第二十一話
ご案内いたします、とサーラメーヤが言った。ラーヴァナは頷く。
自分にも理解できる言葉が犬の口から発せられているということに、少しばかり戸惑った。ティールタが何を相手にしても話はできると言ったが、それはこういうことなのだろうか。四つの目で鋭く見つめられる迫力に、ラーヴァナの足はサーラメーヤの歩みに従う。
暗い廊下には、ふたりと一匹の足音がぺたぺたと響く。窓のひとつもないそこは、壁のところどころにかけられた燭に灯る薄青い蝋燭の明かり以外、何もない。しかも床は濡れて湿っており、ラーヴァナの編み靴は何度も滑って転びそうになった。
「お気をつけください、テージャス様、ラーヴァナ様」
サーラメーヤは、振り返って言った。
「このようなところで転びますと、浮遊するプレタに足を掴まれないとも限りません」
「何だ、プレタとは」
再び歩き始めたが、得体の知れないものに対する怖じ気からか、歩みは自然、ゆっくりとしたものになった。
「死んだ人間の、ピトリにもラークシャサにもなる前の姿でございます。どちらでもないからこそ不安定で、近づくもの何にでもしがみつきたがる。プレタにつかまると、なかなかにやっかいでございます」
サーラメーヤの言ったとおり、よく目を懲らすと石造りの床や壁から、ぼんやりとした青いものが見える。それは人の手だったり顔だったり、そしてそれと目が合うと、引き寄せようとでもするかのようにゆらゆらとうごめく。
それを見つめるラーヴァナの傍ら、うなだれたテージャスがつぶやいた。
「トリナヴァルタのこと……申し訳、ございません」
「なぜ、お前が謝る」
ラーヴァナはいささか冷たい声で言った。テージャスはますます俯いた。
「私が、至らなかったから……。私は、王であるのに。何もできない。そんな自分が歯痒く……もどかしいです」
ラーヴァナは足をとめなかった。それどころかますます歩調を強くした。
「誰も、トリナヴァルタのことがお前のせいだなどと思ってはいない。自惚れるな」
滑りそうになって、下半身に力を入れる。サーラメーヤが、気遣うように見やってきた。
「トリナヴァルタがどこ知れぬ場所にいるのも、何か意味あってのゆえのことだ。お前が蜃気楼の森の王でありながら人間界にいたのも。私がここにいるのも。すべて、意味があってのことなのだから」
ラーヴァナは睨むようにテージャスを見た。彼は、不安げな目をする。
「しかし、その意味を見出すのはその者次第だ。意味を見いだせなければ、ぼんやりと生きて、死ぬだけだ。トリナヴァルタも、お前も」
それはテージャスに話しかけるというよりも、彼自身に言い聞かせるようだった。
「そして、私もだ」
「兄上……」
つぶやくテージャスの声を耳に、ラーヴァナは突然明るいところに出て目をしばたたかせた。いつの前に、どこをどう出たというのか。目の前は鬱蒼とした草の茂った森だ。こうもあっさりと出られたことに拍子抜けしたが、聞こえてきた声にもっと驚いた。
「ラーヴァナ!」
視線の向こうにいるのはティールタだ。ティールタは、両腕にしっかりとクシャとラヴァを抱きしめていた。彼女は長い髪を乱し、息を切らせている。驚くほどにその顔色は悪く、それでも抱いたクシャとラヴァに衝撃を与えないように注意を払っているのがわかる。
「テージャス様!」
ティールタは声をあげる。クシャとラヴァを抱いたままその場にひざまずいたのを、立つように促した。ラーヴァナが、鋭い声で尋ねる。
「なぜ、お前はここにいる」
「なぜって、捜したのよ! ヴァルナ様が、目の前でテージャス様がいらっしゃらなくなってしまったっておっしゃって」
「子供を連れたままか」
彼らはやはりティールタの腕の中、無垢な様子のまま眠っている。
「……ついて来るのよ」
言い訳するように、ティールタは言った。指先で赤ん坊たちの額の髪をかき上げてやる。
「もちろん、大樹の城を出るときにはウルヴァシー様たちに預けてきたわ。でも気づいたらここにいるのよ。わたくしと一緒に来たいと思っているとしか思えないの」
ティールタは、はっと顔をあげる。テージャスの前、さらりと髪を垂らして会釈する。
「お城で、皆が待っております。どうぞ、わたくしと一緒においでになって」
言葉を途中で切り、ティールタは離れた場所にいたサーラメーヤに驚いた声を上げる。
「あなたは、ヤマ様の従者ではないの」
「サーラメーヤと申します。よろしくお見知りおきのほどを」
サーラメーヤは礼儀正しく挨拶をした。ティールタは、戸惑いながらも頷く。
「どうして、テージャス様とラーヴァナと一緒に?」
「ヤマ様のご命令でございますので」
「どうしてここにヤマ様が出てくるのかしら。もしかしてラーヴァナは、ヤマプリーに流れ着いたの?」
「それは……」
どこから説明すればいいかと迷うテージャスを、ティールタはじっと見た。しかし立ったまま話をするのも適当でないと思ったのか、自分の来た道を指差して、言った。
「ともかく蜃気楼の森に参りましょう。皆がテージャス陛下をお待ち申し上げております」
手を上げたティールタが口笛のような音を立てると、羽ばたきの音がして白い鳥が現れた。バジェワーという名だと、ティールタが説明する。ティールタの足もとに舞い降りたバジェワーは、大人しくその頭をティールタの膝あたりに擦り寄せた。
「お乗りなさい。蜃気楼の森の、大樹の城に案内するわ」
「乗るとは言っても……この、鳥にか」
ラーヴァナとテージャスどころか、ティールタと子供たちが乗るだけでも潰れてしまいそうに華奢な鳥だ。躊躇うラーヴァナに、ティールタは笑った。
「大丈夫よ。あなたと私が乗っても潰れたりはしないし、飛べないということもないわ」
乗ってみるように言われ、恐る恐るバジェワーの背に手を置く。またがるとバジェワーは翼を広げ、その大きさにラーヴァナは声をあげた。
ラーヴァナはテージャスの手を引き、自分の後ろに騎乗させる。続いてティールタと子供たちが腰を下ろしたことを確かめると、バジェワーは大きく羽ばたいた。
「う、わっ!」
見る見る地面が遠くなっていく。横を見れば羽根もないのにサーラメーヤもともに空を飛んでいて、驚くラーヴァナに向かって微笑むような顔をした。
見上げるばかりの大きな山が目の前にそびえ立っている。鬱蒼とした濃い緑の木々に覆われていて、いくら首を痛くしても頂上は見えず、上の方は霞んで濃い雲に包まれている。
「天界の中心であるメール山は、その高さ八万四千ヨージャナ、深さが一万六千ヨージャナ。天界を上下四方に渡って支え、その周りを四つの島が取り巻いております」
風の中、ティールタが歌を歌うように言う。
「テージャス様、ごらんください。あちらがメール山を囲む島々です」
ラーヴァナの左肩の後ろから手が伸びて、細い指が先を指した。
「バドラーシュヴァ、ケートゥマーラ、ジャンブ・ドヴィーパ、そしてウッタラクル」
ティールタが指差して教えてくれる。しかしラーヴァナは目をしきりにしばたたかせながら、指差された場所に目をやるので精一杯だ。
視界の端に、ティールタの髪が風に流れているのが見える。前を指差していたティールタは、その手を広げて天に向けた。その先にはそびえるメール山があって、噎せ返るような緑の匂いが風に乗って運ばれてくる。
「天界の中心は、メール山。この山にはデーヴァからラークシャサまで、たくさんの生きものが住んでおります。蜃気楼の森は、メール山の北西の山麓にございます」
バジェワーのゆったりとした羽ばたきが、急に忙しないものになった。
「なに、どうしたの?」
ティールタがバジェワーの首を撫でるが、バジェワーは唸るような声を上げ、急に高度を下げていく。サーラメーヤも慌てて従い、皆は地面に降りることになった。
「どうしたというのだ、いったい」
唸るような声を上げてその場に縮まってしまうバジェワーを、ティールタが懸命に宥めている。トリナヴァルタも気遣わしげに白い鳥を見つめていた。手前の木陰から現れた者があることに気がついたラーヴァナは、とっさにそちらを向いた。
男がいた。濃い金髪にラーヴァナと同じような浅黒い肌の、長身の男だ。目を眇めてラーヴァナたちを見つめ、その口もとには薄い笑みが浮かんでいる。彼のその微笑み方は、どこかヴィビーシャナを思い出せる。
「スーリヤ様……」
ティールタが、驚いた様子を隠しもせずに言った。スーリヤと呼ばれた彼は微笑んで、ティールタを見やる。正確には、その腕の中にいる赤ん坊たちをだ。
「なぜ、ここにスーリヤ様が? 供のおひとりもおつけにならないで」
そう言ったのはサーラメーヤだ。ラーヴァナにもスーリヤはティールタたちとは違う、ヤマと同じように力のある者に感じられる。それなのにたったひとりで腰に剣を携えるでもなく、まるでただ散歩にでも来たかのように何気ない様子でそこにいるのだ。
「あの方です」
テージャスが、ラーヴァナに告げた。
「あの方が、トリナヴァルタを……あの不思議な、眼の力で」
スーリヤは一歩踏み出した。金色の編み靴のつま先は、真っ直ぐにティールタに向いた。感じた不穏はサーラメーヤも同じであったらしく、彼は低く呻いて牙を剥いた。
「そこなアプサラス。スラーディパを渡しなさい」
「なぜだ」
戸惑うティールタの前に一歩進み出て、ラーヴァナは言った。スーリヤはラーヴァナを横目で見、訝しがる様子を隠しもせずに眉を顰めた。
「その理由を聞く理由が、あなたにあるのですか」
口調は丁寧ながらも、スーリヤの口調はそれだけに慇懃無礼に響く。ラーヴァナはむっと眉根を寄せ、吐き捨てるように言い放った。
「あるな。私は、あの子供たちの養い親だ」
「養い親……」
その言葉に、スーリヤは少し考える様子を見せた。そして小さく噴き出したのに、ラーヴァナはますます苛立った。
「何を笑う」
「スラーディパも難儀な身に転身したものだとね。養い親だと人間に大きな顔されたり、ひとりでは移動さえもままならぬ体を持ったりと」
なおも侮る様子を隠さずに、しかしスーリヤは少し首をかしげた。そしてじっとラーヴァナを見る。
「もっともあなたは、ただの人間ではないようですが。然りとて天界人でもない……」
「なぜお前は、スラーディパの身柄を欲しがる。理由も述べずに」
彼の言葉を遮ってそう言ったラーヴァナに、スーリヤは目を眇めた。彼は少し考える素振りを見せ、そして笑みを浮かべた。投げつけられたのは、侮蔑を含んだ言葉だった。
「無知な者にいちいち教える面倒など、私の好むところではありません」
そしてスーリヤは、またティールタの腕の中のクシャとラヴァを見やった。その視線はスラーディパに敵意を持つようでありながら、それでいてどこかそれ以外の感情が交ざっていることにラーヴァナも気がついた。しかしそれが何であるのかまでは読み取れない。
「私の邪魔をするのなら、それ相応の応えを返すだけですよ。わかっているのでしょうに」
ティールタが小さく悲鳴を上げて、クシャとラヴァをぎゅっと抱きしめた。ティールタの腕の中で小さな声を上げたのはクシャで、ラヴァはやはり瞼を伏せて眠っている。
「さぁ、スラーディパを渡しなさい。そちらの人間にはわからなくても仕方がありませんが、あなたになら天の秩序は理解できるでしょう。アプサラスの分際で八守護天に逆らうほど、馬鹿ではないと願っていますが」
ティールタは、ぎゅっとふたりを抱きしめたままだ。その手が震えているのがわかる。サーラメーヤが、彼女を力づけるように足もとに寄り添う。そしてまた、スーリヤに向かって牙を剥いた。
「さぁ、早く」
しかしティールタは、子供たちを抱きしめたまま微動だにしない。スーリヤは表情を固くした。しかしそれは一瞬のこと、すぐにもとの薄笑みを浮かべた顔に戻り、すっと右手を差し出した。
「渡さないのなら、力尽くで奪うだけです。あなたたちの身の保証まではいたしませんよ」
スーリヤの赤い眼が光ったような気がした。テージャスの言っていた眼の力とは、これか。それはそれを見つめていてはいけないと思うのに、目が離せない。それはラーヴァナだけではないようだ。傍らのテージャスも、硬直して動かない。
サーラメーヤもクシャとラヴァを抱きしめたティールタも、スーリヤの赤い眼の前に力を奪われていっているのが感じられる。だんだん呼吸が苦しくなる。大きく息を吸うと、入ってくるのは焼けたような熱さの空気だ。
スーリヤの眼があたりの空気の温度を上げているとでもいうのか。五体が引きちぎられる痛みに耐えるテージャスの耳に、ほかの皆の苦しむ声も聞こえる。
このような不条理な目に合わされる理由などない。そう思うと体の中で、何かがかっと熱くなるのが感じられた。
「やめなさい、西南方天」
突如、涼しい女性の声が響いた。そこにいた誰もが耳をそばだてる。
「この者たちを苦しめてどうするというの。あなたの目的はわたくしでしょう。わたくしを守ってくれている者たちには、関係がない」
スーリヤは、赤い眼を大きく見開いた。その表情に、テージャスは目を瞠る。先ほど感じた、スラーディパに対しての敵意に混ざった別の感情、それを再び見たような気がした。
「……黙れ」
どこまでも慇懃な態度を崩さなかったスーリヤの声音が、乱暴なものに変わった。歯を食い縛るようにして、彼の尖った赤い眼が睨みつけているのは赤ん坊のうちのひとりだ。もうひとりは変わらず目を閉じて眠っているのにそちらは大きく目を見開き、じっとスーリヤを見ている。痩せて小さな子供の眼力に立派な体格をした者が対抗できないとでもいうのか、スーリヤは明らかにたじろいでいる。
「天界人は死なない、何度でも転身して蘇る。それは時の揺らぎに従うまま、誰も彼もがただ流されるものでしかないということ。それをあなたは知ったのではなかったのですか」
「黙れ、黙れっ!」
スーリヤは叫んだ。ティールタに駆け寄り、腕の中の子供たちに無理矢理手をかけた。
ティールタは悲鳴を上げて、しかし子供たちを離すことなく抱きしめた。しかしスーリヤは力任せに奪おうとする。ティールタの細い肩に手を置いて、やはり細い腕から子供をむしり取ろうとする。
「離せっ!」
ラーヴァナは地面を蹴り、ふたりを引き離そうと飛びついた。しかし先に動いたのはテージャスだった。彼はスーリヤの腕を掴んで力を込める。スーリヤの浅黒い肌にテージャスの白い指が食い込んだ。
「邪魔だ!」
スーリヤは叫び、テージャスを振りほどく。その赤い双眸をティールタに向けた。ティールタは身を硬直させる。スーリヤは素早く、手のひらをティールタに向けた。
「ティールタ!」
目の前が真っ白に眩しくなって、何も見えない。手を差し伸べようにも、光の熱さに遮られて近づけない。ティールタの呻きが聞こえ、それはややあって、消えた。
体を焼くような高い熱を発する光が減じ、やっと目を開けられるようになった。そうやって見た目の前の光景に、ラーヴァナは驚愕する。
そこにあったのは、ティールタの変わり果てた姿だった。
ティールタは一瞬のうちに、炭の固まりになっていた。抱きしめたクシャとラヴァは傷ひとつないのに、ティールタは人の形をした炭だ。鼻を衝く悪臭があたりに広がって、それは肉の焼ける匂いだ。ティールタはゆっくりと倒れ伏す。
「な、に……?」
視線の向こうには手のひらをかざしたまま、赤い眼でティールタを睨みつけるスーリヤがいた。ティールタの惨たらしいさまに満足したように、唇の端をゆっくりと持ち上げる。
「ティールタ、ティールタっ!」
ラーヴァナが駆け寄って名を呼びかけても、焼け焦げた体から返事が返ってくることはない。彼を抱き起こしたくとも煙を吐き燻る肉塊には触れる余地もない。ラーヴァナは顔を上げて、きっとスーリヤを睨みつけた。
「お前……ティールタを!」
「私の邪魔をするからですよ。素直にスラーディパを渡してくださればよろしいのに」
ティールタにしたことを何とも思っていないような彼を前に、どうしようもない怒りが体の奥から湧き上がる。体の奥で何かが熱く沸き立つ感触は、
「貴様……!」
得意とする剣も弓も、手には何もない。しかしラーヴァナは、持ち上げた右手が自分のものではないかのように熱せられていることに気がついた。スーリヤの赤い眼が、驚いてラーヴァナを見ていた。
ラーヴァナは、熱い右手のひらを握りスーリヤに向かって勢いよく突きつけた。腹部を打たれたスーリヤが大きな声を上げて、何か大きなものがぶつかったかのように背後に吹き飛んだ。大きな音を立てて立木にぶつかる。そのまま呻きを上げて地面に突っ伏した。
「な、に……?」
いきなり殴られて驚くスーリヤにラーヴァナは駆け寄り、彼の肩口を押さえつけると握った拳で彼を殴った。繰り返し、力任せに振り下ろす拳には常ならぬ力に満ちていて、自分のものでありながら同時にそうではないような迫力に、ラーヴァナ自身が圧倒される。
「ば、かな……このような者に、これほどの力が……?」
スーリヤの驚きは軋む呻きとなり、口から溢れる。彼はラーヴァナに抵抗できないようだ。トリナヴァルタをあのような目に合わせるほどの力を持っていながらラーヴァナの拳に逆らえないことが不可解であるようだが、不可解であるのはラーヴァナも同じだった。ただ、ティールタをあのような目に合わせた者を前に怒りが満ちる。トリナヴァルタも同じように殺されたのかと思うと、その元凶を同じような目に合わせてやらなくては気が済まないと、ただただ怒りに支配されるばかりだ。
拳を振り下ろすたびに洩れる呻きとともに、血が流れる。ラーヴァナのなすがまま、抵抗できないスーリヤを目にラーヴァナの体の熱はますます高まっていく。
それでもスーリヤは素早く、ラーヴァナの手から逃れた。重い体を引きずるように枯れた草の上に手を這わせ、ラーヴァナを見上げたスーリヤの目は、殴られて腫れた中にあって見開かれ、ラーヴァナの背後に注がれる。ラーヴァナははっと振り返った。
消し炭のようになったティールタの腕に抱かれた赤ん坊の片方が、小さな手を伸ばして、ティールタに触れる。その手の先から、変化が起こる。
ティールタの体は、見たこともないものに変化していた。大きな蛇だ。背も腹も真っ黒で、そこかしこに大小の瘤を持っている。艶のない鱗はところどころ剥がれ、皮は爛れて血が滲んでいる。淀んだ血の色をした目もまぶたの上にも瘤があることで歪み、片目は見開いているものの、もうひとつは潰れてうまく開かないようだ。
ラーヴァナは思わず声を上げた。赤ん坊は力尽きたように、小さな手をぽとりと垂れてしまう。見れば目を瞑っていて、力尽きたのか眠りについてしまったようだ。
「その程度ですか、スラーディパ」
笑いを噛み殺すような声が聞こえた。振り返ったラーヴァナの視線の先、苦しげに顔を歪めたままのスーリヤは、眉根を寄せて苦笑した。
「ずいぶん弱くなってしまったものですね。それともそれが、東方天本来の力なのですか」
スーリヤはくつくつと笑った。それは虚勢にも見えたし、何か得体の知れない企みを持っての含み笑いのようにも見える。
空に手を伸ばしたスーリヤに呼ばれたように、一匹の白い馬が現れる。それは自分だけの力では動くこともままならない主人を咥えて、痛みを感じさせないようにというように丁寧に背に乗せ、そのまま天に駆け上った。
ラーヴァナは、唖然と白い馬の残した軌跡を見やる。そして慌てて、ティールタだったもの――黒い蛇に目をやった。
「何だ、これは」
地面に、力尽きたように体を投げ出す異形の蛇。その胴に包まれるように、ふたりの赤ん坊は目を閉じている。
「ティールタは、どこに行ったのだ」
「さ、ぁ……」
戸惑うばかりのふたりの横に、サーラメーヤが歩み寄ってきた。その四つの目が、じっと黒い蛇と赤ん坊たちを見やっている。
「お前にはわかるか。この蛇と……クシャとラヴァが、何者なのか」
サーラメーヤは、四つの目をまばたきさせた。くん、と鼻を鳴らすようにする。
「この蛇からは、アプサラスの匂いがいたします。そして赤ん坊からは……東方天の」
「東方天……」
すでに何度も聞いた名称だ。それがこの天界で重きをなす者の存在であることはラーヴァナにもわかっている。しかしなぜそのような者が、赤ん坊の姿でここに。
「陛下!」
声に振り返る。そこにはウルヴァシーがいて、驚くラーヴァナたちの前、跪いた。
「蜃気楼の森に、ようこそおいでくださいました」
そして彼女は、ラーヴァナのほうをも振り向いた。なぜ彼がここにいるのか、不思議でならないといったようだ。テージャスが声をあげる。
「あの、兄上にはジヴァラマンディラでお会いしました。ふたりで走っていたら、いつの間にかここに……」
「まぁ、ジヴァラマンディラから? 人間であるラーヴァナさまが、いかにしてジヴァラマンディラからお出になりましたの?」
ウルヴァシーは、不可解だという顔をした。しかしウルヴァシーにわからないことが、テージャスにわかるはずもない。ラーヴァナは眉をしかめたままあたりを見回し、言った。
「ここが……蜃気楼の森、か?」
「然様でございます」
見渡す限り、鬱蒼と茂る緑に噎せ返るようだ。水気の多い空気が体を包み、体は喜んで瑞々しい空気を貪っているようだ。こうしてみると、ランカー国の空気は非常に乾いていたということがわかる。
「陛下はこの森の王にあらせられます。皆、陛下のおいでを心待ちにしておりました」
顔を上げるとたくさんの白い鳥が青い空を舞っていた。それぞれに鳴き交わす声は、まるで何かを喜んでいるかのようだ。何かを――蜃気楼の森の王の帰還をか。
「バジェワーたちも、陛下のおいでを歓迎しております」
「しかし……」
テージャスが振り返った先を、ウルヴァシーが見やる。その目の先には、黒い蛇。その姿にウルヴァシーは息を呑んだものの、すぐにテージャスに向かって頭を下げる。
「どうぞ、ティールタを転身後の姿に戻してやってくださいませ」
そう言われてテージャスは驚いている。ラーヴァナは眉根を寄せてウルヴァシーを見た。
「あれは、ティールタの転身前の姿。ティールタはあの姿からアプサラスとして転身し、テージャス様にお仕えする者となったのでございます」
「しかし、どうすれば……?」
戸惑うテージャスに、ウルヴァシーは穏やかに微笑んだ。
「触れてやってくださいませ。そうやって、呼びかけてやってくだされば」
テージャスは惑うようにラーヴァナを見、ラーヴァナは頷く。テージャスは恐る恐るというように手を差し出し、ところどころ剥がれかけ、血の滲んだ鱗に触れた。
「ティールタ……」
そして彼は名を呼びかける。テージャスは大きく身を震い、それと同時に黒い蛇が姿を変えていく。テージャスの触れたところから少しずつ、ラーヴァナの見慣れたティールタの姿に。その腕にはふたりの赤ん坊が抱かれていて、彼らは安らかにただ眠っている。
「なに、これは!?」
突然の声に驚いた。振り返ったラーヴァナは、薄い銀髪と鮮やかな青の瞳の青年を見た。
「暗冥のナーガ……! アプサラスに姿を変えても、ラークシャサであることには変わりない。アプサラスの仮面をかぶったって、染み出す下賤の匂いは拭えないよ!」
男は一気にそう口走り、そして大きく息をついた。起きあがったティールタは大きな目をまばたきもしないで見開いたまま、体中を震わせている。
「ヴァルナ、いったいどういうことなのです?」
テージャスが問う。ヴァルナと呼ばれた男は、鋭い瞳でテージャスを見やった。
「そのアプサラスが、ヴァーユを人間界に連れて行ったんだ。ヴァーユの堕天の元凶だ!」
「待て、ヴァルナ」
ヴァルナの後ろから、また別の男が現われた。ずいぶんと小さな男だ。背が曲り、ランカー国の民のように浅黒い肌を持ち、黒い髪と髭は顔の半分を覆っている。
「クベーラ……」
その名に、ラーヴァナは目を瞠る。華麗なる美神として、祖国の民たちの信仰を集めている神ではないか。そのクベーラ神が実際はまったく違う容姿の持ち主であることに、芝居の役者ではないのだから美醜は関係ないとはいえ、信仰心の深い民たちは、目の前のクベーラを見ればなんと言うだろうか。
「ヴァーユは己自身で望んで堕天したのであろうに。あのアプサラスがどのような形で手を貸したにせよ、望んだのはヴァーユ自身であろう」
ヴァルナは、自分を諫めるクベーラが宿敵であるかのように睨みつけた。どこか飄々としていて大声で怒鳴るなど似合わないような見かけのヴァルナがこれほどに激昂するとは、ティールタの蛇の姿は、よほどに嫌忌されるべきものなのか。
ティールタは震えている。クシャとラヴァを抱きしめたまま、その薄赤い唇が開く。
「わたくしが……暗冥のナーガ? アプサラスでは、なく?」
「ティールタ」
静かな声がその場を走った。それは傍らに控えていたウルヴァシーだ。彼女は控えめな、しかしはっきりとした口調で言った。
「あなたは、テージャス陛下をお迎えに上がろうとひとりで人間界へ向かったわね。あのとき、どうして易々と沈黙の海を越えられたと思う?」
ティールタはなおも驚愕の表情で、こぼれ落ちそうなまでに大きく見開かれた瞳をウルヴァシーに向ける。
「あなたが、暗冥のものとはいえ、ナーガだからよ。八守護天でさえ、ナーガの力がないと沈黙の海を越えられない。人間界へは行けないというのに」
「わたくしは……」
「ランカー国から蜃気楼の森にも、戻ってくることができたわね。それは、あなたのナーガとしての力があったから。あなたはナーガだったから、ひとりで戻ることができた」
ウルヴァシーの言葉に唖然としたまま、ティールタがつぶやく。
「わたくしは、不思議だった。なぜかときどき、この身がアプサラスであることが信じられなくて……アプサラスだと言ってもらえると、とてもとても嬉しくて」
しゃくり上げるように、ティールタは咽喉を鳴らした。
「それは、わたくしが暗冥のナーガだったから……。ウルヴァシー様は、それをご存じで?」
ウルヴァシーは悲しげに頷いた。ティールタはその場に崩れ落ちてしまう。ラーヴァナはとっさに彼女を支え、なおも怒り収まらぬといったヴァルナを見やった。
再びの怒りに叫び出しそうなヴァルナを遮ったのは、クベーラだ。
「ヴァルナ。それではお前はティールタが、嫌がるヴァーユを無理矢理人間界に連れて行ったと申すのか?」
クベーラの言葉に、ヴァルナは言葉に詰まってしまう。
「違うであろうが。人間に恋をしたヴァーユがティールタに頼み、人間界へと向かったのだろうが。その褒美に、ティールタはアプサラスに転身した。そこのどこに、お前が口を挟む余地がある」
「……っ!」
ヴァルナは口の端を引きつらせ、クベーラを仇のごとくに睨みつけた。
「マカラ、おいで!」
ヴァルナが口笛を吹くと水辺がざわめく。と思うと空気がいきなり波打つように変化して、そこから紡錘形の、魚の鰭のような手足を持った水色の生きものが浮かび出た。ヴァルナは慣れた様子でその背に飛び乗る。その姿は、たちまち空気の中に消えていった。
「ヴァルナは、未だヴァーユのことを諦めかねておるのかの」
彼の去っていったあとを見つめながら、クベーラはつぶやいた。それに返事をしたのはウルヴァシーだ。
「それは、ヴァルナ様だけではいらっしゃいません」
ウルヴァシーは、彼と同じ方向を見ながらつぶやいた。そんな彼女の声の調子に、ラーヴァナははっとした。まだランカー国にいたころ、テージャスとともに四阿で話したウルヴァシーが、憂う表情とともに語ったことを思い出す。
ウルヴァシーと目が合った。彼女は、あのときの憂いなど感じさせない表情で微笑んだ。
「蜃気楼の森の城にお連れいたしましょう。陛下のおいでを、皆待ちかねております」
ウルヴァシーに案内されるままにラーヴァナたちが少し歩くと、すぐに城が見えてきた。城とはいってもランカー国でのようなものではなく、それは巨大な樹木だった。この中に入るのかと躊躇うラーヴァナとテージャスに、ウルヴァシーは微笑んだ。
「驚かれることはありません。中に入ってしまえば、このお城が木であることなど忘れてしまいますよ」
しかしサーラメーヤは、中には入らないという。巨木から離れたところで座り込んだサーラメーヤは、言った。
「ここは、北西方天の気の強いところ。ほかの八守護天の眷属である私には、いささか居心地の悪いところでありますゆえ」
ウルヴァシーの言葉通り、中は光に満ちていた。木の幹は、外から見れば信じられないほどの巨木である以外は普通の幹だが、中からは表が透けて見える。外郭壁はすべて透明で一片の曇りもなく、まるで何もないようだ。ゆえに城の中は太陽の光に満ちあふれ、象眼などほとんどない柱や壁に目映いばかりの輝きを放っている。
「ようこそお戻りなされませ」
「お待ちしておりました、陛下」
白く広い廊下のあちこちからガンダルヴァとアプサラスが現れ、口々に帰還を祝う言葉を向けてくる。テージャスが目をやって微笑むと、アプサラスは歓喜の声を上げ、ガンダルヴァは深々と頭を垂れる。蜃気楼の森の民といえば重々しく威厳のある者たちだと思っていただけに、特にアプサラスたちの賑々しい小鳥のようなさまには戸惑った。
白で統一された大きな部屋の、鳥の羽根を詰めた大きな茵に腰を下ろしたとき、ラーヴァナは大きな深いため息を洩らしていた。それはテージャスも同じで、ふたりして目を見合わせた。
ふたりの目の前に座ったのはクベーラだ。ラーヴァナは身を乗り出し、いきなり言葉を切り出した。
「アマラーヴァティへ行く。どうやっていけばいいのか、教えろ」
アプサラスたちは、主たちの話を聞かない素振りをするという礼儀も忘れてざわめいた。
驚愕する女官たちの声を背に、クベーラは驚愕に小さな目を見開く。彼の表情は、同じことを言ったラーヴァナを前にしたヤマとは裏腹だ。ラーヴァナは苛立ち、言った。
「なぜお前たちが行こうとは思わないのだ。ヤマは、カーラを知りうるのはスラーディパのみ、そのあるはアマラーヴァティだと言っていた。お前たちこそ知るべきではないのか。知りたいと思うべきではないのか。なぜ誰ひとりとして知ろうとはしないのだ。アマラーヴァティとは、それほどに恐れられる場所か」
「それは……」
クベーラは顔を歪めた。
「アマラーヴァティは結界の張られた、余人の立ち入りを許さぬ場所だ。そうでなくても天界人にとっては、本能的に恐ろしい場所」
呻くようにクベーラは言った。そして苦い顔をし、口を噤んだ。
「それでもそなたは行くのか。アマラーヴァティに近づけばどうなるかわからぬというに」
ややあってのクベーラの言葉に、ラーヴァナは躊躇いもなく頷いた。
「当然だ。そう言ったであろうが」
「それが、天界を揺るがす災いの蓋を開けることになってもか」
「天界を揺るがす、災いの蓋」
クベーラの言葉を繰り返して、ラーヴァナは笑った。
「私にはどうでもいいことだ。私は人間だ。天界がどうなろうと知ったことではない。私にとっての天界は、人間界に災いをなすだけの難儀な処だ」
「天界の乱れが、人間界の乱れに繋がってもか?」
クベーラの言葉に、ラーヴァナは目を見開いた。
「このたびのこともそうであろうが。スラーディパが行方知れずになったことが、ランカー国に災いをもたらした。そなたが開けた災いの蓋があらゆる災厄を人間界にもたらしたとしても、それでもそなたは構わぬというのか」
ラーヴァナは口ごもった。ラーヴァナの躊躇いを見逃さなかったらしいクベーラは小さく笑い、それに煽られてラーヴァナは声を荒らげた。
「だからといって、目の前に求める答えがあるかもしれぬのに、それを見過ごすことなどできない。関係のないことだと通り過ぎることなど、絶対にできない!」
乱暴なラーヴァナの口調にクベーラはしばらく彼を見つめ、そして笑った。
「そなたには、カーラなどを吹き飛ばしてしまうような気概があるの」
この鼻の丸い小男はともすれば滑稽な印象を与えるものの、そのような表情には慈父の慈しみがあった。ラーヴァナは彼を見つめ、クベーラはなおも微笑んだ。
「そなたはテージャスの兄だ。無碍に扱おうとは思わぬよ。力は惜しまぬ」
クベーラは知恵者の年寄りの目をして、言った。
「アマラーヴァティに向かうときには、プシュパカを遣わそうぞ。バジェワーよりも大きく、強い。そなたたちすべてを乗せても悠々と飛べる。アマラーヴァティの結界をも恐れぬように言いつけておこう」
「……痛み入る」
ラーヴァナの礼に、クベーラはにやりと笑っただけだった。