけません、あなたはアプサラスなのです。この蜃気楼の森で、私に仕えることだけを考えておいでなさい」

 慌てたテージャスが彼女を止めるが、しかしティールタの決心は固いようだ。ラーヴァナは、ティールタの前に立った。

「クシャとラヴァはどうする。あれが求めているのは、お前だというのに」

「それは、ラーヴァナ様のおつけになったお名前ですか」

 ウルヴァシーの言葉に、ラーヴァナは躊躇いながら頷いた。その名を呼ぶのはティールタの前でだけだと決めていたのだが。子供たちに名をつけてくれと言ったのはティールタであるし、自分が名付け親などであるというのはどうにも気恥ずかしいからだ。

「よいお名でございますこと」

 ウルヴァシーは慈母の微笑みでそう言った。彼女のそんな笑みの裏に、何か隠している心があるとラーヴァナは感じている。それが何であるのかまでは計りかねているが。

「ティールタ」

 ラーヴァナの声に、ティールタは顔を上げた。ラーヴァナはわざと意地の悪い表情を作り、そんなラーヴァナを前に、ティールタは彼女らしくもない気弱な表情を脱ぎ捨てた。

「お前の目的は何だ。私の手助けをしたいなどと殊勝な理由であるとは思えないのだがな」

「兄上」

 口調をテージャスに窘められたが、ラーヴァナはなおもティールタを見やる。試すようなラーヴァナの表情に、ティールタは立ち上がり、ラーヴァナの前に勢いよく立った。

「誰も、あなたの助けをするなどとは言っていないことよ」

 ティールタは、ラーヴァナの知っているティールタに戻って言った。そんな彼女を前にラーヴァナは安堵する。

 ティールタは行きたい理由を言葉にはしなかったが、推測はできた。暗冥のナーガというラークシャサであった自分、それにまつわる事実に戸惑い、彼女の中にわだかまる感情の答えを求めているのだろう。それ以上の追求はせず、ラーヴァナは言った。

「まぁ、よい。ともに行きたいという者は誰でもついてくるがよい」

 ラーヴァナの目に入ったのは、大きな白い鳥だった。ガンダルヴァのひとりが連れてきたのだ。バジェワーのような形はしているものの、朝日に輝く羽根と磨いた黄金でできたような艶やかな嘴が、この鳥が天界の生きものであることをまざまざと感じさせる。

「これが、クベーラの言っていた鳥か」

「プシュパカにございます」

 ラーヴァナがプシュパカに触れると白い大きな鳥は、早く乗れとでもいうように羽根を震わせた。ラーヴァナはプシュパカの背に手を置き、振り返った。

 テージャスを呼ぼうと声をあげかける。しかしその前に、彼の前に跪いた者があった。

「テージャス様……行ってしまわれるのですか」

 ウルヴァシーだ。彼女はいつもの、慈母の穏やかな微笑みを消していた。両手を胸の前で組み、すがるようにテージャスを見つめている。

「行ってしまわれるのですか。わたくしたちを、置いて」

「ウルヴァシー……」

 彼女はただ、テージャスを見つめている。その瞳の端から涙がこぼれ落ち、その色にラーヴァナは気がついた。

 ランカー国にいたことから、彼女のときおり見せた憂い。彼女が心の奥に秘めたものが何であるのか、ずっとわからずにいた。

 それは、喪失だった。主を失い、拠りどころなくさまよう心を彼女は懸命に抑えてきたのだろう。しかし再び巡り会った主が、城を離れようとしている。それに、抑えてきたものがあふれ出たに違いなかった。

「テージャス、お前は来るな」

 ラーヴァナは言った。テージャスは目を見開く。

「お前はここにいろ。お前は、蜃気楼の森の王だろう? なら、ここにいるべきだ」

「ですが、兄上……」

「お前に何の力があるというのだ。足手まといだ。ここにいろ」

 テージャスはなおも戸惑っているようだ。しかし跪いたウルヴァシーは、顔を輝かせる。涙を浮かべたままの目で、すがるようにテージャスを見やった。

「どうぞ、我が王。ここにいらしてくださいませ」

 その言葉にラーヴァナは、自分の感じた者が間違っていなかったことを知る。

「どうぞ、わたくしたちのもとに。この先もずっと、永遠に……」

 テージャスは、ウルヴァシーの肩に手を置く。その光景を背に、ラーヴァナはプシュパカに乗った。その後ろにはティールタが乗る。

 プシュパカはクベーラの言うとおり、もう二、三人乗っても充分なほどに頼もしく羽ばたく。その横をサーラメーヤが飛んだ。

 たちまちに蜃気楼の森が遠くなる。その羽ばたきはバジェワーの比ではなかった。一気に上昇した高さにラーヴァナは目を丸くしてティールタを振り返り、仰天した。

「なに、お前……」

 驚いているのはティールタも同じだ。膝の上にはクシャとラヴァがいて、ふたりともまるで安心できる場所に暖かくくるまっているとでもいうように安らかに眠っているのだ。

「な、なぜこのようなところに!?」

「わたくしにもわからないわ。気づいたらここにいたのよ!」

 ラーヴァナはプシュパカに声をかけ、再び蜃気楼の森へ戻ろうとした。しかしラーヴァナが声を上げる前に、ティールタがそっとささやきかけてきた。

「この子たち、一緒に行きたいんじゃないかしら。だからついてきたのだわ」

「自分で自分の身を守ることもできないのに、足手まといだ」

 顔を歪めてラーヴァナが言うと、ティールタが悲しそうな顔をした。その表情に責められているような心持ちになってラーヴァナは視線を逸らせ、それ以上何も言わなかった。ちらりとティールタの腕の中を見ると、子供たちは何食わぬ顔でなおも眠っている。

 プシュパカは、なおも大きな翼を翻して天を駆ける。やがて見えてきた大きな雲の固まりを、ティールタが指を差した。

「あれが、メール山の頂上よ」

 ティールタの指の先を見上げる。ラーヴァナは目を懲らしたが、山の頂上を隠す厚い雲の向こうを見ることはできない。

「霞んで、見えないな」

「ええ。八守護天の住まいで一番高いところにあるのは、南方天ヤマ様の居城のヤマプリー。でもそれ以上高いところ、アマラーヴァティはメール山の頂上にあるの」

 振り返ると、ティールタは山頂を見ていた。どこか脅えたような目をしているのに、天界人は本能的にアマラーヴァティの結界を恐れるということを思い出した。

「行くのを躊躇うのなら、戻ってもいいのだぞ。止めはしない」

「いいえ、行くわ。でも……」

 はっきりと言ったわりには、ティールタはなおも躊躇する様子を見せる。

「わたくしの心は変わらないわ。けれど、体の方が嫌がるのよ。天界人の体が恐れ、拒否しているの、アマラーヴァティの結界を。この感覚、わかるかしら」

 脅えたティールタに、ラーヴァナは風を切るプシュパカの羽音に負けない声で言った。

「メール山の山頂とは、それほどに恐れられるところなのか」

 その問いに、ティールタはまたもや曖昧な表情をする。

「あの霞の下がどのような場所なのか、わたくしは知らないわ。八万四千ヨージャナの高さの頂上にあるアマラーヴァティ……見たことのある天界人は、東方天以外誰もいないの」

「ふん」

 どこか脅えた口調でそう言うティールタに、ラーヴァナは唇の端を歪ませて笑い、そしてクシャとラヴァを見て言った。

「お前たちは、あそこに戻りたいのか」

 ラーヴァナがそう言うと、クシャが笑ったような気がした。しかしラヴァは変わらず目を閉じて眠ったままだ。プシュパカの背の上、吹く風に髪を揺らしながら、ティールタの腕の中で何をも知らぬ顔をして眠っている。

 プシュパカの行く手を遮るものがあった。目の前を貫く大きな稲光だ。驚かされたプシュパカは妙な鳴き声を立てた。飛び散る火花の中から、燃え上がる炎が現れる。

「お前は……」

 アグニだ。彼の髪がたなびいて炎に見えたのだ。彼は、やはりたてがみを炎のように踊らせた黒馬に乗っている。

 ラーヴァナはとっさにティールタと、その腕の中の赤ん坊たちを庇った。サーラメーヤが、ひとつ小さく唸る。

 皆が一斉に警戒を示したことに対してか、アグニは苦笑いをした。

「害をなすつもりはない。降りろ」

「なんだと。なぜ、私がお前の言うことに従わねばならない」

「いいから、降りろと言っているのだ」

 アグニは頑なにそう言った。その表情からは、口調とは裏腹にどこか懇願する色が見えた。それに気づいたラーヴァナは頷き、プシュパカを促して山の斜面に降りた。

 足もとは深い下草がたくさん生えていて、一歩踏むごとに涼やかな匂いが沸き立つ。その匂いは体を清涼にしていくようだ。

 子供たちを抱いたティールタも、トリナヴァルタも、そして傍らを飛んでいたサーラメーヤも地に足をつけたのに、アグニだけはそうしなかった。

「人に降りろと言っておいて、お前はそうしないのか。下馬しろ」

 しかしアグニはラーヴァナの言葉を無視した。馬から下りないまま、ラーヴァナに細長い何かを手渡した。

「これを」

 白い布に何かが包まれている。受け取り、布をほどくとそこには金色に彩られた剣があった。鞘を抜くと赤く燃える刀身を持つ剣が現われ、それでいて触れても熱くはない。

「ガドガという。炎の守護を持つ剣だ。お前に貸しつけてやる」

 そんなラーヴァナをなおも見ず、炎の色の髪に目を隠したままアグニは口早に言った。

「スーリヤには気をつけろ。何を考えているのかは俺たちにもわからない。昔はああではなかったのだが……スラーディパの転身の直前から突然今までにない能力を持ち、今まで俺たちの知っていたのとはまったく違うスーリヤになった」

 アグニは馬上から視線を下ろし、初めて真っ直ぐにラーヴァナを見た。じっと見据えられてたじろいだが、アグニが尊大な口調はそのままに、眼差しの色だけを変えた。それはラーヴァナの寝所にソーマとともに現れたときと同じ、頼み込むような目の色だ。

「アマラーヴァティは今までのようではない。具体的にどうとは聞くな。俺にもわからないのだ。ただスラーディパが転身し人間界に落ちたときから、天界の中心が荒れているのを感じる。アマラーヴァティで何が起こっているのか……想像することもできないし、それをするのも恐ろしい」

「天界人であるのにか」

 ラーヴァナはアグニを煽ろうと、わざと嘲笑したようにそう言った。しかしアグニはラーヴァナの挑発には乗らず、再び馬の手綱を取ってこの場を去ろうとした。

「待て……なぜ、私に加勢するようなことをする。お前たちもスラーディパを渡せと言っていただろうが。それなのに、なぜこうも態度を翻す」

「スラーディパを欲しがるのは、スーリヤの望みだ。俺もソーマも、変わってしまったスーリヤの力を前に逆らえない。だから、こうやって……」

 アグニはティールタの腕の中を見やり、馬を下りるとその場に跪いた。その礼がティールタの腕の中の子供たちに向けたものであることは、誰の目にも明らかだ。

「スラーディパがお前を信頼しているから、だからそれを渡したのだ。粗末に扱うようなことがあれば、お前もただでは済ませない。いいな」

 ラーヴァナは、ティールタの腕の中にいるクシャとラヴァを見た。あどけない子供の姿にしか見えない彼らをじっと見て、そしてラーヴァナは視線をアグニに戻した。

 アグニは、クシャとラヴァを痛々しいというように見る。そして馬に飛び乗りその腹を蹴った。馬は一声嘶いて、そのまま空に翔る。アグニの姿はたちまち見えなくなる。

 彼の残した軌跡に虹色に光る炎が残ったのに、ラーヴァナは視線を奪われた。

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